法句経 ダンマパダ(真理のことば)
ダンマ(真理、法)、パダ(ことば、句)という意味で、「真理のことば」といわれ、漢訳では「法句経」と訳される。
パーリ仏典の中のお経で、仏陀が当時使用していた言葉の「パーリ語による経典」である。パーリ仏典の中で最も有名で最古な経典で、「東方のバイブル」と言われている。
パーリ仏典の三蔵(経・律・論)の中の経蔵にあたり、経蔵の中の小部経典にあたり、小部経典の第二経が「ダンマパダ」である。
全体は二十六章に分かれており、全四百二十三の短い詩句から成る。

各句の末尾に記載されている項目は、法句経関連書籍の当該番号と対応ページです。
例として、(010)の句の末尾に [06]94頁、[11]74頁 と有りこれは、法句経関連書籍の[06] 松原泰道『仏教を読む⑥ 迷いを超える 法句経』(集英社)の94ページに、また [11] 片山一良『NHK宗教の時間「ダンマパダ」をよむ~ブッダの教え「今ここに」(下)』(日本放送出版協会)の74ページに、当該句についての解説があります。

当サイトは、あくまでも自分自身の仏教学習を主な目的としていますが、ご覧頂いた方々に何らかの参考となり、仏陀の御心を共有できれば幸いです。
誤字、脱字、誤訳などは適時、訂正していきたいと思います。


ダンマパダ(真理のことば)

全26章 423句




DHAMMAPADA

法句経

(和英巴漢対照)

かの世尊、阿羅漢、正等正覚者に帰依したてまつる。



1章 対なる章

Chapter I. The Twin-Verses
1. yamakavagga
1章 双要品

(001)


全ての事物は心が先行し、心を主とし、心によって成る、もし穢れた心で語り、行動すれば、その為に苦しみはその人につき従う、荷車を引く牛の足跡に轍がつき従うように。


All that we are is the result of what we have thought: it is founded on our thoughts, it is made up of our thoughts. If a man speaks or acts with an evil thought, pain follows him, as the wheel follows the foot of the ox that draws the carriage.


manopubbaṁgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā; manasā ce paduṭṭhena, bhāsati vā karoti vā; tato naṁ dukkhamanveti, cakkaṁva vahato padaṁ.


心為法本 心尊心使
中心念悪 即言即行
罪苦自追 車轢於轍


心(こころ)を法(ほう)の本(もと)と為(な)す。心尊(こころとうと)く心(こころ)に使(つか)わる。
中心(ちゅうしん)に悪(あく)を念(ねん)じて、即(すなわ)ち言(い)い即(すなわ)ち行(おこな)わば、
罪苦(ざいく)の自(みずか)ら追(お)うこと、車(くるま)の轍(わだち)を轢(ふ)むがごとし。

※法:事物


[03]11頁、[04]39頁、[06]24頁、[11]10頁、[17]10頁、[21]4頁、[22]23頁、[24]16頁、[25]14頁、[26]26頁56頁


(002)


全ての事物は心が先行し、心を主とし、心によって成る、もし清らかな心で語り、行動すれば、その為に安楽はその人につき従う、影がその人の体から離れないように。


All that we are is the result of what we have thought: it is founded on our thoughts, it is made up of our thoughts. If a man speaks or acts with a pure thought, happiness follows him, like a shadow that never leaves him.


manopubbaṁgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā; manasā ce pasannena, bhāsati vā karoti vā; tato naṁ sukhamanveti, chāyāva anapāyinī.


心為法本 心尊心使
中心念善 即言即行
福楽自追 如影随形


心(こころ)を法(ほう)の本(もと)と為(な)す。心尊(こころとうと)く心(こころ)に使(つか)わる。
中心(ちゅうしん)に善(ぜん)を念(ねん)じて、即(すなわ)ち言(い)い即(すなわ)ち行(おこな)わば、
福楽(ふくらく)の自(みずか)ら追(お)うこと、影(かげ)の形(かたち)に随(したが)うが如(ごと)し。


※福楽:楽しみ幸せ


[03]11頁、[04]100頁、[06]24頁、[11]11頁、[17]10頁、[18]54頁、[21]6頁、[22]24頁、[24]19頁、[26]27頁72頁


(003)


彼は我を罵った、彼は我を打った、彼は我を負かした、彼は我から奪ったと、固く執着する人の怨みは止むことがない。
 
"He abused me, he beat me, he defeated me, he robbed me,"—in those who harbour such thoughts hatred will never cease.

akkocchi maṅ avadhi maṅ, ajini maṅ ahāsi me; ye ca taṁ upanayhanti, veraṁ tesaṁ na sammati.


人若罵我 勝我不勝
快意従者 怨終不息


人(ひと)若(も)し我(われ)を罵(ののし)り勝(か)ちて、我(われ)勝(か)た不(ず)とを、
快意(かいい)に従(したが)う者(もの)はば、怨(うら)み終(つい)に息(や)ま不(ず)。


※快意に従う者:(他人を罵り勝つことを)気持ちよく思う者


[03]18頁、[04]24頁、[06]30頁、[12]32頁、[16]106頁、[19]200頁、[21]8頁、[25]118頁


(004)


彼は我を罵った、彼は我を打った、彼は我を負かした、彼は我から奪ったと、固く執着しない人の怨みは止む。


"He abused me, he beat me, he defeated me, he robbed me,"—in those who do not harbour such thoughts hatred will cease.

akkocchi maṅ avadhi maṅ, ajini maṅ ahāsi me; ye ca taṁ nupanayhanti, veraṁ tesūpasammati.


若人致毀罵 彼勝我不勝
快楽従意者 怨終得休息


若(も)し人(ひと)、毀罵(きめ)を致(いた)し、彼(かれ)は勝(か)ち、我(われ)は勝(か)た不(ざ)るも、
快楽(かいらく)、意(い)に従(したが)う者(もの)は、怨(うら)み終(つい)に休息(くそく)を得(え)ん。


※毀罵:誹謗し罵る
※快楽意に従う者:(自分が罵られ負けることを)平静な気持ちの者
※休息:こころの安らぎ


[02]14頁、[03]19頁、[06]30頁、[09]135頁、[16]107頁、[21]8頁、[25]119頁


(005)


いつの世においても、怨みは怨みによって止むことは無い、怨みを無くしてこそ止む、これは永遠の真理である。


For hatred does not cease by hatred at any time: hatred ceases by love, this is an old rule.

na hi verena verāni, sammantīdha kudācanaṁ; averena ca sammanti, esa dhammo sanantano.


不可怨以怨 終以得休息
行忍得息怨 此名如来法


怨(うら)みは怨(うら)みを以(も)てば、終(つい)に以(もっ)て休息(くそく)を得(う)可(べ)から不(ず)。
忍(にん)を行(ぎょう)ずれば、怨(うら)みを息(や)むるを得(え)ん。此(これ)を如来(にょらい)の法(ほう)と名(な)づく。


※忍:耐え忍ぶ、忍辱
※如来の法:永遠不変の真理


[01]19頁、[03]31頁、[04]10頁、[06]33頁、[07]245頁、[08]14頁、[09]136頁、[11]160頁、[12]6頁、[14]161頁、[15]44頁、[16]107頁、[17]13頁、[19]200頁、[21]10頁、[22]29頁、[24]35頁、[25]16頁、[26]16頁、[27]75頁


(006)


我らはこの世において、必ず死ぬものであると悟らず、人がもしこの事を悟ればそれにより争いは止む。


The world does not know that we must all come to an end here;—but those who know it, their quarrels cease at once.

pare ca na vijānanti, mayamettha yamāmase; ye ca tattha vijānanti, tato sammanti medhagā.


不好責彼 務自省身
如有知此 永滅無患


彼(かれ)を責(せ)むるを好(この)ま不(ず)、努(つと)めて自(みずか)ら身(み)を省(かえり)みよ、
如(も)し此(これ)を知(し)る有(あ)らば、永(なが)く滅(めっ)して患(うれ)い無(な)し。

[01]61頁、[04]116頁、[11]165頁、[14]162頁、[15]202頁、[16]108頁、[18]94頁、[21]12頁、[25]164頁、[26]76頁、[27]15頁


※永く滅して患い無し:(争いごとは)永く滅して患いはなくなる


(007)


だらだらと気楽に生きる人は、諸々の感覚器官(五欲)を抑制することなく、飲食に節度なく怠けてだらしない人、彼らは魔王の前にひれ伏す、あたかも弱い樹木が風に倒れるように。


He who lives looking for pleasures only, his senses uncontrolled, immoderate in his food, idle, and weak, Mara (the tempter) will certainly overthrow him, as the wind throws down a weak tree.


subhānupassiṁ viharantaṁ, indriyesu asaṁvutaṁ; bhojanamhi cāmattaññuṁ, kusītaṁ hīnavīriyaṁ; taṁ ve pasahati māro, vāto rukkhaṁva dubbalaṁ.


行見身浄 不摂諸根
飲食不節 漫堕怯弱
為邪所制 如風靡草


行(おこな)うに身(み)の浄(きよ)きのみを見(み)て、諸根(しょこん)を摂(おさ)め不(ず)、
飲食(おんじき)を節(せつ)せ不(ず)、漫(みだ)りに怯弱(こうにゃく)に堕(だ)せば、
邪(じゃ)の為(ため)に制(せい)する所(ところ)、風(かぜ)の草(くさ)を靡(なび)かす如(ごと)し。


※行うに身の浄きのみを見て:自らの行いの身の浄きのみ見て
※諸根:五根(言・耳・鼻・舌・身)、五欲
※飲食を節せ不:飲食に節度なく
※怯弱に堕せば:だらしなく怠ければ
※邪の為に制する所:よこしまな心の支配するところ
※風の草を靡かす如し:風が草をなびかす様なもので思いのままになる


[06]54頁、[07]71頁、[11]135頁


(008)


だらだらと気楽に生きない人は、諸々の感覚器官を抑制して、飲食に節度あり、信念があり、努め励む人、彼らは魔王の前にひれ伏せず。あたかも岩山が風に動かないように。


He who lives without looking for pleasures, his senses well controlled, moderate in his food, faithful and strong, him Mara will certainly not overthrow, any more than the wind throws down a rocky mountain.


asubhānupassiṁ viharantaṁ, indriyesu susaṁvutaṁ; bhojanamhi ca mattaññuṁ, saddhaṁ āraddhavīriyaṁ; taṁ ve nappasahati māro, vāto selaṁva pabbataṁ.


観身不浄 能摂諸根
食知節度 常楽精進
不為邪動 如風大山


身(み)の不浄(ふじょう)を観(かん)じ、能(よ)く諸根(しょこん)を摂(おさ)め、
食(くら)うに節度(せつど)を知(し)り、常(つね)に精進(しょうじん)を楽(たの)しまば、
邪(じゃ)の為(ため)に動(はたら)かされ不(ざ)ること、大山(だいせん)に風(かぜ)の如(ごと)し。


※身の不浄を観じ:我が身が不浄であると観じ
※精進:仏道修行にはげむ
※大山に風の如し:大きな山に風が吹く様なものでびくともしない


[06]55頁、[11]135頁、[25]24頁


(009)


心の穢れを離れずに、袈裟をまとわんとする人は、自制と真実が欠けており、袈裟をまとう資格がない。


He who wishes to put on the yellow dress without having cleansed himself from sin, who disregards temperance and truth, is unworthy of the yellow dress.


anikkasāvo kāsāvaṁ, yo vatthaṁ paridahissati; apeto damasaccena, na so kāsāvamarahati.


不吐毒態 欲心馳騁
未能自調 不応法衣


毒態(どくたい)を吐(は)か不(ず)、欲心(よくしん)に馳騁(ちてい)し、
未(いま)だ自(みずか)ら調(おさ)むるに能(あた)わ不(ず)んば、法衣(ほうい)に応(おう)ぜ不(ず)。


※毒態:心身の穢れ
※馳騁:思いのままにふるまう
※法衣に応ぜ不:袈裟を着ける資格がない


[01]310頁、[04]110頁、[06]94頁、[08]18頁、[11]74頁、[15]78頁、[24]171頁


(010)


自ら穢れを吐き出し、諸々の戒律を護り、自制と真実が備わるとき、彼は袈裟をまとう資格がある。


But he who has cleansed himself from sin, is well grounded in all virtues, and regards also temperance and truth, he is indeed worthy of the yellow dress.


yo ca vantakasāvassa, sīlesu susamāhito; upeto damasaccena, sa ve kāsāvamarahati.


能吐毒態 戒意安静
降心已調 此応法衣


能(よ)く毒態(どくたい)を吐(は)き、戒意(かいい)安静(あんじょう)にして、
心(こころ)を降(くだ)し己(おのれ)を調(おさ)めば、此(これ)法衣(ほうい)に応(おう)ず。


※毒態:心身の穢れ
※戒意:こころを戒める
※降し:鎮める
※法衣に応ず:袈裟を着ける資格がある


[06]94頁、[11]74頁


(011)


真実でないものを真実であると思い、真実であるものを真実でないと思う人は、真実を悟ることなく、よこしまな思いにとどまる。


They who imagine truth in untruth, and see untruth in truth, never arrive at truth, but follow vain desires.


asāre sāramatino, sāre cāsāradassino; te sāraṁ nādhigacchanti, micchāsaṁkappagocarā.


以真為偽 以偽為真
是為邪計 不得真利


真(しん)を以(もっ)て偽(ぎ)と為(な)す、偽(ぎ)を以(もっ)て真(しん)と為(な)す。
是(これ)を邪計(じゃけ)と為(な)す、真利(しんり)を得(え)ず。


※真:真実
※偽:いつわり
※邪計:よこしまな考え
※真利:真の利益、真の教え


[04]55頁、[06]108頁、[10]157頁、[18]126頁、[22]90頁、[25]60頁、[26]238頁


(012)


真実を真実であると知り、真実でないものを真実でないと知る人は、真実を悟り、正しい思いにとどまる。


They who know truth in truth, and untruth in untruth, arrive at truth, and follow true desires.


sārañca sārato ñatvā, asārañca asārato; te sāraṁ adhigacchanti, sammāsaṁkappagocarā.


知真為真 見偽知偽
是為正計 必得真利


真(しん)を知(し)りて真(しん)と為(な)し、偽(ぎ)を見(み)て偽(ぎ)を知(し)る。
是(これ)を正計(しょうけ)と為(な)す、必(かなら)ず真利(しんり)を得(え)ん。


※正計:正しい考え


[06]109頁、[10]157頁、[26]238頁


(013)


屋根を粗雑に葺いた家は、雨が漏れ入るように、心を修養していなければ、貪欲が侵入する。


As rain breaks through an ill-thatched house, passion will break through an unreflecting mind.


yathā agāraṁ ducchannaṁ, vuṭṭhī samativijjhati; evaṁ abhāvitaṁ cittaṁ, rāgo samativijjhati.


蓋屋不密 天雨則漏
意不惟行 淫泆為穿


屋(おく)を蓋(おお)うに密(みつ)なら不(ず)んば、天(てん)雨ふれば則(すなわ)ち漏(も)る。
意(こころ)惟(これ)行(ぎょう)ぜ不(ず)んば、淫泆(いんいつ)為(ため)に穿(うが)たん。


※屋を蓋うに密なら不んば:屋根を粗雑に葺いたならば
※意惟行ぜ不んば:こころを修行しなければ
※淫泆:みだらでだらしない
※穿たん:(貪欲は)侵入する


[06]162頁、[09]158頁、[17]15頁、[21]14頁、[27]61頁


(014)


屋根を丁寧に葺いた家は、雨が漏れ入らないように、心を修養していれば、貪欲が侵入しない。


As rain does not break through a well-thatched house, passion will not break through a well-reflecting mind.


yathā agāraṁ suchannaṁ, vuṭṭhī na samativijjhati; evaṁ subhāvitaṁ cittaṁ, rāgo na samativijjhati.


蓋屋善密 雨則不漏
摂意惟行 淫泆不生


屋(おく)を蓋(おお)うに善(よ)く密(みつ)ならば、雨(あめ)は則(すなわ)ち漏(も)ら不(ず)。
意(こころ)を摂(せっ)するを惟(これ)行(ぎょう)ぜば、淫泆(いんしつ)生(しょう)ぜ不(ざ)らん。


※意を摂するを惟行ぜば:こころをおさめて修行すれば
※淫泆:みだらでだらしない


[06]168頁、[09]159頁、[17]15頁、[21]14頁


(015)


悪い行いをする人は、今世で悲しみ、後世でも悲しむ、二つの世で悲しむ、己の行いの穢れを見て憂い悲しむ。


The evil-doer mourns in this world, and he mourns in the next; he mourns in both. He mourns and suffers when he sees the evil of his own work.


idha socati pecca socati, pāpakārī ubhayattha socati; so socati so vihaññati, disvā kammakiliṭṭham attano.


造憂後憂 行悪両憂
彼憂惟懼 見罪心懅


憂(うれ)いを造(つく)り後(のち)に憂(うれ)い、悪(あく)を行(ぎょう)ぜば両(ふたつ)ながら憂(うれ)う。
彼(かれ)も憂(うれ)い惟(これ)も懼(おそ)る。罪(つみ)を見(み)て心(こころ)懅(おそ)る。


※懼る・懅る:おそれる


[04]134頁、[06]113頁、[17]16頁、[21]16頁


(016)


善い行いをする人は、今世で喜び、後世でも喜ぶ、二つの世で喜ぶ、己の行いの清浄なことを見て歓喜する。


The virtuous man delights in this world, and he delights in the next; he delights in both. He delights and rejoices, when he sees the purity of his own work.


idha modati pecca modati, katapuñño ubhayattha modati; so modati so pamodati, disvā kammavisuddhim attano.


造喜後喜 行善両喜
彼喜惟歓 見福心安


喜(よろこ)びを造(つく)り後(のち)に喜(よろこ)び、善を行(ぎょう)ぜば両(ふたつ)ながら喜(よろこ)ぶ。
彼(かれ)も喜(よろこ)び惟(これ)も歓(よろこ)び、福(ふく)を見(み)て心(こころ)安(やす)し。


[04]134頁、[06]114頁、[17]17頁、[21]16頁、[25]114頁


(017)


悪い行いをする人は、今世で苦しみ、後世でも苦しむ、二つの世で苦しむ、「我は悪い行いをした」と苦しみ、地獄に落ちてさらに苦しむ。


The evil-doer suffers in this world, and he suffers in the next; he suffers in both. He suffers when he thinks of the evil he has done; he suffers more when going on the evil path.


idha tappati pecca tappati, pāpakārī ubhayattha tappati; “pāpaṁ me katan” ti tappati, bhiyyo tappati duggatiṁ gato.


今悔後悔 為悪両悔
厥為自殃 受罪熱悩


今(いま)も悔(く)い後(のち)も悔(く)い、悪(あく)を為(な)せば両(ふたつ)ながら悔(く)ゆ、
厥(そ)れ自(みずか)らの殃(わざわい)と為(な)し、罪(つみ)を受(う)けて熱悩(ねつのう)せん。


※熱悩:身をやくような心の苦悩


[06]118頁、[09]106頁、[23]29頁


(018)


善い行いをする人は、今世で歓喜し、後世でも歓喜する、二つの世で歓喜する、「我は善い行いをした」と歓喜し、天界に行きてさらに歓喜する。


The virtuous man is happy in this world, and he is happy in the next; he is happy in both. He is happy when he thinks of the good he has done; he is still more happy when going on the good path.


idha nandati pecca nandati, katapuñño ubhayattha nandati; “puññaṁ me katan” ti nandati, bhiyyo nandati suggatiṁ gato.


今歓後歓 為善両歓
厥爲自祐 受福悦予


今(いま)も歓(よろこ)び後(のち)も歓(よろこ)び、善(ぜん)を為(な)せば両(ふたつ)ながら歓(よろこ)ぶ。
厥(そ)れを自(みずか)らの祐(たすけ)と為(な)し、福(ふく)を受(う)けて悦(えつ)を予(よ)せん。


※予せん:あたえん


[02]19頁、[06]119頁、[09]107頁


(019)


たとえ多くの聖典を読誦しても、これを実行しない放逸の人は、他人の牛を数える牛飼いのように、修行者の列に入らない。


The thoughtless man, even if he can recite a large portion (of the law), but is not a doer of it, has no share in the priesthood, but is like a cowherd counting the cows of others.


bahum pi ce saṁhita bhāsamāno, na takkaro hoti naro pamatto; gopova gāvo gaṇayaṁ paresaṁ, na bhāgavā sāmaññassa hoti.


雖誦習多義 放逸不従正
如牧数他牛 難獲沙門果


多義(たぎ)を誦習(しょうしゅう)すと雖(いえど)も,
放逸(ほういつ)にして正(まさ)に従(したが)わ不(ず)んば、
牧(まき)の他牛(たぎゅう)を数(かぞ)うるが如(ごと)く,
沙門(しゃもん)の果(か)を獲(え)る難(かた)し。


※多義:多くの教典
※誦習:口に出して繰り返し読む
※放逸:仏道にはげまず、なまける
※正に従わ不んば:実行しなければ
※牧の他牛を数うる:牧場の他人の牛を数える、無意味なこと
※沙門:男性修行者、比丘(びく)


[02]26頁、[11]193頁、[15]24頁、[17]19頁、[19]114頁、[24]173頁、[25]124頁


(020)


たとえ僅かな聖典を読誦しても、真理に従い実行し、貪・瞋・癡の三毒の煩悩を捨て、正しい智慧があり、心は解脱し、今世後世ともに執着することがない人は、修行者の列に入る。


The follower of the law, even if he can recite only a small portion (of the law), but, having forsaken passion and hatred and foolishness, possesses true knowledge and serenity of mind, he, caring for nothing in this world or that to come, has indeed a share in the priesthood.


appam pi ce saṁhita bhāsamāno, dhammassa hoti anudhammacārī; rāgañca dosañca pahāya mohaṁ, sammappajāno suvimuttacitto; anupādiyāno idha vā huraṁ vā, sa bhāgavā sāmaññassa hoti.


時言少求 行道如法
除婬怒癡 覚正意解
見対不起 是佛弟子


時言(じげん)少(すこ)しく求(もと)むるも、道(どう)を行(ぎょう)ずる法(ほう)の如(ごと)く、
淫(いん)と怒(ぬ)と癡(ち)を除(のぞ)き、正(しょう)を覚(さと)り意(い)を解(と)け、
対(つい)を見(み)るも起(おこ)ら不(ず)んば、是(こ)れ仏弟子(ぶつでし)なり。


※時言少しく求むるも:その時々に言葉が少なくても
※道を行ずる法の如く:仏道を行なう真理の如く
※淫:淫欲(いんよく)、むさぼり
※怒:瞋恚(しんい)、いかり
※癡:愚癡(ぐち)、愚かで物事の道理を知らない
※対:善悪


[06]204頁、[11]194頁、[17]19頁、[19]114頁




2章 不放逸の章

Chapter II. On Earnestness
2. appamādavagga
2章 放逸品


(021)


不放逸は不死に至り、放逸は死に至る、不放逸の人は死ぬことなし、放逸の人はすでに死せるに同じ。


Earnestness is the path of immortality (Nirvana), thoughtlessness the path of death.
Those who are in earnest do not die, those who are thoughtless are as if dead already.


appamādo amatapadaṁ, pamādo maccuno padaṁ; appamattā na mīyanti, ye pamattā yathā matā.


戒為甘露道 放逸為死径
不貪則不死 失道為自喪


戒(かい)を甘露(かんろ)の道(どう)と為(な)し、放逸(ほういつ)を死(し)の径(みち)と為(な)す。
貪(むさ)ぼら不(ず)んば即(すなわ)ち死(し)せず、道(どう)を失(うし)なうを自(みずか)ら喪(うしな)うと為(な)す。


※戒:戒律
※甘露:悟りをひらく、涅槃
※道:仏の道


[06]120頁、[07]123頁、[08]96頁、[09]72頁、[11]95頁、[14]121頁、[17]24頁、[19]99頁、[21]22頁、[23]164頁、[24]148頁、[25]112頁、[27]165頁


(022)


明らかにこの理を知って、不放逸なる賢者らは、不放逸を歓び、聖者の境地を楽しむ。


Those who are advanced in earnestness, having understood this clearly, delight in earnestness, and rejoice in the knowledge of the Ariyas (the elect).


evaṁ visesato ñatvā, appamādamhi paṇḍitā; appamāde pamodanti, ariyānaṁ gocare ratā.


慧智守道勝 終不為放逸
不貪致歓喜 従是得道楽


慧智(えち)にて道勝(どうしょう)を守(まも)り、終(つい)に放逸(ほういつ)を為(な)さ不(ず)んば、
不貪(ふとん)に歓喜(かんぎ)を致(いた)し、是(こ)れに従(したが)い道楽(どうぎょう)を得(え)ん。


※慧智:智慧
※道勝:すぐれた道
※不貪:むさぼらない
※歓喜:よろこび
※道楽:仏道を求めようとする願い


[06]123頁、[11]95頁、[17]24頁、[27]165頁


(023)


彼らは心静かに考え、意志が極めて強く、常に勇猛に、聡明にして、無上安穏の涅槃を得る。


These wise people, meditative, steady, always possessed of strong powers, attain to Nirvana, the highest happiness.


te jhāyino sātatikā, niccaṁ daḷhaparakkamā; phusanti dhīrā nibbānaṁ, yogakkhemaṁ anuttaraṁ.


常当惟念道 自強守正行
健者得度世 吉祥無有上


常(つね)に当(まさ)に道(どう)を惟然(ゆいねん)し、自(みずか)ら強(つよ)くして正行(しょうぎょう)を守(まも)るべし。
健者(ごんじゃ)は世(よ)を度(ど)するを得(え)て、吉祥(きちじょう)にして上(うえ)有(あ)ること無(な)し。


※惟念:心に思う
※正行:正しい行い
※健者:けんじゃ、健康な者
※度する:渡る


[06]85頁、[11]95頁、[17]27頁、[21]24頁、[23]212頁、[27]166頁


(024)


努め励み、思慮し、清き行いに勉め、自ら制し、真理に従い生活し、不放逸なれば、その人の名声は増大する。


If an earnest person has roused himself, if he is not forgetful, if his deeds are pure, if he acts with consideration, if he restrains himself, and lives according to law,—then his glory will increase.


uṭṭhānavato satīmato, sucikammassa nisammakārino; saññatassa dramatizing, appamattassa yasobhiva ḍḍhati.


正念常興起 行浄悪易滅
自制以法寿 不犯善名増


正念(しょうねん)にして常(つね)に興起(こうき)し、行(ぎょう)浄(きよ)ければ悪(あく)滅(めつ)し易(やす)し、
自(みづか)ら制(せい)して法(ほう)を以(もっ)て寿(じゅ)とし、犯(おか)さ不(ず)んば善名(ぜんみょう)増(ま)す。


※正念:正しくこころに思う
※興起:勢いが盛んになること
※法:真理
※寿:めでたく喜ばしい
※善名:良い評判


[25]72頁


(025)


努め励みにより、不放逸により、制御により、また訓練により賢者は暴流にも流されない島を作るべし。


By rousing himself, by earnestness, by restraint and control, the wise man may make for himself an island which no flood can overwhelm.


uṭṭhānenappamādena, saṁyamena damena ca; dīpaṁ kayirātha medhāvī, yaṁ ogho nābhikīrati.


発行不放逸 約以自調心
慧能作定明 不返冥渕中


行(ぎょう)を発(おこ)して放逸(ほういつ)なら不(ず)、約(やく)して以(もっ)て自(みづか)ら心(こころ)を調(ととの)え、
慧(え)ありて能(よ)く定明(じょうみょう)を作(な)さば、冥渕(みょうえん)の中(なか)に返(かえ)ら不(ず)。


※発して:やりだして
※約:短くまとめる
※定明:明るい燈火となり照らす
※冥渕:暗い迷いの世界


[06]169頁、[11]47頁、[21]26頁、[23]132頁


(026)


愚かなる凡夫は放逸に耽る、智慧者は不放逸を護ること、最上の財宝を護るように。


Fools follow after vanity, men of evil wisdom. The wise man keeps earnestness as his best
jewel.


pamādam anuyuñjanti, bālā dummedhino janā; appamādañca medhāvī, dhanaṁ seṭṭhaṁva rakkhati.


愚人意難解 貪乱好諍訟
上智常重慎 護斯為宝尊


愚人(ぐにん)は意(こころ)に解(さと)り難(がた)く、貪乱(とんらん)し諍訟(じょうしょう)を好(この)む。
上智(じょうち)は常(つね)に重慎(じゅうしん)し、斯(これ)を護(まも)りて宝尊(ほうそん)と為(な)す。


※解り難く:理解し難く
※貪乱:欲をむさぼり乱れる
※諍訟:あらそいごと、うったえごと
※上智:すぐれた智慧
※重慎:ふかくつつしむ
※宝尊:尊い宝


[06]173頁、[07]55頁、[09]168頁、[23]115頁


(027)


放逸に耽るなかれ、欲楽を貪るなかれ、心静かに考え不放逸なる人は、大いなる安楽を得る。


Follow not after vanity, nor after the enjoyment of love and lust! He who is earnest and meditative, obtains ample joy.


mā pamādamanuyuñjetha, mā kāmaratisanthavaṁ; appamatto hi jhāyanto, pappoti vipulaṁ sukhaṁ.


莫貪莫好諍 亦莫嗜欲楽
思心不放逸 可以獲大安


貪(むさぼ)ること莫(なか)れ、諍(あらそい)を好(この)むこと莫(なか)れ、亦(また)欲楽(よくらく)を嗜(たしな)むこと莫(なか)れ、
思心(ししん)に放逸(ほういつ)なら不(ず)んば、以(もっ)て大安(だいあん)を獲(う)べし。


※思心:心の思い
※大安:きわめて安らかなこと


[06]174頁、[07]62頁、[23]138頁


(028)


不放逸により放逸をしりぞけたる賢者は、智慧の高閣に登り、憂いなく、他の憂いある人を見下ろす、山上に居る人が平地の人を見下ろすように、泰然として愚か者を観る。


When the learned man drives away vanity by earnestness, he, the wise, climbing the terraced heights of wisdom, looks down upon the fools, serene he looks upon the toiling crowd, as one that stands on a mountain looks down upon them that stand upon the plain.


pamādaṁ appamādena, yadā nudati paṇḍito; paññāpāsādamāruyha, asoko sokiniṁ pajaṁ; pabbataṭṭhova bhūmaṭṭhe, dhīro bāle avekkhati.


放逸如自禁 能却之為賢
已昇智慧閣 去危為即安
明智観於愚 譬如山与地


放逸(ほういつ)を如(も)し自(みずか)ら禁(きん)じ、能(よ)く之(これ)を却(しりぞ)くるを賢(けん)と為(な)す。
已(すで)に智慧(ちえ)の閣(かく)に昇(のぼ)り、危(き)を去(さ)りて為(ため)に即(すなわ)ち安(やす)く、
明智(みょうち)もて愚(ぐ)を観(み)ること、譬(たと)えば山(やま)と地(ち)与(と)の如(ごと)し。


※閣:たかどの、高い建物
※危:危険
※安:やすらか
※明智:智慧
※山と地:山上と地上の違い


[02]34頁、[24]150頁


(029)


放逸の中に在って不放逸に、眠れる人の中に在ってよく覚めたる賢者は、駿馬が駑馬を後にして進み行くように。


Earnest among the thoughtless, awake among the sleepers, the wise man advances like a racer, leaving behind the hack.


appamatto pamattesu, suttesu bahujāgaro; abalassaṁva sīghasso, hitvā yāti sumedhaso.


不自放逸 従是多寤
羸馬比良 棄悪為賢


自(みずか)ら放逸(ほういつ)にして、是(これ)従(よ)り多(おお)く寤(さ)めることなら不(ず)、
羸馬(るいば)に良(りょう)を比(ひ)し、悪(あく)を棄(す)てるを賢(けん)と為(な)す。


※寤める:目覚める
※羸馬に良を比し:痩せつかれた馬に比べて良馬が疾走するように


[06]175頁、[07]224頁、[17]31頁、[19]103頁、[21]28頁


(030)


マガヴァ―(帝釈天)は不放逸により、神々の中の主となることを得る、人々は不放逸を称賛する、放逸は常に非難される。


By earnestness did Maghavan (Indra) rise to the lordship of the gods. People praise earnestness; thoughtlessness is always blamed.


appamādena maghavā, devānaṁ seṭṭhataṁ gato; appamādaṁ pasaṁsanti, pamādo garahito sadā.


不殺而得称 放逸致毀謗
不逸摩掲人 縁浄得生天


殺(ころ)さ不(ず)して而(しか)も称(しょう)を得(え)、放逸(ほういつ)なれば毀謗(きぼう)を致(いた)す。
不逸(ふいつ)の摩掲人(まかつじん)は、縁(えん)浄(きよ)くして天(てん)に生(しょう)ずるを得(え)たり。


※称:ほめたたえる、称賛
※毀謗:そしること
※不逸:なおざりでない
※摩掲人:帝釈天
※縁浄くして:きよらかな因縁によって


[21]30頁


(031)


不放逸を楽しみ、放逸を恐れる修行者は大小の煩悩を焼きつつ進む、あたかも燃える炎のように。


A Bhikshu (mendicant) who delights in earnestness, who looks with fear on thoughtlessness, moves about like fire, burning all his fetters, small or large.


appamādarato bhikkhu, pamāde bhayadassi vā; saṁyojanaṁ aṇuṁ thūlaṁ, ḍahaṁ aggīva gacchati.


比丘謹慎楽 放逸多憂愆
結使所纒裏 為火焼已尽


比丘(びく)は謹慎(ごんしん)を楽(たの)しみ、放逸(ほういつ)は憂愆(うけん)多(おお)く、
結使(けっし)の纒裏(てんり)する所(ところ)、火(ひ)の為(た)めに焼(や)かれても已(すで)に尽(つく)す。


※比丘:修行者
※謹慎:言動をひかえめにすること
※憂愆:うれい、あやまち
※結使:煩悩
※纒裏:まといつく


[03]26頁、[06]134頁、[07]163頁


(032)


不放逸を楽しみ、放逸を恐れる修行者は後退することなし、彼はすでに涅槃に近づく。


A Bhikshu (mendicant) who delights in reflection, who looks with fear on thoughtlessness, cannot fall away (from his perfect state)—he is close upon Nirvana.


appamādarato bhikkhu, pamāde bhayadassi vā; abhabbo parihānāya, nibbānasseva santike.


守戒福致喜 犯戒有懼心
能断三界漏 此乃近泥洹


戒(かい)を守(まも)り福(ふく)に喜(き)を致(いた)し、戒(かい)を犯(おか)すに懼心(くしん)有(あ)らば、
能(よ)く三界(さんかい)の漏(ろ)を断(た)つ。此(こ)れ乃(すなわ)ち泥洹(ないおん)に近(ちか)し。


※懼心:恐怖心
※三界:欲界・色界・無色界という迷いの世界、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界
※漏:煩悩
※泥洹:涅槃、悟りの境地


[03]27頁、[06]141頁、[13]156頁




3章 心の章

Chapter III. Thought
3. cittavagga
3章 心意品


(033)


心は騒がしく、動揺し、護り難く、制し難い、智慧者はこれを調える、あたかも弓師が矢を調えるように。


As a fletcher makes straight his arrow, a wise man makes straight his trembling and unsteady thought, which is difficult to guard, difficult to hold back.


phandanaṁ capalaṁ cittaṁ, dūrakkhaṁ dunnivārayaṁ; ujuṁ karoti medhāvī, usukārova tejanaṁ.


心多為軽躁 難持難調護
智者能自正 如匠搦箭直


心(こころ)は多(おお)く軽躁(けいそう)を為(な)し、持(じ)し難(がた)く調護(ちょうご)し難(がた)し。
智者(ちしゃ)は能(よ)く自(みずか)ら正(ただ)すこと、匠(たくみ)の箭(や)を搦(にぎ)りて直(なお)すが如(ごと)し。


※軽躁:思慮が浅く軽はずみなこと
※持し難く:たもちがたく
※調護し難し:ととのえがたい


[03]35頁、[06]170頁、[07]128頁、[09]191頁、[10]174頁、[17]34頁、[21]36頁、[24]20頁、[25]74頁


(034)


水中の住処より取り出され、陸に投げ出された魚のように、魔王の支配から逃れようとして、心は慌てふためく。


As a fish taken from his watery home and thrown on dry ground, our thought trembles all over in order to escape the dominion of Mara (the tempter).


vārijo va thale khitto, okamokata ubbhato; pariphandat idaṁ cittaṁ, māradheyyaṁ pahātave.


如魚在旱地 以離於深渕
心識極惶懼 魔衆而奔馳


魚(さかな)の旱地(かんち)に在(あ)りて、以(もっ)て深渕(しんえん)を離(はな)るるが如(ごと)く、
心識(しんしき)は極(きわ)めて惶懼(おうく)し、魔(ま)衆(おお)くして奔馳(ほんち)す。


※旱地:乾いた土地
※深渕:深い迷いのよどみ
※心識:こころ
※惶懼:おそれおののく
※奔馳:走る


[02]44頁


(035)


軽々しく、止め難く、勝手気ままな心を制御することは善い哉、制御された心は安楽をもたらす。


It is good to tame the mind, which is difficult to hold in and flighty, rushing wherever it listeth; a tamed mind brings happiness.


dunniggahassa lahuno, yatthakāmanipātino; cittassa damatho sādhu, cittaṁ dantaṁ sukhāvahaṁ.


軽躁難持 唯欲是従
制意為善 自調則寧


軽躁(けいそう)にして持(じ)し難(がた)く、唯(ただ)欲(よく)是(こ)れ従(したが)う。
意(こころ)を制(せい)するを善(ぜん)と為(な)す、自(みずか)ら調(おさ)むれば則(すなわ)ち寧(やす)し。


※軽躁:思慮が浅く軽はずみなこと
※持し難く:たもちがたく
※寧し:やすらか、安心する


[04]41頁、[06]149頁、[11]74頁、[11]84頁、[21]38頁、[24]21頁、[25]76頁


(036)


甚だ見極め難く、甚だ微細なる、勝手気ままな心を智慧者は護るべし、護られたる心は安楽をもたらす。


Let the wise man guard his thoughts, for they are difficult to perceive, very artful, and they rush wherever they list: thoughts well guarded bring happiness.


sududdasaṁ sunipuṇaṁ, yatthakāmanipātinaṁ; cittaṁ rakkhetha medhāvī, cittaṁ guttaṁ sukhāvahaṁ.


意微難見 随欲而行
慧常自護 能守即安


意(こころ)は微(み)にして見(み)難(がた)し、欲(よく)に随(したが)って而(しか)も行(おこな)う。
慧(え)は常(つね)に自(みずか)ら護(まも)る、能(よ)く守(まも)れば則(すなわ)ち安(やす)し。


※微にして:微細にして
※慧:智慧
※安:やすらか


[04]76頁、[06]149頁、[08]12頁、[23]70頁


(037)


遠く行き、一人でさまよい、形なき、胸の奥深くに隠れた、心を制御する人は、魔王の束縛から離れる。


Those who bridle their mind which travels far, moves about alone, is without a body, and hides in the chamber (of the heart), will be free from the bonds of Mara (the tempter).


dūraṁgamaṁ ekacaraṁ, asarīraṁ guhāsayaṁ; ye cittaṁ saṁyamissanti, mokkhanti mārabandhanā.


独行遠逝 覆蔵無形
損意近道 魔繋乃解


独(ひと)り行(ゆ)き遠(とお)く逝(ゆ)き、覆蔵(ふくぞう)して形(かたち)無(な)し。
意(こころ)を損(そん)じて道(どう)に近(ちかづ)かば、魔繋(まけい)乃(すなわ)ち解(と)けん。


※覆蔵:おおわれ収められている
※損じて:おさえて
※魔繋:煩悩のしばり


[06]150頁、[24]22頁


(038)


心は安住せず、正法を知らず、信心が動揺すれば、智慧を得ることはない。


If a man's thoughts are unsteady, if he does not know the true law, if his peace of mind is troubled, his knowledge will never be perfect.


anavaṭṭhitacittassa, saddhammaṁ avijānato; pariplavapasādassa, paññā na paripūrati.


心無住息 亦不知法
迷於世事 無有正智
念無適止 不絶無辺
福能遏悪 覚者為賢
仏説心法 雖微非真


心(こころ)に住息(じゅうそく)無(な)く、亦(また)法(ほう)を知(し)ら不(ず)、
世事(せじ)に於(お)いて迷(まよ)わば、正智(しょうち)有(あ)ること無(な)し。
念(ねん)は適止(てきし)無(な)く、絶(た)え不(ず)辺(はて)無(な)し。
福(ふく)能(よ)く悪(あく)を遏(とど)める、覚(さと)る者(もの)を賢(けん)と為(な)す。
仏(ほとけ)は心法(しんぽう)は、微(み)なりと雖(いえど)も真(しん)に非(あら)ずと説(と)きたまう。


※住息:休むこと
※法:仏法
※世事:世の中の事がら
※正智:正しい智慧 
※適止無く:まさに止むことなく
※辺:際限
※遏める:さえぎる
※心法:心のはたらき
※微:微細


[06]150頁、[11]15頁、[14]100頁、[21]40頁、[24]24頁


(039)


心は煩悩を離れ、思慮に乱れなく、すでに善悪の思いを離れ、目覚めた人には、恐れはない。


If a man's thoughts are not dissipated, if his mind is not perplexed, if he has ceased to think of good or evil, then there is no fear for him while he is watchful.


anavassutacittassa, ananvāhatacetaso; puññapāpapahīnassa, natthi jāgarato bhayaṁ.


当覚逸意 莫随放心
見法最安 所願得成
慧護微意 断苦因縁


当(まさ)に逸意(いつい)を覚(さと)るべく、放心(ほうしん)に随(したが)う莫(なか)れ。
法(ほう)を見(み)ば最(もっと)も安(やす)く、願(ねが)う所(とくろ)成(な)るを(得え)ん。
慧(え)は微意(みい)を護(まも)り、苦(く)の因縁(いんねん)を断(た)つ。


※逸意:誤った心
※放心:気が抜けた心
※法:仏法
※慧:智慧
※微意:微細な心


[04]64頁、[06]150頁、[07]149頁、[11]15頁、[20]121頁、[24]24頁


(040)


この身体は水瓶のようにもろいと観て、この心を城郭のように安住にして、智慧の武器を以て、魔王と戦い、勝ち得たものを守り、怠け廃れることなかれ。


Knowing that this body is (fragile) like a jar, and making this thought firm like a fortress, one should attack Mara (the tempter) with the weapon of knowledge, one should watch him when conquered, and should never rest.


kumbhūpamaṁ kāyamimaṁ viditvā, nagarūpamaṁ cittamidaṁ ṭhapetvā; yodhetha māraṁ paññāvudhena, jitañca rakkhe anivesano siyā.


観身如空瓶 安心如丘城
以慧与魔戦 守勝勿復失


身(み)を観(み)ること空瓶(あきびん)の如(ごと)く、心(こころ)を安(あん)ずるは丘城(おかじろ)の如(ごと)し。
慧(え)を以(もっ)て魔(ま)与(と)戦(たたか)い、勝(しょう)を守(まも)り復(ま)た失(うしな)うこと勿(なか)れ。


※空瓶:水瓶(みずがめ)
※安:やすらか
※丘城:丘に建つ城郭のように強い
※慧:智慧
※魔:悪魔、煩悩
※勝を守り:勝ち抜き守り


[04]156頁、[06]150頁、[24]27頁、[25]28頁


(041)


ああ、この身体は久しからずして、地上に横たわる、意識が無く棄てられる、あたかも木片のように。


Before long, alas! this body will lie on the earth, despised, without understanding, like a useless log.


aciraṁ vat’ ayaṁ kāyo, pathaviṁ adhisessati; chuddho apetaviññāṇo, niratthaṁ va kaliṅgaraṁ.


是身不久 還帰於地
神識已離 骨幹独存


是(こ)の身(み)は久(ひさ)しから不(ず)して、還(また)地(ち)に帰(き)し、
神識(しんしき)已(すで)に離(はな)れて、骨幹(こっかん)独(ひと)り存(そん)せん。


※神識:生前からのこころ
※骨幹独り存せん:白骨だけが残る


[06]226頁、[17]35頁、[21]42頁、[25]174頁


(042)


怨む人が怨む人に対して為す、敵が敵に対して為す如何なる害悪よりも、邪に向かう心はさらに大きな害悪を人に為す。


Whatever a hater may do to a hater, or an enemy to an enemy, a wrongly-directed mind will do us greater mischief.


diso disaṁ yaṁ taṁ kayirā, verī vā pana verinaṁ; micchāpaṇihitaṁ cittaṁ, pāpiyo naṁ tato kare.


心予造処 往来無端
念無邪僻 自為招悪


心(こころ)を予(かね)て造(つく)る処(ところ)、往来(おうらい)の端(はし)無(な)し。
邪僻(じゃへき)無(な)きを念(ねん)ぜよ。自(みずか)ら為(ため)に悪(あく)を招(まね)く。


※予て造る処:あらかじめ悪い感情をいだいていれば
※往来の端無し:相手からも悪い感情を返されおわりがない
※邪僻:よこしまで、ひねくれていること


[04]92頁、[21]44頁、[24]32頁


(043)


父、母、またその他の親戚の為す如何なる幸福よりも、正道に向かう心は、さらに大きな幸福を人に為す。


Not a mother, not a father will do so much, nor any other relative; a well-directed mind will do us greater service.


na taṁ mātā pitā kayirā, aññe vāpi ca ñātakā; sammāpaṇihitaṁ cittaṁ, seyyaso naṁ tato kare.


是意自造 非父母為
可勉向正 為福勿回


是(こ)の意(こころ)は、自(みずか)ら造(つく)るなり。父母(ふぼ)の為(ため)に非(あら)ず。
勉(つと)めて正(しょう)に向(むか)う可(べ)し。福(ふく)を為(な)して回(めぐ)る勿(な)かれ。


※福を為して回る勿かれ:自己の幸福のみ思いめぐらさない
※正:正道(仏の道)


[16]46頁、[24]32頁




4章 華の章

Chapter IV. Flowers
4. pupphavagga
4章 華香品


(044)


誰がこの地界を征服するのだろうか、誰がこの閻魔界と天界とを征服するのだろうか、誰が善く説かれた真理の言葉を集めること、あたかも巧みな人が花を摘み集めるように。


Who shall overcome this earth, and the world of Yama (the lord of the departed), and the world of the gods? Who shall find out the plainly shown path of virtue, as a clever man finds out the (right) flower?


ko imaṁ pathaviṁ vicessati, yamalokañca imaṁ sadevakaṁ; ko dhammapadaṁ sudesitaṁ, kusalo puppham iva pacessati.


孰能択地 捨鑑取天
誰説法句 如択善華


孰(たれ)か能(よ)く地(ち)を択(えら)び、鑑(かん)を捨(す)て天(てん)を取(と)る。
誰(たれ)か法句(ほっく)を説(と)くこと、善華(ぜんけ)を択(えら)ぶが如(ごと)くする。


※孰か:誰か
※地:地界・閻魔界・天界の三世界
※鑑:閻魔界、魔の世界
※天:天界、神々の世界
※善華:善い花、蓮華


[17]38頁、[21]50頁


(045)


仏教を学ぶ人はこの地界を征服する、この閻魔界と天界とを征服する、仏教を学ぶ人は善く説かれた真理の言葉を集めること、あたかも巧みな人が花を摘み集めるように。


The disciple will overcome the earth, and the world of Yama, and the world of the gods. The disciple will find out the plainly shown path of virtue, as a clever man finds out the (right) flower.


sekho pathaviṁ vicessati, yamalokañca imaṁ sadevakaṁ; sekho dhammapadaṁ sudesitaṁ, kusalo puppham iva pacessati.


学者択地 捨鑑取天
善説法句 能採徳華


学者(がくしゃ)は地(ち)を択(えら)び、鑑(かん)を捨(す)て天(てん)を取(と)る。
善(よ)く法句(ほっく)を説(と)くこと、能(よ)く徳華(とくけ)を採(と)るがごとくする。


※地:他界・閻魔界・天界の三世界
※鑑:閻魔界、魔の世界
※天:天界、神々の世界
※徳華:徳のある花、蓮華


[17]39頁、[21]50頁


(046)


この身体は泡沫のようだと知り、陽炎のようだと覚れる人は、魔王の花矢(誘惑)を断ち、死王を観ることなし。


He who knows that this body is like froth, and has learnt that it is as unsubstantial as a mirage, will break the flower-pointed arrow of Mara, and never see the king of death.


pheṇūpamaṁ kāyam imaṁ viditvā, marīcidhammaṁ abhisambudhāno; chetvāna mārassa papupphakāni, adassanaṁ maccurājassa gacche.


知世坏喩 幻法忽有
断魔華敷 不睹生死
見身如沫 幻法自然
断魔華敷 不観死王


世(よ)は坏(はい)の喩(たと)えと知(し)り、幻法(げんぽう)忽(たちま)ちに有(あ)り、
魔華(まけ)の敷(ひら)くを断(た)ち、生死(しょうじ)を観(み)不(ず)。
身(み)を見(み)れば沫(あわ)の如(ごと)く、幻法(げんぽう)自然(じねん)なり、
魔華(まけ)の敷(ひら)くを断(た)ち、死王(しおう)を観(み)不(ず)。


※坏の喩え:土器はもろく儚いものである
※幻法:まぼろし、かげろうのようなもの
※魔華の敷く:悪魔がつくった花(障り)を広げる
※死王:閻魔


[11]147頁、[14]130頁、[27]87頁


(047)


花(快楽)を摘むことに執着している人を死が捕らえ去る、あたかも眠れる村人を暴流が押し流すように。


Death carries off a man who is gathering flowers and whose mind is distracted, as a flood carries off a sleeping village.


pupphāni heva pacinantaṁ, byāsattamanasaṁ naraṁ; suttaṁ gāmaṁ mahoghova, maccu ādāya gacchati.


如有採華 専意不散
村睡水漂 為死所牽


華(け)を採(と)りて専意(せんい)に散(さん)ぜ不(ず)んば、村(むら)睡(ねむ)り水(みず)に漂(ただよ)い、
死(し)の為(ため)に牽(ひ)か所(る)る有(あ)るが如(ごと)し。


※華を採りて:花を摘む(快楽)に夢中になり
※専意:こころ囚われ


[11]111頁、[24]74頁、[25]22頁、[27]87頁


(048)


花(快楽)を摘むことに執着している人を死が征服する、欲望のいまだ飽きないうちに。


Death subdues a man who is gathering flowers, and whose mind is distracted, before he is satiated in his pleasures.


pupphāni h’ eva pacinantaṁ, byāsattamanasaṁ naraṁ; atittaññeva kāmesu, antako kurute vasaṁ.


如有採華 専意不散
慾意無厭 為躬所困


華(け)を採(と)りて専意(せんい)に散(さん)ぜ不(ず)んば、
慾意(よくい)厭(あ)くこと無(な)く、躬(み)の為(ため)に困(こん)せ所(らる)る有(あ)るが如(ごと)し。


※華を採りて:花を摘む(快楽)に夢中になり
※専意:こころ囚われ
※欲意:欲望
※躬:我が身
※困せ所る:死が支配する


[11]111頁、[17]41頁、[24]74頁


(049)


蜂が花の色と香を損せずに蜜を集めて飛び去るように、智慧者が村に托鉢する時も然るべきである。


As the bee collects nectar and departs without injuring the flower, or its colour or scent, so let a sage dwell in his village.


yathāpi bhamaro pupphaṁ, vaṇṇagandhamaheṭhayaṁ; paleti rasamādāya, evaṁ gāme munī care.


如蜂集華 不嬈色香
但取味去 仁入聚然


蜂(はち)の華(はな)を集(あつ)むるに、色香(しきこう)を嬈(みだ)さ不(ず)、
但(ただ)味(あじ)のみを取(と)り去(さ)るが如(ごと)く、仁(じん)の聚(むら)に入(はい)るも然(しか)り。


※嬈さず:乱さず
※味:蜜
※仁の聚:人々の村落


[01]40頁、[02]50頁、[03]38頁、[06]67頁、[08]173頁、[09]121頁、[11]158頁、[12]170頁、[15]142頁、[17]42頁、[18]66頁、[20]9頁、[22]7頁80頁、[27]95頁


(050)


他人の過失と、他人のしたこと、しなかったことを観るな、ただ己のしたこと、しなかったことを観よ。


Not the perversities of others, not their sins of commission or omission, but his own misdeeds and negligences should a sage take notice of.


na paresaṁ vilomāni, na paresaṁ katākataṁ; attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.


不務観彼 作与不作
常自省身 知正不正


彼(か)の作(な)すと作(な)さ不(ざ)る与(と)を観(み)るを務(つと)め不(ず)、
常(つね)に自(みずか)ら身(み)を省(かえり)みて、正(せい)と不正(ふせい)とを知(し)れ。


※彼:他人
※作:行動


[04]89頁、[06]79頁、[07]190頁、[16]159頁、[17]42頁、[18]102頁、[19]7頁、[21]52頁、[22]26頁、[24]41頁、[25]116頁


(051)


可愛く、麗しくても香りが無い花のように、善き教えの言葉も、それを実行しなければ成果はない。


Like a beautiful flower, full of colour, but without scent, are the fine but fruitless words of
him who does not act accordingly.


yathāpi ruciraṁ pupphaṁ, vaṇṇavantaṁ agandhakaṁ; evaṁ subhāsitā vācā, aphalā hoti akubbato.


如可意華 色好無香
巧語如是 不行無得


可意(かい)の華(はな)の、色(しき)好(よ)きも香(こう)無(な)きが如(ごと)く、
巧語(ぎょうご)も是(か)くの如(ごと)し、行(おこな)わ不(ず)んば得(とく)無(な)し。


※可意:こころよい
※巧語:善く説かれた言葉


[04]192頁、[12]180頁、[17]44頁、[24]81頁


(052)


可愛く、麗しくて香りが有る花のように、善き教えの言葉も、それを実行すれば成果が有る。


But, like a beautiful flower, full of colour and full of scent, are the fine and fruitful words of him who acts accordingly.


yathāpi ruciraṁ pupphaṁ, vaṇṇavantaṁ sagandhakaṁ; evaṁ subhāsitā vācā, saphalā hoti kubbato.


如可意華 色美且香
巧語有行 必得其福


可意(かい)の華(はな)の、色(しき)美(うつく)しく且(か)つ香(かお)る如(ごと)く、
巧語(ぎょうご)にして行(ぎょう)有(あ)らば、必(かなら)ず其(その)福(ふく)を得(え)ん。


※可意:こころよい
※巧語:善く説かれた言葉


[02]56頁、[06]60頁、[12]181頁、[17]45頁、[19]118頁


(053)


諸々の花を集めて、多くの花飾りを作り得るように、人として生まれたならば、多くの善をなすべし。


As many kinds of wreaths can be made from a heap of flowers, so many good things may be achieved by a mortal when once he is born.


yathāpi puppharāsimhā, kayirā mālāguṇe bahū; evaṁ jātena maccena, kattabbaṁ kusalaṁ bahuṁ.


多集衆妙華 結鬘為歩瑤
有情積善根 後世転殊勝


多(おお)くの衆(たみ)の妙華(みょうか)を集(あつ)めて、鬘(かざり)を結(むす)んで歩瑤(ふよう)を為(な)す。
有情(うじょう)善根(ぜんこん)を積(つ)めば、後世(ごせ)に転(うたた)殊勝(しゅしょう)ならん。


※妙華:美しい花
※鬘:花かんざし
※歩瑤:髪かずら
※有情:情け深い
※善根:善のもとになるもの
※後世:来世、のちの世
※転:ますます
※殊勝:とりわけすぐれている


[19]191頁、[21]54頁、[24]97頁、[25]20頁、[27]91頁


(054)


花の香りは風に逆らって香らず、栴檀もタガラ(伽羅)も末利迦(マリカ、ジャスミン)も同様である、しかし善人の香りは風に逆らって香る、善人はすべての方向に香る。


The scent of flowers does not travel against the wind, nor (that of) sandal-wood, or of Tagara and Mallika flowers; but the odour of good people travels even against the wind; a good man pervades every place.


na pupphagandho paṭivātameti, na candanaṁ tagaramallikā vā; satañca gandho paṭivātameti, sabbā disā sappuriso pavāyati.


花香不逆風 芙蓉栴檀香
徳香逆風熏 徳人遍聞香


花(はな)の香(かお)りは風(かぜ)に逆(さから)わ不(ず)、芙蓉(ふよう)、栴檀(せんだん)の香(かお)りも。
徳香(とくこう)は風(かぜ)に逆(さか)らって薫(くん)ず。徳人(とくにん)は遍(あまね)く香(かお)りを聞(き)かしむ。


※徳香:善人の香り
※徳人:善人


[04]196頁、[07]228頁、[08]35頁、[09]126頁、[11]70頁、[14]93頁、[17]46頁、[19]192頁、[21]56頁、[24]152頁、[25]168頁、[27]91頁


(055)


栴檀、タガラ(伽羅)、はたまた青蓮華、バッシキー(香木)などいろいろ有るが、戒律の香りが最上である。


Sandal-wood or Tagara, a lotus-flower, or a Vassiki, among these sorts of perfumes, the perfume of virtue is unsurpassed.


candanaṁ tagaraṁ vāpi, uppalaṁ atha vassikī; etesaṁ gandhajātānaṁ, sīlagandho anuttaro.


旃檀多香 青蓮芳花
雖曰是真 不如戒香


栴檀(せんだん)、多香(たこう)、青蓮(しょうれん)、芳花(ほうけ)、
是(こ)れ真(しん)なりと曰(い)うと雖(いえど)も、戒(かい)の香(こう)には如(し)か不(ず)。


※多香:多伽羅、伽羅(香木)
※青蓮:青蓮華 
※芳花:バッシキー(香木)
※戒:戒律


[09]29頁、[14]94頁


(056)


タガラ(伽羅)や栴檀の香りは微小なり、しかし戒律を護る者の香りは、神々の間にも届いて比類なし。


Mean is the scent that comes from Tagara and sandal-wood;—the perfume of those who possess virtue rises up to the gods as the highest.


appamatto ayaṁ gandho, yāyaṁ tagaracandanī; yo ca sīlavataṁ gandho, vāti devesu uttamo.


華香気微 不可謂真
持戒之香 到天殊勝


華(はな)の香気(こうき)は微(み)なり、真(しん)なりと謂(い)う可(べ)から不(ず)。
持戒(じかい)之(の)香(こう)は、天(てん)に致(いた)るも殊勝(しゅしょう)なり。


※微:微細
※真:真実
※持戒:戒律を保持する
※殊勝:とりわけすぐれている


(057)


戒律を備え、不放逸にとどまり、正しい智慧で解脱した者には、魔王も近寄ることができない。


Of the people who possess these virtues, who live without thoughtlessness, and who are emancipated through true knowledge, Mara, the tempter, never finds the way.


tesaṁ sampannasīlānaṁ, appamādavihārinaṁ; sammadaññāvimuttānaṁ, māro maggaṁ na vindati.


戒具成就 行無放逸
定意度脱 長離魔道


戒(かい)具(つぶさ)に成就(じょうじゅ)し、行(ぎょう)に放逸(ほういつ)無(な)く、
定意(じょうい)、度脱(どだつ)せば、長(なが)く魔道(まどう)を離(はな)る。


※戒具に成就し:いましめをことごとく成し遂げる
※行:修行、おこない
※放逸:仏道にはげまず、なまける
※定意:心の安定、禅定の心
※度脱:解脱
※魔道:魔界外道の世界


(058)


大道に棄てられたる塵芥の山の中に、かぐわしい香りの美しい蓮華が生じるように。


As upon a heap of rubbish cast out on the highway, The lotus will grow, sweetly fragrant, delighting the heart,
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


yathā saṁkāradhānasmiṁ, ujjhitasmiṁ mahāpathe; padumaṁ tattha jāyetha, sucigandhaṁ manoramaṁ.


如作田溝 近于大道
中生蓮華 香潔可意


田溝(でんこう)を作(つく)りて、大道(だいどう)于(に)近(ちか)きも、
中(なか)に蓮華(れんげ)を生(しょう)じて、香潔(こうけつ)、可意(かい)なるが如(ごと)し。


※田溝:田や水路
※大道:大きい道路
※香潔:きよらかなかおり
※可意:こころよい


[02]63頁、[12]197頁、[15]120頁、[17]47頁、[18]90頁、[19]73頁、[21]58頁、[24]152頁、[26]276頁、[27]92頁


(059)


このように、塵芥に等しき、無智蒙昧の凡夫の中に、正しく覚りたる者の弟子は、智慧を以て輝く。


Even so, among them that are as rubbish, blind folk, unconverted, The disciple of the Supremely Enlightened shines with exceeding glory because of wisdom.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


evaṁ saṁkārabhūtesu, andhabhūte puthujjane; atirocati paññāya, sammāsambuddhasāvako.


有生死然 凡夫処辺
慧者楽出 為仏弟子


生死(しょうじ)にも然(しか)る有(あ)り、凡夫(ぼんぷ)の処(しょ)の辺(へん)に、
慧者(えしゃ)は出(い)ずるを楽(たの)しむ、仏弟子(ぶつでし)と為(な)す。


※然る有り:とうぜんにある
※凡夫の処の辺に:普通の人のいるあたりに
※慧者:智慧者


[12]198頁、[24]152頁、[26]276頁、[27]92頁




5章 愚者の章

Chapter V. The Fool
5. bālavagga
5章 愚闇品


(060)


眠れざる人には夜は長く、疲れたる人には一里の道は長い、正法を知らざる愚かな凡夫に輪廻は長い。


Long is the night to him who is awake; long is a mile to him who is tired; long is life to the foolish who do not know the true law.


dīghā jāgarato ratti, dīghaṁ santassa yojanaṁ; dīgho bālāna saṁsāro, saddhammaṁ avijānataṁ.


不寝夜長 疲惓道長
愚生死長 莫知正法


寝(い)ね不(ず)んば夜(よる)は長(なが)く、疲惓(ひけん)せば道(みち)は長(なが)く、
愚(ぐ)には生死(しょうじ)長(なが)し、正法(しょうぼう)を知(し)ること莫(な)ければなり。


※疲惓:つかれる
※愚:愚かな者
※正法:仏の教え


[01]176頁、[02]70頁、[03]42頁、[06]142頁、[07]76頁、[08]125頁、[09]116頁、[15]48頁、[17]50頁、[19]121頁、[21]64頁、[24]119頁、[25]62頁、[27]45頁、[27]52頁


(061)


道を行きて、己より勝れたる人、または己に等しき人に会わなければ、むしろ一人で行け、愚か者を伴侶とすべきでない。


If a traveller does not meet with one who is his better, or his equal, let him firmly keep to his solitary journey; there is no companionship with a fool.


carañ ce nādhigaccheyya, seyyaṁ sadisamattano; ekacariyaṁ daḷhaṁ kayirā, natthi bāle sahāyatā.


学無朋類 不得善友
寧独守善 不与愚偕


学(がく)に朋類(ほうるい)無(な)く、善友(ぜんゆう)を得(え)不(ず)んば、
寧(むし)ろ独(ひとり)善(ぜん)を守(まも)り、愚(ぐ)与(と)偕(とも)にせ不(ざ)れ。


※学に:仏道を学ぶに
※朋類:友人
※善友を得不んば:親友、法友に会わなければ 
※愚与偕にせ不れ:愚かな者と共に行動してはならない


[06]190頁、[17]51頁、[18]122頁、[21]66頁、[23]34頁、[24]146頁、[25]120頁


(062)


我には子がある、我には財がある、と思惟して愚かな凡夫は苦しみ悩む、すでに自己が自己のものではない、どうして子や財が自分のものであろうか。


"These sons belong to me, and this wealth belongs to me," with such thoughts a fool is tormented. He himself does not belong to himself; how much less sons and wealth?


puttā matthi dhanaṁ matthi, iti bālo vihaññati; attā hi attano n’ atthi, kuto puttā kuto dhanaṁ.


有子有財 愚唯汲々
我且非我 何有子財


子(こ)有(あ)り財(ざい)有(あ)りと、愚(ぐ)は唯(ただ)汲々(きゅうきゅう)たり、
我(が)且(か)つ我(が)に非(あら)ず、何(なん)ぞ子(こ)と財(ざい)と有(あ)らんや。


※愚:愚かな者
※汲々:あくせくしてゆとりがない


[01]259頁、[04]103頁、[06]257頁、[07]81頁、[09]86頁、[11]185頁、[15]74頁、[17]53頁、[18]50頁、[19]13頁、[19]45頁、[21]68頁、[24]122頁、[25]216頁、[27]112頁


(063)


 ー愚か者にして自ら愚かなりと思うはすでに賢者なり、愚かにして自ら賢者なりと思う人こそ実に愚か者という。


The fool who knows his foolishness, is wise at least so far. But a fool who thinks himself wise, he is called a fool indeed.


yo bālo maññati bālyaṁ, paṇḍito vāpi tena so; bālo ca paṇḍitamānī, sa ve “bālo” ti vuccati.


愚者自称愚 当知善黙慧
愚人自称智 是謂愚中甚


愚者(ぐしゃ)の自(みずか)ら愚(ぐ)と称(しょう)するは、当(まさ)に善黙(ぜんもく)の慧(え)あるを知(し)るべし、
愚人(ぐにん)の自(みずか)ら智(ち)と称(しょう)するは、是(これ)を愚中(ぐちゅう)の甚(じん)と謂(い)う。


※愚:愚かな者
※善黙:賢者
※慧:智慧
※智:智慧者
※愚中の甚:愚か者の中でもはなはだしい愚か者


[03]51頁、[04]93頁、[04]122頁、[07]143頁、[08]120頁、[11]118頁、[14]197頁、[15]124頁、[18]38頁、[24]124頁、[25]82頁、[27]134頁


(064)


 ー愚か者は一生涯、賢者に付き添っても、正法を知らず、匙が汁の味を知らないように。


If a fool be associated with a wise man even all his life, he will perceive the truth as little as a spoon perceives the taste of soup.


yāvajīvam pi ce bālo, paṇḍitaṁ payirupāsati; na so dhammaṁ vijānāti, dabbī sūparasaṁ yathā.


愚人尽形寿 承事明智人
亦不知真法 如杓酙酌食


愚人(ぐにん)は形寿(ぎょうじゅ)を尽(つく)すまで、明智(めいち)の人(ひと)に承事(じょうじ)するも、
亦(また)真法(しんぽう)を知(し)ら不(ざ)ること、杓(しゃく)の食(じき)を酙酌(しんしゃく)するが如(ごと)し。


※形寿:寿命
※明智の人:智慧のある人
※承事:価値のある話を聞いても
※真法:真実の教え
※杓の食を酙酌する:スプーンで食事を口に運んでもスプーン自体は味を知ることはない


[06]210頁、[07]92頁、[08]122頁、[15]32頁、[17]55頁、[19]127頁、[21]70頁、[24]127頁


(065)


智慧者は瞬時、賢者に付き添っても、速やかに正法を知る、舌が汁の味を知るように。


If an intelligent man be associated for one minute only with a wise man, he will soon perceive the truth, as the tongue perceives the taste of soup.


muhuttam api ce viññū, paṇḍitaṁ payirupāsati; khippaṁ dhammaṁ vijānāti, jivhā sūparasaṁ yathā.


智者須臾間 承事賢聖人
一々智真法 如舌了衆味


智者(ちしゃ)は須臾(しゅゆ)の間(あいだ)、賢聖(けんじょう)の人(ひと)の承事(じょうじ)するも、
一々(いちいち)真法(しんぽう)を智(さと)ること、舌(ぜつ)の衆味(しゅみ)を了(りょう)するが如(ごと)し。


※須臾:少しの間
※承事:価値のある話を聞いても
※一々:もれなく
※真法:真実の教え
※舌の衆味を了する:舌がどんな食べ物の味でもはっきりと分かる


[06]214頁、[10]153頁、[15]32頁、[17]56頁、[19]127頁、[21]70頁、[24]127頁


(066)


愚癡で無智の凡夫は、自分に対して、仇敵のようにふるまう、悪行をなして、苦痛の結果を得る。


Fools of little understanding have themselves for their greatest enemies, for they do evil deeds which must bear bitter fruits.


caranti bālā dummedhā, amitteneva attanā; karontā pāpakaṁ kammaṁ, yaṁ hoti kaṭukapphalaṁ.


愚人施行 為身招患
快心作悪 自致重殃


愚人(ぐにん)の施行(しこう)は、身(み)の為(ため)に患(うれい)を招(まね)く。
快心(けしん)に悪(あく)を作(な)して、自(みずか)ら重殃(じゅうおう)を致(いた)す。


※施行:おこない
※身:我が身
※患:わざわい
※快心:いい気分
※重殃:重いわざわい


[03]52頁、[14]198頁、[18]78頁、[19]172頁、[24]130頁、[25]218頁


(067)


自らの行為により後悔して、顔に涙を流し、泣いてその果報を受ける、このような行為は善くない。


That deed is not well done of which a man must repent, and the reward of which he receives crying and with a tearful face.


na taṁ kammaṁ kataṁ sādhu, yaṁ katvā anutappati; yassa assumukho rodaṁ, vipākaṁ paṭisevati.


行為不善 退見悔悋
致涕流面 報由宿習


行(ぎょう)、不善(ふぜん)を為(な)さば、退(しりぞ)いて悔悋(けりん)を見(み)、
涕流(ていりゅう)の面(おもて)を致(いた)さん、報(ほう)は宿習(しゅくじゅう)に由(よ)る。


※行、不善:悪いおこない
※退いて:後になって
※悔悋:くやみおしむ
※涕流の面:顔に涙を流す
※報:むくい
※宿習:前世からの習慣や習性


[03]55頁、[04]145頁、[21]72頁、[24]134頁、[25]212頁


(068)


自らの行為により後悔せず、死して後、喜んでその果報を受ける、このような行為は善い。


No, that deed is well done of which a man does not repent, and the reward of which he receives gladly and cheerfully.


tañ ca kammaṁ kataṁ sādhu, yaṁ katvā nānutappati; yassa patīto sumano, vipākaṁ paṭisevati.


行為徳善 進覩観喜
応来受福 喜笑悦習


行(ぎょう)、徳善(とくぜん)を為(な)さば、進(すす)んで観喜(かんぎ)を覩(み)、
応来(おうらい)、福(ふく)を受(う)け、喜笑(きしょう)、悦習(えつじゅう)せん。


※行、徳善:徳のある善いおこない
※観喜:よろこび
※応来:(徳善)に反応して
※喜笑、悦習:喜び、笑いが習慣となる


[03]55頁、[04]145頁、[09]98頁、[24]134頁


(069)


悪行をしても、その罪が未だ熟さない間は、愚か者はこれを蜜のように思う、その罪が熟する時に至って、愚か者は苦悩する。


As long as the evil deed done does not bear fruit, the fool thinks it is like honey; but when it ripens, then the fool suffers grief.


madhuṁvā maññati bālo, yāva pāpaṁ na paccati; yadā ca paccati pāpaṁ, atha dukkhaṁ nigacchati.


過罪未熟 愚以恬淡
至其熟時 自受大罪


過罪(かざい)の未(いま)だ熟(じゅく)せざるときは、愚(ぐ)は以(もっ)て恬淡(てんたん)たり、
其(その)熟(じゅく)する時(とき)に至(いた)りて、自(みずか)ら大罪(たいざい)を受(う)く。


※過罪の未だ熟せざるときは:犯した過ちが未だ結果として現れて来ないうちは
※愚:愚かな者
※恬淡:呑気に過ごしている
※大罪:大きな罪


[03]54頁、[24]136頁


(070)


愚か者は、日々、茅草の端(少量)の飲食をするとしても、真理を理解した人の、十六分の一にも及ばず。


Let a fool month after month eat his food (like an ascetic) with the tip of a blade of Kusa grass, yet he is not worth the sixteenth particle of those who have well weighed the law.


māse māse kusaggena, bālo bhuñjeyya bhojanaṁ; na so saṁkhātadhammānaṁ, kalaṁ agghati soḷasiṁ.


従月至於月 愚者用飲食
彼不信於仏 十六不獲一


月(つき)に従(よ)り月(つき)に至(いた)り、愚者(ぐしゃ)は用(もっ)て飲食(おんじき)するも、
彼(かれ)仏(ほとけ)を信(しん)ぜ不(ず)んば、十六(じゅうろく)に一(いち)をも獲(え)不(じ)。


※月に従り月に至り:いつものように
※用て:体の役に立つと思い
※十六に一をも:仏道修行者の16分の1も(ほんの少し)


[03]72頁、[21]74頁


(071)


悪行をしても、まるで新たに搾った牛乳のように、すぐには固まらず、徐々に固まる、灰に覆われた火のように、愚か者を悩ます。


An evil deed, like newly-drawn milk, does not turn (suddenly); smouldering, like fire covered by ashes, it follows the fool.


na hi pāpaṁ kataṁ kammaṁ, sajju khīraṁ va muccati; ḍahantaṁ bālam anveti, bhasmacchanno va pāvako.


悪不即時 如搾牛乳
罪在陰伺 如灰覆火


悪(あく)は即(そく)時(とき)なら不(ず)、牛乳(ぎゅうにゅう)を搾(しぼ)るが如(ごと)し、
罪(つみ)の陰(かげ)に在(あ)りて伺(うかが)うこと、灰(はい)の火(ひ)を覆(おお)うが如(ごと)し。


※即時なら不:すぐにその報いは来ない
※牛乳を搾るが如し:搾りたての牛乳がすぐに固まらないように
※灰の火を覆う:炭火が灰に覆われていてもいつか燃え上がる


[02]76頁、[15]104頁、[18]19頁、[21]76頁、[25]210頁


(072)


他人を害せんとする思慮が、愚か者に生ずる間は、自らの幸運を亡ぼし、彼の頭を断ち切る。


And when the evil deed, after it has become known, brings sorrow to the fool, then it destroys his bright lot, nay, it cleaves his head.


yāvad eva anatthāya, ñattaṁ bālassa jāyati; hanti bālassa sukkaṁsaṁ, muddham assa vipātayaṁ.


愚生念慮 至終無利
自招刀杖 報有印章


愚(ぐ)の念慮(ねんりょ)を生(しょう)ずるに、終(お)わりに至(いた)るまで利(り)無(な)く、
自(みずか)ら刀杖(とうじょう)を招(まね)き、報(ほう)に印章(いんしょう)有(あ)り。


※愚:愚かな者
※念慮:あれこれと思いめぐらす
※刀杖:災い、刀や杖で傷つける  
※報に印章有り:そのむくいは印鑑を押したようにはっきり現れる


[03]57頁73頁、[05]212頁


(073)


愚か者は、虚しき尊敬を望む、修行者の中では上の位に立つことを望み、僧房の中では主権を望み、他人の家では供養を望む。


Let the fool wish for a false reputation, for precedence among the Bhikshus, for lordship in the convents, for worship among other people!


asantaṁ bhāvanam iccheyya, purekkhārañca bhikkhusu; āvāsesu ca issariyaṁ, pūjaṁ parakulesu ca.


愚人貪利養 求望名誉称
在家自興嫉 常求他供養


愚人(ぐにん)は利養(りよう)を貪(むさぼ)り、名誉(めいよ)の称(しょう)を求望(ぐもう)し、
在家(ざいけ)にして自(みずか)ら嫉(しつ)を興(おこ)し、常(つね)に他(た)の供養(くよう)を求(もと)む。


※利養:世俗的な利益
※名誉の称:地位名声
※嫉を興し:ねたみをおこし
※他の:他人からの


[03]56頁、[04]124頁、[07]102頁、[16]140頁、[17]57頁、[24]139頁


(074)


在家も出家も、「これは正に自分のしたことである」と考え、「諸々の、為すことと為さざることに於ける、何事も自分の心に従うべし」というのは、これ愚か者の思慮するところ、欲望と慢心が増長する。


"May both the layman and he who has left the world think that this is done by me; may they be subject to me in everything which is to be done or is not to be done," thus is the mind of the fool, and his desire and pride increase.


mam’ eva kata maññantu, gihī pabbajitā ubho; mamevātivasā assu, kiccākiccesu kismici; iti bālassa saṁkappo, icchā māno ca vaḍḍhati.


勿猗此養 為家捨罪
此非至意 用々何益
愚為愚計想 慾慢日用増


此(こ)の養(よう)に猗(よ)る勿(なか)れ、家(いえ)の為(ため)に罪(つみ)を捨(す)てよ、
此(こ)れ至意(しい)に非(あら)ず、用々(ようよう)何(なん)の益(えき)かあらん。
愚(ぐ)と愚(ぐ)の計想(けいそう)を為(な)し、慾慢(よくまん)日(ひ)に用(もっ)て増(ま)す。


※養に猗る勿れ:供養に満足せず
※至意:誠意
※用々:何をしても
※愚と愚の計想を為し:愚か者が愚かな想い計らいをして
※慾慢:慾心と慢心


[03]56頁、[16]141頁


(075)


一つは利養の道、一つは涅槃の道、このように完全に理解する仏陀の弟子なる修行者は、世間の評判を好まず、独り離れて住むべし。


"One is the road that leads to wealth, another the road that leads to Nirvana;" if the Bhikshu, the disciple of Buddha, has learnt this, he will not yearn for honour, he will strive after separation from the world.


aññā hi lābhūpanisā, aññā nibbānagāminī; evametaṁ abhiññāya, bhikkhu buddhassa sāvako; sakkāraṁ nābhinandeyya, vivekam anubrūhaye.


異哉夫利養 泥洹趣不同
能諦知是者 比丘真仏子
不楽著利養 閑居却乱意


異(こと)なるかな夫(その)利養(りよう)よ、泥洹(ないおん)の趣(しゅ)は同(おなじ)から不(ず)、
能(よ)く諦(あきら)かに是(これ)を知(し)る者(もの)は、比丘(びく)なり真仏子(しんぶつし)なり、
利養(りよう)に楽著(ぎょうじゃく)せ不(ざ)れ、閑居(かんきょ)して乱意(らんい)を却(しり)ぞけよ。


※利養:世俗的な利益
※泥洹:涅槃、悟りの境地
※趣:考え
※比丘:修行者
※真仏子:真の仏弟子
※楽著:執著を楽しむ
※閑居:世俗を離れて暮らす


[03]61頁、[04]97頁、[16]142頁、[17]58頁、[21]78頁




6章 賢者の章

Chapter VI. The Wise Man (Pandita)
6. paṇḍitavagga
6章 明哲品


(076)


地下にある財宝の蔵を告げる人のように、過ちをみつけて、訓戒する智慧者に会うときは、この賢者に従え、このような賢者に従えば勝利あり罪悪なし。


If you see an intelligent man who tells you where true treasures are to be found, who shows what is to be avoided, and administers reproofs, follow that wise man; it will be better, not worse, for those who follow him.


nidhīnaṁ va pavattāraṁ, yaṁ passe vajjadassinaṁ; niggayhavādiṁ medhāviṁ, tādisaṁ paṇḍitaṁ bhaje; tādisaṁ bhajamānassa, seyyo hoti na pāpiyo.


深観善悪 心知畏忌
畏而不犯 終吉無憂
故世有福 念思紹行
善致其願 福禄転勝


深(ふか)く善悪(ぜんあく)を観(かん)じ、心(こころ)の畏忌(いき)を知(し)り、
畏(おそ)れて而(しか)も犯(おか)さ不(ず)んば、終(つい)に吉(きち)にして憂(うれ)い無(な)けん。
故(ゆえ)に世(よ)に福(ふく)有(あ)り、念思(ねんし)、紹行(しょうぎょう)せば、
善(よ)く其(そ)の願(がん)を致(いた)し、福禄(ふくろく)転(うた)た勝(すぐ)れん。


※畏忌:悪を恐れ嫌うこと
※犯さ不んば:悪を犯さなければ
※念思、紹行せば:思い念じ修行を継承すれば
※福禄:しあわせ
※転:ますます


[03]74頁、[06]185頁、


(077)


教示せよ、教戒せよ、悪事を避けよ、彼は善人に愛され、悪人に愛されない。


Let him admonish, let him teach, let him forbid what is improper!—he will be beloved of the good, by the bad he will be hated.


ovadeyyānusāseyya, asabbhā ca nivāraye; satañhi so piyo hoti, asataṁ hoti appiyo.


昼夜当精勤 牢持於禁戒
為善友所敬 悪友所不念


昼夜(ちゅうや)に当(まさ)に精勤(しょうごん)して、禁戒(きんかい)を牢持(ろうじ)す、
善友(ぜんね)の敬(うやま)うところ、悪友(あくう)の念(ねん)ぜ不(ざ)る所(ところ)と為(な)らん。


※精勤:まじめに励む
※禁戒:守るべききまり
※牢持:かたく守る
※善友:親友、法友


[06]186頁


(078)


悪人に伴うな、下劣な人に従うな、善友に伴え、最上の人に従え。


Do not have evil-doers for friends, do not have low people for friends: have virtuous people for friends, have for friends the best of men.


na bhaje pāpake mitte, na bhaje purisādhame; bhajetha mitte kalyāṇe, bhajetha purisuttame.


常避無義 不親愚人
思従賢友 押附上士


常(つね)に無義(むぎ)を避(さ)け、愚人(ぐにん)に親(した)しま不(ず)、
賢友(けんう)に従(したが)い、上士(じょうし)に押附(おうふ)せんと思(おも)え。


※無義:無意味なこと
※上士:菩薩
※押附:仲良くなる


[06]183頁、[08]190頁、[09]48頁、[15]36頁、[16]160頁、[17]60頁、[19]132頁、[21]84頁、[23]95頁、[24]155頁


(079)


真理を求める者は、快く眠り、心清く、賢者は常に聖者の説く真理を楽しむ。


He who drinks in the law lives happily with a serene mind: the sage rejoices always in the law, as preached by the elect (Ariyas).


dhammapīti sukhaṁ seti, vippasannena cetasā; ariyappavedite dhamme, sadā ramati paṇḍito.


喜法臥安 心悦意清
聖人演法 慧常楽行
仁人智者 斎戒奉道
如星中月 照明世間


法(ほう)を喜(よろこ)わば臥(ふ)して安(やす)く、心(こころ)悦(よろこ)び意(こころ)清(きよ)し、
聖人(しょうにん)は法(ほう)を演(の)べ、慧(え)は常(つね)に楽(たの)しんで行(ぎょう)ず。
仁人(にんにん)、智者(ちしゃ)は、斎戒(さいかい)して道(どう)を奉(ほう)じ、
星中(せいちゅう)の月(つき)の如(ごと)く、世間(せけん)を照明(しょうみょう)す。


※臥して安く:寝ても安らか
※聖人:徳の高い僧
※慧:智慧
※仁人:思いやりの心を備えた人
※智者:智慧者
※斎戒:心身を清め
※道:仏の道
※奉じ:うけたまわる
※星中の月の如く:星の中でも一番明るい月のように
※照明:明るく照らす


[04]163頁、[07]154頁、[17]61頁、[21]86頁、[23]174頁、[24]158頁


(080)


水路をつくる人は水を導き、矢をつくる人は矢を調え、大工は木を調え、智慧者は己を調える。


Well-makers lead the water (wherever they like); fletchers bend the arrow; carpenters bend a log of wood; wise people fashion themselves.


udakaṁ hi nayanti nettikā, usukārā namayanti tejanaṁ; dāruṁ namayanti tacchakā, attānaṁ damayanti paṇḍitā.


弓工調角 水人調船
材匠調木 智者調身


弓工(くく)は角(つの)を調(おさ)め、水人(すいにん)は船(ふね)を調(おさ)め、
材匠(ざいしょう)は木(き)を調(おさ)め、智者(ちしゃ)は身(しん)を調(おさ)む。


※弓工:弓師 
※角:矢の角、真っ直ぐ 
※調め:調える、ととのえる
※水人:船乗り
※材匠:大工
※智者:智慧者
※身:我が身
(145句と同文)


[07]167頁、[11]150頁、[15]128頁、[21]88頁


(081)


岩山が風に動かないように、賢者は誹謗と賞讃の中に於いて動かず。


As a solid rock is not shaken by the wind, wise people falter not amidst blame and praise.


selo yathā ekaghano, vātena na samīrati; evaṁ nindāpasaṁsāsu, na samiñjanti paṇḍitā.


譬如厚石 風不能移
智者意重 毀誉不傾


譬(たと)えば厚石(こうせき)の、風(かぜ)の移(うつ)すこと能(あた)わざるが如(ごと)く、
智者(ちしゃ)は意(こころ)重(おも)くして、毀誉(きよ)に傾(かたむ)か不(ず)。


※厚石:大きい石
※風の移す:風で動く
※智者:智慧者
※重くして:不動で
※毀誉に傾か不:けなされても誉められても左右されない


[03]78頁、[10]71頁、[19]30頁、[24]159頁


(082)


深い池は澄んで静かなように、智慧者は真理を聞いて安泰である。


Wise people, after they have listened to the laws, become serene, like a deep, smooth, and still lake.


yathāpi rahado gambhīro, vippasanno anāvilo; evaṁ dhammāni sutvāna, vippasīdanti paṇḍitā.


譬如深渕 澄静清明
慧人聞道 心淨観然


譬(たと)えば深渕(じんえん)の、澄静(ちょうじょう)にして清明(しょうみょう)なるが如(ごと)く、
慧人(えにん)は道(どう)を聞(き)いて、心(こころ)浄(きよ)く観然(かんねん)たり。


※深渕:深い迷いのよどみ
※澄静:澄んできよらか
※清明:きよらかで明るい
※慧人:智慧者
※道:仏の道
※観然:大いに喜ぶ


[03]80頁、[07]197頁、[17]62頁、[19]75頁、[21]149頁


(083)


善人は一切を棄てる、欲を貪らず、饒舌にならず、賢者は幸福や苦しみの影響を受けても動ずることはない。


sabbattha ve sappurisā cajanti, na kāmakāmā lapayanti santo; sukhena phuṭṭhā atha vā dukhena, na uccāvacaṁ paṇḍitā dassayanti.


大人体無欲 在所照然明
雖或遭苦楽 不高現其智


大人(だいじん)は無欲(むよく)を体(たい)とし、在所(ざいしょ)に照然(しょうねん)として明(あき)らかなり、
或(あるい)は苦楽(くらく)に遭(あ)うと雖(いえど)も、高(たか)く其(その)智(ち)を現(げん)ぜ不(ず)。


※大人:菩薩
※体:本体
※在所:どこに居ても
※照然:すみきって明瞭
※高く其智を現ぜ不:大いに喜んだり悲しんだりせず平静にその智慧を保つ


[10]173頁、[16]161頁、[17]63頁、[21]92頁、[24]161頁、[25]84頁


(084)


善人は己の為にも、また他人の為にも、子孫を望むな、財産も、土地も望むな、不法により己の繁栄を望むな、彼は戒律と智慧のある正しい人であれ。


If, whether for his own sake, or for the sake of others, a man wishes neither for a son, nor for wealth, nor for lordship, and if he does not wish for his own success by unfair means, then he is good, wise, and virtuous.


na attahetu na parassa hetu, na puttamicche na dhanaṁ na raṭṭhaṁ; na iccheyya adhammena samiddhimattano, sa sīlavā paññavā dhammiko siyā.


大賢無世事 不願子財国
常守戒慧道 不貪邪富貴


大賢(だいけん)は世事(せじ)無(な)し、子(こ)と財(ざい)と国(くに)とを願(ねが)わ不(ず)。
常(つね)に戒(かい)と慧(え)と道(どう)を守(まも)り、邪(よこしま)の富貴(ふうき)を貪(むさぼ)ら不(ず)。


※大賢:たいへん賢い人
※世事無し:世の中の事がらに関心なし
※子と財と国:子孫と財産と国土
※戒と慧と道:戒律と智慧と仏の道
※富貴:金持で地位や身分が高い


[21]94頁、[24]164頁


(085)


多くの人の中に於いて、少数の人は彼岸(涅槃)に達する、他の人々は此岸(生死輪廻の世界)の岸の上にさまよう。


Few are there among men who arrive at the other shore (become Arhats); the other people here run up and down the shore.


appakā te manussesu, ye janā pāragāmino; athāyaṁ itarā pajā, tīram evānudhāvati.


世皆没渕 鮮克度岸
如或有人 欲度必奔


世(よ)は皆(みな)渕(ふち)に没(ぼっ)し、克(よ)く岸(きし)に度(わた)るは鮮(すくな)し、
如(も)し或(あるい)は人(ひと)有(あ)り、度(ど)すらんと欲(ほっ)して必(かなら)ず奔(はし)る。


※世は皆渕に没し:世間の人はみんな迷いの世界におぼれ
※克く:上手に
※岸:彼岸、涅槃
※度る:渡る
※鮮し:少ない
※度すらんと欲して必ず奔る:彼岸に渡ろうと思っても方法が分からずただ走り回るだけ


[02]86頁、[03]68頁81頁、[13]86頁、[16]122頁、[17]64頁、[19]177頁、[21]96頁、[22]49頁、[26]131頁


(086)


正しく説かれた真理があるとき、その真理に従う人のみ彼岸(涅槃)に至る、死の領域を越えるのは、甚だ難しい。


But those who, when the law has been well preached to them, follow the law, will pass across the dominion of death, however difficult to overcome.


ye ca kho sammadakkhāte, dhamme dhammānuvattino; te janā pāramessanti, maccudheyyaṁ suduttaraṁ.


誠貪道者 覧受正教
此近彼岸 脱死為上


誠(まこと)に道(どう)を貪(むさぼ)る者(もの)は、正教(しょうきょう)を覧受(らんじゅ)す、
此(こ)の、彼岸(ひがん)に近(ちか)づき、死(し)を脱(だっ)するを上(じょう)と為(な)す。


※道:仏の道
※正教:正しい教え
※覧受:まとめ受け取る
※死を脱する:生死界から抜け出す
※上:最上


[02]92頁、[07]219頁、[16]135頁、[17]66頁、[22]50頁、[24]164頁


(087)


智慧者は、黒法(悪)を離れて白法(善)を修すべし、在家より出家して、独り悦楽のないところへ。


Abandoning the dark state, the wise man should adopt the bright state. Leaving home, he should go forth to the homeless life. In solitude, where enjoyment is hard to find,
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


kaṇhaṁ dhammaṁ vippahāya, sukkaṁ bhāvetha paṇḍito; okā anokamāgamma, viveke yattha dūramaṁ.


断五陰法 静思智慧
不反入渕 棄猗其明
抑制情欲 絶楽無為
能自拯済 使意為慧


五陰(ごおん)の法(ほう)を断(た)ち、静(しず)かに智慧(ちえ)を思(おも)い、
反(かえ)って渕(ふち)に入(はい)って、其(その)明(みょう)を棄猗(きい)せ不(ず)、
情欲(じょうよく)を抑制(よくせい)し、絶(はなは)だ無為(むい)を楽(ねが)い、
能(よ)く自(みずか)ら拯済(じょうさい)し、意(こころ)して慧(え)を為(な)さ使(し)めよ。


※五陰の法を断ち:肉体と精神を色・受・想・行・識の五つに分けたもの、五蘊(ごうん)の煩悩を断ち
※渕:迷いの世界
※明:明智、智慧
※棄猗せ不:見落とさない
※無為:現世を超越した絶対不変の境地
※拯済:たすける
※慧を為さ使めよ:智慧を働かせよ


(088)


喜びを求めよ、智慧者は諸々の欲を去り、一物をも所有せず、己を清めて、諸々の煩悩を除くべし。


There he should seek enjoyment, by forsaking the lusts of the flesh, with nothing he may call his own; The wise man should rid himself of the impurities of the heart.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


tatrābhiratimiccheyya, hitvā kāme akiñcano; pariyodapeyya attānaṁ, cittaklesehi paṇḍito.


智人知動揺 譬如沙中樹
朋友志未強 随色染其素


智人(ちにん)は動揺(どうよう)を、譬(たと)えば沙中(しゃちゅう)の樹(じゅ)の如(ごと)しと知(し)る。
朋友(ほうゆう)に志(こころざし)未(いま)だ強(つよ)からずば、色(しき)に随(したが)い其(その)素(そ)を染(そ)めん。


※智人:智慧ある人
※動揺:心は絶えず揺れ動いている
※沙中の樹:砂の中に植えた木のように揺れ動く
※朋友:友人
※色に随い:俗世間の変化にしたがい
※其素を染めん:自らもその変化に染まっていく


[16]122頁、[20]165頁


(089)


心は正しき菩薩の要素(七覚支、悟りを得るための七つの修行)を正しく修習して、執着なく、執着を棄てることを楽しみ、心の穢れを尽くし、知見を備える人は、現世に於いて涅槃に入れるなり。


Those whose mind is well grounded in the (seven) elements of knowledge, who without clinging to anything, rejoice in freedom from attachment, whose appetites have been conquered, and who are full of light, are free (even) in this world.


yesaṁ sambodhiyaṅgesu, sammā cittaṁ subhāvitaṁ; ādānapaṭinissagge, anupādāya ye ratā; khīṇāsavā jutimanto, te loke parinibbutā.


学取正智 意惟正道
一心受諦 不起為楽
漏尽習除 是得度世


学(まな)んで正智(しょうち)を取(と)り、意(こころ)に正道(しょうどう)を惟(おも)い、
一心(いっしん)に諦(たい)を受(う)け、不起(ふき)を楽(らく)と為(な)さば、
漏(ろ)尽(つ)き習(しゅう)除(のぞ)き、是(ここ)に世(よ)を度(ど)するを得(え)ん。


※正智:正しい智慧
※正道:仏の道
※一心:心を一つに集中する
※諦を受け:四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理を受け
※不起:あらゆる執着を断ち
※漏:煩悩
※習:習慣
※度する:渡る


[17]68頁、[21]98頁




7章 阿羅漢の章
Chapter VII. The Venerable (Arhat).
7. arahantavagga
7章 羅漢品


(090)


人生の旅路をすでに終え、憂いを除き、一切に於いて解脱し、一切の束縛を断てる人には苦悩はない。


There is no suffering for him who has finished his journey, and abandoned grief, who has freed himself on all sides, and thrown off all fetters.


gataddhino visokassa, vippamuttassa sabbadhi; sabbaganthappahīnassa, pariḷāho na vijjati.


去離憂患 脱於一切
縛結已解 冷而無燸


憂患(うかん)を去離(こり)し、一切(いっさい)を脱(だっ)し、
縛結(ばくけつ)已(すで)に解(と)けなば、冷(ひや)やかに而(して)燸(なん)無(な)けん。


※憂患を去離し:心配してこころをいためることから離れて
※縛結:(愛欲の)しばり、とらわれ
※冷やかに而:冷静にして
※燸無けん:煩悩の火が燃え上がることは無い


[11]196頁、[21]104頁、[24]181頁


(091)


思慮し、努め励む者は、執着を楽しまない、白鳥が池を飛び去るように、彼らはあらゆる執着を棄て去る。


They depart with their thoughts wellcollected, they are not happy in their abode; like swans who have left their lake, they leave their house and home.


uyyuñjanti satīmanto, na nikete ramanti te; haṁsāva pallalaṁ hitvā, okamokaṁ jahanti te.


心浄得念 無所貪楽
已度癡渕 如鴈棄池


心(こころ)浄(きよ)く念(ねん)を得(え)て、貪楽(とんぎょう)する所(ところ)無(な)くば、
已(すで)に癡(ち)の渕(ふち)を度(ど)する、鴈(がん)の池(いけ)の棄(す)つるが如(ごと)し。


※貪楽:むさぼりねがう
※癡:愚癡(ぐち)、愚かで物事の道理を知らない
※渕:迷いの世界
※度する:渡る


[01]283頁、[04]108頁、[11]198頁、[13]76頁、[15]138頁、[19]203頁、[24]183頁、[27]119頁


(092)


財を蓄積することなく、食事について遍く知り、心は空、無相、無願の境地に於いて、その人の行跡を辿ることは難しい、あたかも空を飛ぶ鳥の跡のように。


Men who have no riches, who live on recognised food, who have perceived void and unconditioned freedom (Nirvana), their path is difficult to understand, like that of birds in the air.


yesaṁ sannicayo natthi, ye pariññātabhojanā; suññato animitto ca, vimokkho yesaṁ gocaro; ākāseva sakuntānaṁ, gati tesaṁ durannayā.


若人無所依 知彼所貴食
空及無相願 思惟以為行
鳥飛虚空 而無足跡
如彼行人 言説無趣


若(も)し人(ひと)所依(しょえ)無(な)く、彼(かれ)が貴(とうと)ぶ所(ところ)の食(じき)を知(し)り、
空(くう)及(およ)び相願(そうがん)無(な)きに、思惟(しゆい)するを以(もっ)て行(ぎょう)と為(な)す。
鳥(とり)は虚空(こくう)を飛(と)び、而(しか)も足跡(そくせき)無(な)きは、
彼(か)の行人(ぎょうにん)の、言説(ごんせつ)に趣(しゅ)無(な)き如(ごと)し。


※所依:財産の蓄え
※貴ぶ所の食を知り:食事についての節度を知り
※空及び相願無きに:空・無相・無願の三つの三昧、三解脱門(悟りに至る三つの門戸)
 空三昧とは、すべての存在、あるいは存在現象は空であると観ずること
 無相三昧とは、空であるゆえ種々相はない、差別の相がないと観ずること
 無願三昧とは、無相なるゆえ願求すべき欲望の対象でないと観ずること
※思惟:正しい考え
※行:修行、おこない
※彼の行人:悟りの境地に到達した人
※言説に趣無き:意見や説明に考えが無く自由である


[03]83頁、[13]89頁、[17]72頁、[21]106頁


(093)


心の穢れを尽くし、飲食にとらわれず、心は空、無相、無願の境地に於いて、その人の行跡を辿ることは難しい、あたかも空を飛ぶ鳥の跡のように。


He whose appetites are stilled, who is not absorbed in enjoyment, who has perceived void and unconditioned freedom (Nirvana), his path is difficult to understand, like that of birds in the air.


yassāsavā parikkhīṇā, āhāre ca anissito; suññato animitto ca, vimokkho yassa gocaro; ākāseva sakuntānaṁ, padaṁ tassa durannayaṁ.


如鳥飛虚空 而無有所礙
彼人獲無漏 空無相願定


鳥(とり)の虚空(こくう)を飛(と)びて、而(しか)も礙(さまた)げる所(ところ)有(あ)ること無(な)きが如(ごと)く、
彼(か)の人(ひと)は、無漏(むろ)の空(くう)、無相願(むそうがん)の定(じょう)を獲(え)る。


※彼の人:悟りの境地に到達した人
※無漏:煩悩が無い
※空、無相願:空・無相・無願の三つの三昧、三解脱門(悟りに至る三つの門戸)
 空三昧とは、すべての存在、あるいは存在現象は空であると観ずること
 無相三昧とは、空であるゆえ種々相はない、差別の相がないと観ずること
 無願三昧とは、無相なるゆえ願求すべき欲望の対象でないと観ずること
※定:さだめ


[11]190頁、[13]90頁


(094)


感覚器官を制御し、御者に善く馴らされた馬のように、慢心を断ち、心の穢れを尽くせば、神々でさえも、その人を羨む。


The gods even envy him whose senses, like horses well broken in by the driver, have been subdued, who is free from pride, and free from appetites.


yass’ indriyāni samathaṁgatāni, assā yathā sārathinā sudantā; pahīnamānassa anāsavassa, devāpi tassa pihayanti tādino.


制根従正 如馬調御
捨驕慢習 為天所敬


根(こん)を制(せい)して正(まさ)に従(したが)うは、馬(うま)を調御(ちょうご)するが如(ごと)し、
驕慢(きょうまん)の習(しゅう)を捨(す)つれば、天(てん)の為(ため)に敬(きょう)せ所(らる)。


※根:五根(眼・耳・鼻・舌・身)、五欲
※調御:調教
※驕慢:おごりたかぶる心
※習:習慣
※天の為に敬せ所:諸の神々に尊敬される


(095)


このような人は、大地のように争わず、門の敷居のように能く慎み、泥のない池のように清らかで、このような人に輪廻はない。


Such a one who does his duty is tolerant like the earth, like Indra's bolt; he is like a lake without mud; no new births are in store for him.


pathavisamo no virujjhati, indakhilupamo tādi subbato; rahadova apetakaddamo, saṁsārā na bhavanti tādino.


受辱心如地 行忍如門閾
浄如水無垢 生尽無彼受


辱(じょく)を受(う)けて心(こころ)地(ち)の如(ごと)く、忍(にん)を行(ぎょう)ずる門閾(もんいき)の如(ごと)く、
浄(きよ)きこと水(みず)の垢(く)無(な)きが如(ごと)くば、生(せい)尽(つ)きて彼(か)の受(じゅ)無(な)けん。


※辱:はずかしめ
※心地の如く:心は大地のように静かで
※忍を行ずる:あらゆる侮辱や迫害に耐え忍んで怒りの心を起こさない修行
※門閾の如く:門の敷居が人々にまたがれても不平不満を言わないように
※垢:汚れ
※彼の受無けん:輪廻の迷いは断たれている


[03]87頁、[06]73頁、[07]250頁、[10]74頁


(096)


心は静まり、言葉も行いも静かな人は、正しい智慧により解脱し、安楽を得た人である。


His thought is quiet, quiet are his word and deed, when he has obtained freedom by true knowledge, when he has thus become a quiet man.


santaṁ tassa manaṁ hoti, santā vācā ca kamma ca; sammadaññāvimuttassa, upasantassa tādino.


心已休息 言行亦正
従正解脱 寂然帰滅


心(こころ)已(すで)に休息(くそく)し、言行(ごんぎょう)も亦(また)正(ただ)しく、
正解脱(しょうげだつ)に従(したが)わば、寂然(じゃくねん)として滅(めつ)に帰(き)せん。


※言行:言動行動
※正解脱に従わば:正しい智慧で悟りの道を歩めば
※寂然として滅に帰せん:心静かに涅槃に入る


[07]159頁、[09]42頁、[17]73頁、[21]108頁、[24]185頁、[25]40頁


(097)


妄信を離れ、涅槃を悟り、転生の絆を断ち、誘惑を斥け、欲望を棄てた人こそ正に最上の人である。


The man who is free from credulity, but knows the uncreated, who has cut all ties, removed all temptations, renounced all desires, he is the greatest of men.


assaddho akataññū ca, sandhicchedo ca yo naro; hatāvakāso vantāso, sa ve uttamaporiso.


棄欲無著 欠三界障
望意已絶 是謂上人


欲(よく)を棄(す)て著(じゃく)無(な)く、三界(さんかい)の障(しょう)を欠(か)き、
望意(もうい)已(すで)に絶(た)ゆ、是(これ)を上人(しょうにん)と謂(い)う。


※著無く:執着無く
※三界の障を欠き:三界(欲界・色界・無色界という迷いの世界)の障りがなく
※望意:慾望
※上人:徳の高い僧


[11]25頁、[24]188頁


(098)


村落に於いても、また森の中に於いても、平野に於いても、高原に於いても、阿羅漢の住むところは楽しい。


In a hamlet or in a forest, in the deep water or on the dry land, wherever venerable persons (Arhanta) dwell, that place is delightful.


gāme vā yadi vāraññe, ninne vā yadi vā thale; yattha arahanto viharanti, taṁ bhūmirāmaṇeyyakaṁ.


在聚在野 平地高岸
応真所過 莫不蒙祐


聚(むら)に在(あ)るも野(の)に在(あ)るも、平地(へいち)も高岸(こうがん)も、
応真(おうしん)の過(す)ぐる所(ところ)、祐(さいわい)を蒙(こうむ)ら不(ざ)るは莫(な)し。


※聚:村
※高岸:高地
※応真:尊敬に値する人
※過ぐる所:行き過ぎる所
※祐を蒙ら不るは莫し:皆たすけになり、幸せをこうむらない者はない


[02]100頁、[11]200頁、[16]177頁、[17]75頁、[19]81頁、[22]61頁、[25]18頁


(099)


林の中は楽しい、世人の好まないところ、貪欲を離れた人は、これを楽しむ、彼らは愛欲を求めないからである。


Forests are delightful; where the world finds no delight, there the passionless will find delight, for they look not for pleasures.


ramaṇīyāni araññāni, yattha na ramatī jano; vītarāgā ramissanti, na te kāmagavesino.


彼楽空閑 衆人不能
快哉無望 無所欲求


彼(かれ)は空閑(くうげん)を楽(たの)しむ、衆人(しゅにん)は能(あた)わ不(ず)、
快(かい)なる哉(かな)、望(のぞみ)無(な)く、欲求(よくぐ)する所(ところ)無(な)し。


※彼:尊敬する人
※空閑:人のいない野や林
※衆人は能わ不:多くの人々にはそれが楽しみとは思わない


[09]154頁、[16]178頁、[21]110頁、[22]62頁、[25]18頁




8章 千の章

Chapter VIII. The Thousands
8. sahassavagga
8章 述千品


(100)


無益な句より成る千の言葉よりも、聞いて安穏を得る一つの言葉の方が勝れている。


Even though a speech be a thousand (of words), but made up of senseless words, one word of sense is better, which if a man hears, he becomes quiet.


sahassam api ce vācā, anatthapadasaṁhitā; ekaṁ atthapadaṁ seyyo, yaṁ sutvā upasammati.


雖誦千言 句義不正
不如一要 聞可滅意


千言(せんごん)を誦(じゅ)すと雖(いえど)も、句義(くぎ)正(しょう)なら不(ず)んば、
一要(いちよう)を聞(き)きて、意(こころ)を滅(めっ)す可(べ)きに如(し)かず。


※千言を誦す:千の語句をとなえても
※句義:その句の意味
※一要:一つの大切な句


[02]110頁、[03]92頁、[07]209頁、[14]185頁、[17]78頁、[18]114頁、[19]119頁、[21]116頁、[22]83頁、[24]107頁、[25]26頁


(101)


無益な句より成る千の詩よりも、聞いて安穏を得る一つの詩の方が勝れている。


Even though a Gatha (poem) be a thousand (of words), but made up of senseless words, one word of a Gatha is better, which if a man hears, he becomes quiet.


sahassam api ce gāthā, anatthapadasaṁhitā; ekaṁ gāthāpadaṁ seyyo, yaṁ sutvā upasammati.


雖誦千章 不義何益
不如一義 聞行可度


千章(せんしょう)を誦(じゅ)すと雖(いえど)も、義(ぎ)あら不(ず)んば何(なん)の益(やく)かあらん、
一義(いちぎ)の、聞(き)いて行(ぎょう)して度(ど)すべきに如(し)かず。


※千章を誦す:千の詩句をとなえても
※義:人としての正しい道
※益:利益
※一義:一つの教え
※行:修行、おこない
※度す:彼岸(涅槃)に渡す


[22]84頁、[24]108頁、[25]26頁


(102)


無益な句より成る百の詩を詠むよりも、聞いて安穏を得る一つの詩を詠む方がよい。


Though a man recite a hundred Gathas made up of senseless words, one word of the law is better, which if a man hears, he becomes quiet.


yo ca gāthā sataṁ bhāse, anatthapadasaṁhitā; ekaṁ dhammapadaṁ seyyo, yaṁ sutvā upasammati.


雖多誦経 不解何益
解一法句 行可得道


多(おお)く経(きょう)を誦(じゅ)すと雖(いえど)も、解(げ)せ不(ず)んば何(なん)の益(やく)かあらん、
一法句(いちほっく)を解(げ)するも、行(ぎょう)ぜば道(どう)を得(う)可(べ)し。


※解せ不んば:理解出来なければ
※一法句:一つの法句
※行ぜば:修行すれば、おこなえば
※道:仏の道


[17]79頁、[24]108頁


(103)


戦場に於いて、百万人の敵に勝つよりも、ただ一人の己に勝つものこそ、実に最上の戦士である。


If one man conquer in battle a thousand times thousand men, and if another conquer himself, he is the greatest of conquerors.


yo sahassaṁ sahassena, saṁgāme mānuse jine; ekañca jeyyamattānaṁ, sa ve saṁgāmajuttamo.


千々為敵 一夫勝之
未若自勝 為戦中上


千々(せんせん)を敵(てき)と為(な)し、一夫(いっぷ)にて之(これ)に勝(か)つも、
未(いま)だ自(みずか)ら勝(か)つの、戦中(せんちゅう)の上(じょう)と為(な)すに若(し)かず。


※千々:百万人(千の千倍)
※一夫:一人
※未だ自ら勝つ:ただ一人の己に勝つ
※戦中の上:戦いの中でも最上


[08]87頁、[09]199頁、[11]196頁、[12]35頁、[14]192頁、[15]174頁、[17]79頁、[19]169頁、[21]118頁、[24]58頁、[25]66頁


(104)


己を克服するのは勝れている、他の人々を克服するよりも優る、自己を制御し、常に行いを慎む。


Victory over self is better than victory over all other folk besides; If a man conquer self, and live always under restraint,
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


attā have jitaṁ seyyo, yā cāyaṁ itarā pajā; attadantassa posassa, niccaṁ saññatacārino.


自勝最賢 故曰人雄
護意調身 自損至終


自(みずか)ら勝(か)つは最(もっと)も賢(けん)なり、故(ゆえ)に人雄(にんゆう)と曰(い)う、
意(こころ)を護(まも)り身(み)を調(おさ)め、自(みずか)ら損(そん)じて終(おわり)に至(いた)らん。


※人雄:すぐれた人
※自ら損じて終に至らん:自分自身を制御して涅槃に入る


[12]36頁、[14]192頁、[17]80頁、[19]170頁、[21]118頁、[22]175頁、[23]220頁、[25]68頁


(105)


神も、鬼神(乾闥婆、ガンダルバ)も、魔王も、梵天も、己を克服した人より優ることはない。


Neither god nor gandhabba nor Māra with Brahmā united, Can turn into defeat the victory of such a man.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


neva devo na gandhabbo, na māro saha brahmunā; jitaṁ apajitaṁ kayirā, tathārūpassa jantuno.


雖曰尊天 神魔梵釈
皆莫能勝 自勝之人


尊天(そんてん)、神魔(じんま)、梵釈(ぼんしゃく)、と曰(い)うと雖(いえど)も、
皆(みな)能(よ)く、自勝(じしょう)之(の)人(ひと)に勝(か)つ莫(な)し。


※尊天:神
※神魔:鬼神
※梵釈:梵天、帝釈天
※自勝之人:己を克服した人


[12]36頁、[14]192頁、[22]176頁、[25]68頁


(106)


百年の間、月々千回神を祀るよりも、一人の自己を修めた人を、瞬時でも供養するならば、その供養は、百年の祭祀より勝れている。


If a man for a hundred years sacrifice month after month with a thousand, and if he but for one moment pay homage to a man whose soul is grounded (in true knowledge), better is that homage than sacrifice for a hundred years.


māse māse sahassena, yo yajetha sataṁ samaṁ; ekañca bhāvitattānaṁ, muhuttam api pūjaye; sāyeva pūjanā seyyo, yañce vassasataṁ hutaṁ.


月千反祠 終身不輟
不如須臾 一心念法
一念造福 勝彼終身


月(つき)に千反(せんべん)祠(まつ)り、終身(しゅうしん)輟(や)ま不(ざ)れば、
須臾(しゅゆ)も、一心(いっしん)に法(ほう)を念(ねん)ずるに如(し)か不(ず)、
一念(いちねん)の造福(ぞうふく)は、彼(かれ)が終身(しゅうしん)に勝(まさ)る。


※千反祠り:千回神をまつり
※終身輟ま不れば:生涯にわたりやめなくても
※須臾も:少しの間も
※一念の造福は:一心に念じ功徳を積めば
※終身に:生涯にわたり神をまつる者に


[03]96頁、[14]170頁、[17]81頁、[21]120頁、[22]99頁


(107)


百年の間、林の中で火の神に仕えるよりも、一人の自己を修めた人を、瞬時でも供養するならば、その供養は、百年の祭祀より勝れている。


If a man for a hundred years worship Agni (fire) in the forest, and if he but for one moment pay homage to a man whose soul is grounded (in true knowledge), better is that homage than sacrifice for a hundred years.


yo ca vassasataṁ jantu, aggiṁ paricare vane; ekañca bhāvitattānaṁ, muhuttam api pūjaye; sāyeva pūjanā seyyo, yañ ce vassasataṁ hutaṁ.


雖終百歳 奉事火祠
不如須臾 供養三尊
一供養福 勝彼百年


百歳(ひゃくさい)を終(お)えて、火祠(かし)に奉事(ぶじ)すと雖(いえど)も、
須臾(しゅゆ)も、三尊(さんぞん)を供養(くよう)するに如(し)か不(ず)。
一供養(いちくよう)の福(ふく)は、彼(かれ)が百年(ひゃくねん)に勝(まさ)る。


※百歳を終えて:百歳生きて
※火祠に奉事す:火の神をまつりつかえる
※須臾も:少しの間も
※三尊:仏法僧(仏陀と真理と僧侶)の三宝 
※一供養の福:ひとときの供養の福徳
※百年:百年火の神につかえる者


[14]170頁


(108)


この世で、生贄を捧げ、あるいは火に供物を捧げ、幸福を求めて一年を通じて供養して、その全部を捧げても、直者(阿羅漢)を尊敬する四分の一にも及ばない。


Whatever a man sacrifice in this world as an offering or as an oblation for a whole year in order to gain merit, the whole of it is not worth a quarter (a farthing); reverence shown to the righteous is better.


yaṁ kiñci yiṭṭhaṁ va hutaṁ va loke, saṁvaccharaṁ yajetha puññapekkho; sabbampi taṁ na catubhāgameti, abhivādanā ujjugatesu seyyo.


祭神以求福 従後望其報
四分未望一 不如礼賢者


神(じん)を祭(まつ)り以(もっ)て福(ふく)を求(もと)め、後(あと)より其(その)報(ほう)を望(のぞ)むも、
四分(しぶん)未(いま)だ一(いち)をも望(のぞ)ま不(ず)、賢(けん)を礼(れい)する者(もの)に如(し)か不(ず)。


※福:幸福
※報:むくい
※四分未だ一:四分の一
※賢を礼する:賢者を礼拝


[02]116頁、[14]170頁、[17]83頁、[21]120頁、[22]100頁


(109)


よく礼をもって敬い、常に長老を尊ぶ者には四つの事柄が増長する、寿命と美しさと安楽と力とである。


He who always greets and constantly reveres the aged, four things will increase to him, viz. life, beauty, happiness, power.


abhivādanasīlissa, niccaṁ vuḍḍhāpacāyino; cattāro dhammā vaḍḍhanti, āyu vaṇṇo sukhaṁ balaṁ.


能善行礼節 常敬長老者
四福自然増 色力寿而安


能(よく)善(よく)礼節(れいせつ)を行(おこな)い、常(つね)に長老(ちょうろう)を敬(うやま)う者(もの)は、
四福(しふく)自然(じねん)に増(ま)す、色(しき)と力(りき)と寿(じゅ)と而(そ)して安(やすら)かとなり。


※四福:四種の幸福
※色と力と寿とそして安か:容姿と力量と寿命とやすらか


[03]97頁、[22]97頁、[25]172頁


(110)


もし人、百年生きても、戒律を守らず、心が乱れているならば、戒律を守り、心静かな人が、一日生きた方が勝れている。


But he who lives a hundred years, vicious and unrestrained, a life of one day is better if a man is virtuous and reflecting.


yo ca vassasataṁ jīve, dussīlo asamāhito; ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo, sīlavantassa jhāyino.


若人寿百歳 遠正不持戒
不如生一日 守戒正意禅


若(も)し人寿(にんじゅ)百歳(ひゃくさい)なるも、正(まさ)に遠(とお)ざかり戒(かい)を持(も)た不(ず)んば、
生(しょう)一日(いちにち)なるも、戒(かい)を守(まも)り意(こころ)を正(ただ)して禅(ぜん)ずるに如(し)か不(ず)。


※人寿:人の寿命
※正に:正道(仏の道)に
※戒を持た不んば:戒律を守らないなら
※生一日なるも:たった一日の命でも
※禅:こころを静かに集中させる、禅定


[03]103頁、[10]63頁、[15]100頁、[17]84頁、[18]110頁、[21]122頁、[24]109頁、[27]22頁


(111)


もし人、百年生きても、智慧がなく、心が乱れているならば、智慧があり、心静かな人が、一日生きた方が勝れている。


And he who lives a hundred years, ignorant and unrestrained, a life of one day is better if a man is wise and reflecting.


yo ca vassasataṁ jīve, duppañño asamāhito; ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo, paññavantassa jhāyino.


若人寿百歳 邪偽無有智
不如生一日 一心学正智


若(も)し人寿(にんじゅ)百歳(ひゃくさい)なるも、邪偽(じゃぎ)にして智(ち)有(あ)ること無(な)くんば、
生(しょう)一日(いちにち)なるも、一心(いっしん)に正智(しょうち)を学(まな)ぶに如(し)か不(ず)。


※人寿:人の寿命
※邪偽:いつわること
※生一日なるも:たった一日の命でも
※智:智慧
※一心:心を一つに集中する
※正智:正しい智慧


[03]103頁、[17]85頁、[22]91頁、[24]109頁、[25]34頁、[27]22頁


(112)


もし人、百年生きても、懈怠にして、臆病であるならば、堅固に努力して、勇猛な人が、一日生きた方が勝れている。


And he who lives a hundred years, idle and weak, a life of one day is better if a man has attained firm strength.


yo ca vassasataṁ jīve, kusīto hīnavīriyo; ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo, vīriyam ārabhato daḷhaṁ.


若人寿百歳 懈怠不精進
不如生一日 勉力行精進


若(も)し人寿(にんじゅ)百歳(ひゃくさい)なるも、懈怠(けたい)にして精進(しょうじん)なら不(ず)んば、
生(しょう)一日(いちにち)なるも、勉力(つと)めて精進(しょうじん)を行(ぎょう)ずるに如(し)か不(ず)。


※人寿:人の寿命
※懈怠:おこたり、なまける
※生一日なるも:たった一日の命でも
※勉力めて:努力して


[03]104頁、[06]125頁、[08]99頁、[10]67頁、[14]113頁、[17]87頁、[19]108頁、[20]61頁、[22]92頁


(113)


もし人、百年生きても、すべての物事は生滅する、との理を見ないならば、すべての物事は生滅する、との理を見る人が、一日生きた方が勝れている。


And he who lives a hundred years, not seeing beginning and end, a life of one day is better if a man sees beginning and end.


yo ca vassasataṁ jīve, apassaṁ udayabbayaṁ; ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo, passato udayabbayaṁ.


若人寿百歳 不知成敗事
不如生一日 見微知所忌


若(も)し人寿(にんじゅ)百歳(ひゃくさい)なるも、成敗(じょうはい)の事(こと)を知(し)ら不(ず)んば、
生(しょう)一日(いちにち)なるも、微(み)を見(み)、忌(い)む所(ところ)を知(し)るに如(し)か不(ず)。


※人寿:人の寿命
※成敗:物事が生じ滅する
※生一日なるも:たった一日の命でも
※微を見:微細な(真理を)理解し
※忌む所:不浄なところ


[03]104頁、[06]126頁、[08]106頁、[11]153頁、[14]34頁、[22]92頁、[27]23頁


(114)


もし人、百年生きても、涅槃の境地を見ないならば、涅槃の境地を見る人が、一日生きた方が勝れている。


And he who lives a hundred years, not seeing the immortal place, a life of one day is better if a man sees the immortal place.


yo ca vassasataṁ jīve, apassaṁ amataṁ padaṁ; ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo, passato amataṁ padaṁ.


若人寿百歳 不見甘露道
不如生一日 服行甘露味


若(も)し人寿(にんじゅ)百歳(ひゃくさい)なるも、甘露(かんろ)の道(どう)を見(み)不(ず)んば、
生(しょう)一日(いちにち)なるも、甘露(かんろ)の味(あじ)を服行(ふくぎょう)するに如(し)か不(ず)。


※人寿:人の寿命
※甘露の道:涅槃に至る仏の道
※生一日なるも:たった一日の命でも
※甘露の味を服行する:涅槃の道を体験する


[03]106頁、[14]121頁、[19]108頁、[24]111頁、[27]23頁


(115)


もし人、百年生きても、最上の真理を見ないならば、最上の真理を見る人が、一日生きた方が勝れている。


And he who lives a hundred years, not seeing the highest law, a life of one day is better if a man sees the highest law.


yo ca vassasataṁ jīve, apassaṁ dhammam uttamaṁ; ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo, passato dhammam uttamaṁ.


若人寿百歳 不知大道義
不如生一日 学推仏法要


若(も)し人寿(にんじゅ)百歳(ひゃくさい)なるも、大道(だいどう)の義(ぎ)を知(し)ら不(ず)んば、
生(しょう)一日(いちにち)なるも、仏法(ぶっぽう)の要(よう)を学推(がくすい)するに如(し)か不(ず)。
※人寿:人の寿命
※大道の義:最上の仏の道の教え
※生一日なるも:たった一日の命でも
※要:かなめ
※学推:学び理解する


[03]108頁、[07]33頁、[14]113頁、[24]111頁、[25]126頁




9章 悪の章

Chapter IX. Evil
9. pāpavagga
9章 悪行品


(116)


善に向かって急げ、悪に対して心を守れ、善を怠り鈍れば、心は悪行を喜ぶ。


If a man would hasten towards the good, he should keep his thought away from evil; if a man does what is good slothfully, his mind delights in evil.


abhittharetha kalyāṇe, pāpā cittaṁ nivāraye; dandhañhi karoto puññaṁ, pāpasmiṁ ramatī mano.


見善不従 反随悪心
求福不正 反楽邪婬


善(ぜん)を見(み)て従(したが)わ不(ず)んば、反(かえ)って悪心(あくしん)に随(したが)わん、
福(ふく)を求(もと)めて正(ただ)しから不(ず)んば、反(かえ)って邪婬(じゃいん)を楽(たの)しまん。


※邪婬:よこしまな行為


[02]124頁、[04]148頁、[08]102頁、[11]69頁、[13]174頁、[17]90頁、[19]187頁、[21]128頁、[24]100頁、[25]86頁、[27]155頁


(117)


もし人、悪を為しても、これを再三繰り返すな、悪を楽しむなかれ、悪を積み重ねることは、苦しみである。


If a man commits a sin, let him not do it again; let him not delight in sin: pain is the outcome of evil.


pāpañ ce puriso kayirā, na naṁ kayirā punappunaṁ; na tamhi chandaṁ kayirātha, dukkho pāpassa uccayo.


凡人為悪 不能自覚
愚癡快意 令後鬱毒


凡(およ)そ人(ひと)悪(あく)を為(な)して、自(みずか)ら覚(さと)ること能(あた)わ不(ず)、
愚癡(ぐち)、快意(けい)ならば、後(のち)にして鬱毒(うつどく)令(ならし)めん。


※能わ不:出来ない
※愚癡、快意ならば:愚かで物事の道理を知らない事がむしろ快く思うならば
※鬱毒:憂鬱になり苦しむ


[04]141頁、[07]108頁、[13]175頁、[17]91頁、[21]130頁、[24]102頁、[27]158頁


(118)


もし人、善を為すならば、これを再三繰り返せ、善を楽しめ、善を積み重ねることは、楽しみである。


If a man does what is good, let him do it again; let him delight in it: happiness is the outcome of good.


puññañ ce puriso kayirā, kayirā naṁ punappunaṁ; tamhi chandaṁ kayirātha, sukho puññassa uccayo.


人能作其福 亦当数々造
於彼意願楽 善受其福報


人(ひと)能(よ)く其(そ)の福(ふく)を作(な)さば、亦(また)当(まさ)に数々(さくさく)造(つく)るべし、
彼(かれ)に於(おい)て意(こころ)願楽(がんぎょう)せよ、善(ぜん)は其(そ)の福報(ふくほう)を受(う)けん。


※福を作さば:幸福をつくるならば
※数々造るべし:次々とつくるべし
※願楽せよ:(幸福を)願い求めよ
※善:善行、善いおこない
※福報:幸福な報い


[04]141頁、[13]175頁、[17]92頁、[24]102頁


(119)


悪果が未だ熟さない間は、悪人も幸いに遭う、悪果の熟する時に至れば、悪人はその悪行の報いに遭う。


Even an evil-doer sees happiness as long as his evil deed has not ripened; but when his evil deed has ripened, then does the evil-doer see evil.


pāpo pi passati bhadraṁ, yāva pāpaṁ na paccati; yadā ca paccati pāpaṁ, atha pāpo pāpāni passati.


妖㜸見福 其悪未熟
至其悪熟 自受罪虐


妖㜸(ようげつ)に福(ふく)を見(み)るは、其(そ)の悪(あく)未(いま)だ熟(じゅく)せざればなり、
其(そ)の悪(あく)熟(じゅく)するに至(いた)りて、自(みずか)ら罪虐(ざいぎゃく)を受(う)く。


※妖㜸に福を見る:怪しい災いの中に幸福を見いだす
※悪:悪行の報い
※罪虐:むごたらしい扱い


[02]78頁、[11]76頁、[17]95頁、[21]132頁、[24]104頁、[27]158頁


(120)


善果が未だ熟さない間は、善人も悪事に遭う、善果の熟する時に至れば、善人はその幸福に遭う。


Even a good man sees evil days, as long as his good deed has not ripened; but when his good deed has ripened, then does the good man see happy days.


bhadropi passati pāpaṁ, yāva bhadraṁ na paccati; yadā ca paccati bhadraṁ, atha bhadro bhadrāni passati.


貞祥見禍 其善未熟
至其善熟 必受其福


貞祥(ていしょう)に禍(わざわい)を見(み)るは、其(そ)の善(ぜん)未(いま)だ熟(じゅく)せざればなり、
其(そ)の善(ぜん)熟(じゅく)するに至(いた)りて、必(かなら)ず其(そ)の福(ふく)を受(う)く。


※貞祥に禍を見るは:正しくめでたい中でも尚、不幸に会うのは
※福:幸福


[02]130頁、[11]77頁、[24]104頁


(121)


「我にその報いは来ない」と思って悪を軽んじるなかれ、水も滴り落ちれば、水瓶でも満たされる、悪も少しずつ積み重ねれば、愚者は悪に満たされる。


Let no man think lightly of evil, saying in his heart, It will not come nigh unto me. Even by the falling of water-drops a water-pot is filled; the fool becomes full of evil, even if he gather it little by little.


māvamaññetha pāpassa, na mantaṁ āgamissati; udabindunipātena, udakumbhopi pūrati; bālo pūrati pāpassa, thokaṁ thokam pi ācinaṁ.


莫軽小悪 以為無殃
水滴雖微 漸盈大器
凡罪充満 従小積成


小悪(しょうあく)を軽(かろ)んじ、以(もっ)て殃(わざわい)無(な)しと為(な)す莫(なか)れ、
水滴(すいてき)は微(み)なりと雖(いえど)も、漸(ようや)く大器(だいき)に盈(み)つ。
凡(およ)そ罪(つみ)の充満(じゅうまん)するは、小積(しょうせき)従(よ)り成(な)る。


※小悪:小さい悪行
※微なり:わずかなり
※漸く:少しずつだんだんと
※盈つ:満ち溢れる
※小積:小さい罪の積み重ね


[04]137頁、[06]255頁、[07]109頁、[09]56頁、[17]96頁、[19]184頁、[25]90頁、[27]150頁


(122)


「我にその報いは来ない」と思って善を軽んじるなかれ、水も滴り落ちれば、水瓶でも満たされる、善も少しずつ積み重ねれば、賢者は善に満たされる。


Let no man think lightly of good, saying in his heart, It will not come nigh unto me. Even by the falling of water-drops a water-pot is filled; the wise man becomes full of good, even if he gather it little by little.


māvamaññetha puññassa, na mandaṁ āgamissati; udabindunipātena, udakumbhopi pūrati; dhīro pūrati puññassa, thokaṁ thokam pi ācinaṁ.


莫軽小善 以為無福
水滴雖微 漸盈大器
凡福充満 従繊々積


小善(しょうぜん)を軽(かろ)んじ、以(もっ)て福(ふく)無(な)しと為(な)す莫(なか)れ、
水滴(すいてき)は微(み)なりと雖(いえど)も、漸(ようや)く大器(だいき)に盈(み)つ。
凡(およ)そ福(ふく)の充満(じゅうまん)するは、繊々(せんせん)従(よ)り積(つ)む。


※小善:小さい善行
※微なり:わずかなり
※漸く:少しずつだんだんと
※盈つ:満ち溢れる
※繊々:弱々しく


[06]249頁、[18]118頁、[19]184頁、[21]134頁、[27]151頁


(123)


仲間が少なく、多くの財貨を運ぶ商人が、危険な道を避けるように、生きたいと願うものが、毒を避けるように、人は悪行を避けるべし。


Let a man avoid evil deeds, as a merchant, if he has few companions and carries much wealth, avoids a dangerous road; as a man who loves life avoids poison.


vāṇijova bhayaṁ maggaṁ, appasattho mahaddhano; visaṁ jīvitukāmova, pāpāni parivajjaye.


伴少而貨多 商人述惕懼
嗜欲賊害命 故慧不貪欲


伴(とも)少(すくな)くして而(しか)も貨(たから)多(おお)くんば、商人(しょうにん)は述惕(じゅつてき)として懼(おそ)る、
嗜欲(しよく)の賊(ぞく)は命(いのち)を害(がい)す、故(ゆえ)に慧(え)あるは貪欲(とんよく)不(ず)。


※伴:同伴者
※貨:財貨
※述惕:慎重で注意深い
※懼る:おそれる
※嗜欲:欲するままにそれをしようとする
※貪欲:むさぼり求める心


[21]136頁


(124)


手に傷が無ければ、手で毒も扱える、毒は傷のないものを侵さない、悪を為さない人には、悪は至らない。


He who has no wound on his hand, may touch poison with his hand; poison does not affect one who has no wound; nor is there evil for one who does not commit evil.


pāṇimhi ce vaṇo nāssa, hareyya pāṇinā visaṁ; nābbaṇaṁ visamanveti, natthi pāpaṁ akubbato.


有身無瘡疣 不為毒所害
毒奈無瘡何 無悪無所造


有身(うしん)にして瘡疣(そうゆう)無(な)くんば、毒(どく)の為(ため)に害(がい)せ所(ら)れ不(ず)、
毒(どく)も瘡(きず)無(な)きを奈何(いか)にせん、悪(あく)無(な)くんば造(つく)る所(ところ)無(な)し。


※有身:自分の身体
※瘡疣:きず、できもの
※奈何にせん:いかんともしがたい


[02]136頁、[07]118頁、[08]134頁、[15]62頁、[25]91頁


(125)


汚れなき人を謗れば、清く罪なき人を謗れば、災いはかえってその愚か者に及ぶ、風に逆らって細かな塵を投げるように。


If a man offend a harmless, pure, and innocent person, the evil falls back upon that fool, like light dust thrown up against the wind.


yo appaduṭṭhassa narassa dussati, suddhassa posassa anaṁgaṇassa; tameva bālaṁ pacceti pāpaṁ, sukhumo rajo paṭivātaṁ va khitto.


加悪誣罔人 清白猶不汚
愚殃反自及 如塵逆風坌


悪(あく)を加(くわ)えて人(ひと)を誣罔(ふもう)するも、清白(しょうびゃく)なれば猶(な)お汚(けが)れ不(ず)、
愚殃(ぐおう)反(かえ)って自(みずか)ら及(およ)ぶ、塵(ちり)の風(かぜ)に逆(さから)いて坌(けが)すが如(ごと)し。


※誣罔:作りごとを言って人をそしる
※清白:清廉潔白
※愚殃:愚かなわざわい
※坌す:汚す


[25]176頁


(126)


ある者は母胎に宿り、ある者は地獄に生まれ、行いの正しい者は天界に昇り、心に穢れのない者は涅槃に入る。


Some people are born again; evil-doers go to hell; righteous people go to heaven; those who are free from all worldly desires attain Nirvana.


gabbham eke uppajjanti, nirayaṁ pāpakammino; saggaṁ sugatino yanti, parinibbanti anāsavā.


有識墮胞胎 悪者入地獄
行善上昇天 無為得泥洹


識(しき)有(あ)れば胞胎(ほうたい)に墮(だ)す、悪者(あくしゃ)は地獄(じごく)に入(はい)り、
行善(ぎょうぜん)は上(あが)りて天(てん)に昇(のぼ)り、無為(むい)なるは泥洹(ないおん)を得(う)。


※識有れば胞胎に墮す:普通の考えがあれば人間として生まれる
※行善:善い行いをした者
※無為:現世を超越した絶対不変の境地
※泥洹:涅槃、悟りの境地


[24]106頁


(127)


空中になく、海の中になく、山中の洞窟になく、世界の中に於いて悪行の報いを免れるべき所はない。


Not in the sky, not in the midst of the sea, not if we enter into the clefts of the mountains, is there known a spot in the whole world where death could not overcome (the mortal).


na antalikkhe na samuddamajjhe, na pabbatānaṁ vivaraṁ pavissa; na vijjatī so jagatippadeso, yatthaṭṭhito mucceyya pāpakammā.


非空非海中 非隠山石間
莫能於此処 避免宿悪殃


空(くう)に非(あら)ず、海中(かいちゅう)に非(あら)ず、山石(せんしゃく)の間(あいだ)に隠(かく)るるに非(あら)ず、
能(よ)く此処(このところ)に於(おい)て、宿悪(しゅくあく)の殃(わざわい)を避免(ひめん)すること莫(な)し。


※山石の間:山中の洞窟
※宿悪:この世で犯した悪行
※避免:回避する


[03]109頁、[26]164頁、[27]156頁


(128)


空中になく、海の中になく、山中の洞窟になく、世界の中に於いて、死の力の及ばない所はない。


Neither in the heaven above, nor in the depths of the sea, Nor in a cavern of the mountains, should one there enter; Nowhere on the earth can the place be found Where, if a man abide, Death would not overpower him.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


na antalikkhe na samuddamajjhe, na pabbatānaṁ vivaraṁ pavissa; na vijjatī so jagatippadeso, yatthaṭṭhitaṁ nappasaheyya maccu.


非空非海中 非入山石間
無有地方所 脱之不受死


空(くう)に非(あら)ず、海中(かいちゅう)に非(あら)ず、山石(せんしゃく)の間(あいだ)に入(はい)るに非(あら)ず、
地(ち)の方所(ほうしょ)に之(これ)を脱(だっ)して、死(し)を受(う)けざる有(あ)ること無(な)し。


※山石の間:山中の洞窟
※地の方所に之を脱して:世界のどこに逃れようとも


[03]111頁、[10]175頁、[26]164頁、[27]156頁




10章 刀杖の章

Chapter X. Punishment
10. daṇḍavagga
10章 刀杖品


(129)


すべての者は、刀杖を恐れる、すべての者は、死を恐れる、己に引き比べて、殺すなかれ、殺させるなかれ。


All men tremble at punishment, all men fear death; remember that you are like unto them, and do not kill, nor cause slaughter.


sabbe tasanti daṇḍassa, sabbe bhāyanti maccuno; attānaṁ upamaṁ katvā, na haneyya na ghātaye.


一切皆懼死 莫不畏杖痛
恕己可為譬 勿殺勿行杖


一切(いっさい)皆(みな)死(し)を懼(おそ)れ、杖痛(じょうつう)を畏(おそ)れ不(ざ)ること莫(な)し、
己(おのれ)を恕(ゆる)して譬(たとえ)と為(な)す可(べ)し、殺(ころ)すこと勿(なか)れ、杖(じょう)を行(ぎょう)ずること勿(なか)れ。


※懼れ:恐れ
※杖痛:杖で打たれる痛さ
※畏れ:恐れ
※恕して譬と為す:思いやりをもって許せるように
※杖を行ずる:他人に杖で打つ行いをする


[03]113頁、[11]167頁、[14]134頁、[19]39頁、[22]37頁、[24]44頁、[25]178頁、[26]180頁、[27]29頁


(130)


すべての者は、刀杖を恐れる、すべての者は、生を愛する、己に引き比べて、殺すなかれ、殺させるなかれ。


All men tremble at punishment, all men love life; remember that thou art like unto them, and do not kill, nor cause slaughter.


sabbe tasanti daṇḍassa, sabbesaṁ jīvitaṁ piyaṁ; attānaṁ upamaṁ katvā, na haneyya na ghātaye.


遍於諸方求 念心中間察
頗有斯等類 不愛己愛彼
以己喩彼命 是故不害人


遍(あま)ねく諸方(しょほう)に於(おい)て求(もと)め、念心(ねんしん)の中間(ちゅうげん)に察(さっ)せよ、
頗(すこぶ)る斯等(これら)の類(るい)有(あ)り、己(おのれ)を愛(あい)し彼(かれ)を愛(あい)し不(ざ)らんや、
己(おのれ)を以(もっ)て彼(かれ)の命(いのち)に喩(たと)え、是(これ)の故(ゆえ)に人(ひと)を害(がい)せ不(ざ)れ。


※遍ねく諸方:ひろい心でどこに居ても何事にも
※念心の中間に察せよ:心を正念し仲間を思いやれ
※頗る斯等の類有り:(誰でも)非常にこの様な思いがあり


[04]17頁、[08]51頁、[14]134頁、[22]38頁、[24]44頁、[25]180頁、[26]180頁、[27]30頁


(131)


すべての生き物は、安楽を喜ぶ、人もし刀杖を以て彼を害し、己の安楽を求めるときは、死して安楽を得られない。


He who seeking his own happiness punishes or kills beings who also long for happiness, will not find happiness after death.


sukhakāmāni bhūtāni, yo daṇḍena vihiṁsati; attano sukham esāno, pecca na labhate sukhaṁ.


善楽於愛欲 以杖加群生
於中自求安 後世不得楽


善(よ)く愛欲(あいよく)を楽(たの)しみ、杖(つえ)を以(もっ)て群生(ぐんじょう)に加(くわ)え、
中(うち)に於(おい)て自(みずか)ら安(やす)きを求(もと)めば、後世(ごせ)に楽(らく)を得(え)不(ず)。


※群生:多くの人々(衆生)
※中に:今のうちに


[04]17頁、[08]51頁、[11]172頁、[27]32頁


(132)


すべての生き物は、安楽を喜ぶ、人もし刀杖を以て彼を害しないならば、己の安楽を求めるときは、死して安楽を得る。


He who seeking his own happiness does not punish or kill beings who also long for happiness, will find happiness after death.


sukhakāmāni bhūtāni, yo daṇḍena na hiṁsati; attano sukhamesāno, pecca so labhate sukhaṁ.


人欲得歓楽 杖不加群上
於中自求楽 後世亦得楽


人(ひと)歓楽(かんらく)を得(え)んと欲(よく)し、杖(つえ)を群上(ぐんじょう)に加(くわ)え不(ず)、
中(うち)に於(おい)て自(みずか)ら楽(らく)を求(もと)めば、後世(ごせ)にも亦(また)、楽(らく)を得(え)ん。


※歓楽:人生の喜び楽しみ


[11]172頁、[27]33頁


(133)


荒々しい言葉を言うな、言われた者は、汝に言い返すであろう、怒りの言葉は、苦しみである、仕返しは反って汝に及ぶであろう。


Do not speak harshly to anybody; those who are spoken to will answer thee in the same way. Angry speech is painful, blows for blows will touch thee.


māvoca pharusaṁ kañci, vuttā paṭivadeyyu taṁ; dukkhā hi sārambhakathā, paṭidaṇḍā phuseyyu taṁ.


不当麁言 言当畏報
悪往禍来 刀杖帰躯


当(まさ)に麁言(そごん)すべから不(ず)、言(い)わば当(まさ)に報(ほう)を畏(おそ)るべし、
悪(あく)往(ゆ)き禍(わざわい)来(き)たり、刀杖(とうじょう)躯(く)に帰(き)せん。


※麁言:荒々しい言葉
※報:むくい
※往き:去り
※刀杖:災い、刀や杖で傷つける
※躯に帰せん:我が身に帰る


[04]33頁、[07]214頁、[09]52頁、[16]71頁、[17]100頁、[18]98頁、[19]151頁、[21]142頁、[22]109頁、[23]181頁、[24]47頁、[25]170頁


(134)


壊れた鐘のように、物静かな人は、涅槃に至る、このような人は、戦い争うことはない。


If, like a shattered metal plate (gong), thou utter not, then thou hast reached Nirvana; contention is not known to thee.

sace neresi attānaṁ, kaṁso upahato yathā; esa pattosi nibbānaṁ, sārambho te na vijjati.


出言以善 如叩鐘磬
身無論議 度世即安


言(ごん)を出(いだ)すに善(ぜん)を以(もっ)てし、鐘磬(しょうけい)を叩(たた)くが如(ごと)く、
身(み)に論議(ろんぎ)無(な)くんば、世(よ)に度(ど)すり即(すなわ)ち安(やす)からん。


※言を出す:言葉を話す
※鐘磬を叩く:仏教で用いる楽器を叩くとよい音が出る
※身に論議:我が身に論議、論争する心
※世に度すり:世間を渡るに


[03]117頁、[04]33頁、[13]154頁、[16]71頁、[17]101頁、[25]38頁


(135)


牧者が杖で、牛を牧場に追い立てるように、老と死とは、生物の寿命を追い立てる。


As a cowherd with his staff drives his cows into the stable, so do Age and Death drive the life of men.


yathā daṇḍena gopālo, gāvo pājeti gocaraṁ; evaṁ jarā ca maccu ca, āyuṁ pājenti pāṇinaṁ.


喩人操杖 行牧食牛
老死猶然 亦養命去


喩(たと)えば人(ひと)の杖(つえ)を操(と)りて、牧(ぼく)を行(ぎょう)じて牛(うし)を食(く)うごとく、
老死(ろうし)も猶(な)お然(しか)り、亦(また)命(いのち)を養(と)り去(さ)る。


※人の杖を操りて:牧者が杖で(牛)をあやつり
※牧を行じて:牧場に追い立て
※老死も猶お然り:同じように老いと死が人間を追い立て
※養り去る:とりさる


[17]102頁、[21]144頁


(136)


しかし愚か者は、悪行をしても覚らず、愚かにして、己の行為によって苦しむ、まるで火に焼かれる人のように。


A fool does not know when he commits his evil deeds: but the wicked man burns by his own deeds, as if burnt by fire.


atha pāpāni kammāni, karaṁ bālo na bujjhati; sehi kammehi dummedho, aggidaḍḍhova tappati.


愚惷作悪 不能自解
殃追自焚 罪成熾然


愚惷(ぐしゅん)は悪(あく)を作(な)して、自(みずか)ら解(げ)する能(あた)わ不(ず)、
殃(わざわい)追(お)い自(みずか)ら焚(や)き、罪(つみ)熾然(しねん)を成(じょう)ず。


※愚惷:愚かな人
※解する:理解する
※自ら焚き:我が身を焼く
※罪熾然を成ず:罪悪の炎が盛んに燃え上がり報いを受けて苦しむ


[05]10頁、[24]142頁


(137)


無罪、無害の者を、刀杖を以て侵害すれば、速やかに、以下の十事の中の一つに遭う。


He who inflicts pain on innocent and harmless persons, will soon come to one of these ten states:

yo daṇḍena adaṇḍesu, appaduṭṭhesu dussati; dasannamaññataraṁ ṭhānaṁ, khippameva nigacchati.


欧杖良善 妄讒無罪
其殃十倍 灾仇無赦


良善(りょうぜん)を欧杖(おうじょう)し、妄(みだ)りに無罪(むざい)を讒(ざん)せば、
其(その)殃(わざわい)は十倍(じゅうばい)に、灾仇(さいきゅう)赦(ゆる)す無(な)けん。


※良善:善良なひと
※欧杖:杖でなぐり
※妄りに無罪を讒せば:むやみやたらに罪なきひとを中傷すれば
※殃は十倍:十のわざわい(以下1から10)
※灾仇:遺恨の敵


[05]178頁、[21]146頁


(138)


すなわち、激しい苦痛1、老衰2、身体の傷害3、重い病気4、精神の狂乱5、に遭う。


He will have cruel suffering, loss, injury of the body, heavy affliction, or loss of mind,


vedanaṁ pharusaṁ jāniṁ, sarīrassa va bhedanaṁ; garukaṁ vāpi ābādhaṁ, cittakkhepaṁ va pāpuṇe.


生受酷痛 形体毀折
自然悩病 失意恍愡


生(い)きて酷痛(こくつう)を受(う)け、形体(ぎょうたい)毀折(きせつ)し、
自然(じねん)に悩病(のうびょう)あり、失意(しつい)恍愡(こうこつ)たり。


※酷痛:ひどい苦痛1
※形体毀折:我が身がこわれ傷つき2
※悩病:悩みや病気3
※失意恍愡たり:望みなくぼけている4


[05]178頁、[21]146頁


(139)


又は、王からの災い6、恐ろしい誹謗中傷7、親族の滅亡8,財産の消滅9,に遭う。


Or a misfortune coming from the king, or a fearful accusation, or loss of relations, or destruction of treasures,


rājato vā upasaggaṁ, abbhakkhānaṁ va dāruṇaṁ; parikkhayaṁ va ñātīnaṁ, bhogānaṁ va pabhaṁguraṁ.


人所誣咎 或県官厄
財産耗尽 親戚別離


人(ひと)に誣咎(ふきゅう)せ所(ら)れ、或(ある)いは県官(けんかん)の厄(やく)あり、
財産(ざいさん)は耗尽(もうじん)し、親戚(しんせき)は離別(りべつ)す。


※人に誣咎せ所れ:他人にあざむきなじられる5
※県官の厄あり:王や役人から災難を受ける6
※財産は耗尽し:財産を使い果たし7
※親戚は離別す:親戚とは離れ離れになる8


[05]178頁、[21]146頁


(140)


あるいは又、燃える火がその人の家を焼く10、愚か者は、身壊れてのち地獄に生まれる。

Or lightning-fire will burn his houses; and when his body is destroyed, the fool will go to hell.

atha vāssa agārāni, aggi ḍahati pāvako; kāyassa bhedā duppañño, nirayaṁ sopapajjati.


舍宅所有 灾火焚焼
死入地獄 如是為十


舎宅(しゃたく)の所有(しょゆう)は、灾火(さいか)に焚焼(ふんしょう)せられ、
死(し)して地獄(じごく)に入(はい)る、是(かく)の如(ごと)きを十(じゅう)と為(な)す。


※舎宅の所有は、灾火に焚焼せられ:自宅や財産は火災により焼失し9
※死して地獄に入る:死んで地獄に落ちる10
※是の如きを十と為す:このように自ら招いた十のわざわいを受ける


[05]178頁、[21]148頁


(141)


裸の修行も、螺髪に結っても、泥や灰を身体に塗っても、断食も、地面に臥すも、塵や糞にまみれても、うずくまる修行も、疑いを離れない人を、清めることはない。


Not nakedness, not platted hair, not dirt, not fasting, or lying on the earth, not rubbing with dust, not sitting motionless, can purify a mortal who has not overcome desires.


na naggacariyā na jaṭā na paṁkā, nānāsakā thaṇḍilasāyikā vā; rajojallaṁ ukkuṭikappadhānaṁ, sodhenti maccaṁ avitiṇṇakaṁkhaṁ.


雖裸剪髮 被服草衣
沐浴踞石 奈癡結何


裸(はだか)にして剪髮(せんぱつ)し、被服(ひふく)にして草衣(そうえ)し、
沐浴(もくよく)して石(いし)に踞(うずくま)ると雖(いえど)も、癡結(ちけつ)を奈何(いか)にせん。


※剪髮:髪を切りそろえる
※被服にして草衣し:衣服が粗末な衣を着て
※沐浴:からだを洗い潔める
※石に踞る:石の上に座る
※癡結を奈何にせん:無知、無明の心はいかんともしがたい


[10]101頁、[21]150頁、[17]103頁


(142)


たとえ身体の装いがどうでも、行いが公平で、心静かに優しく整い、自制し、淫欲を断ち、行いが清らかで、すべての生き物に危害を与えない人は、婆羅門なり、沙門なり、比丘なり。


He who, though dressed in fine apparel, exercises tranquillity, is quiet, subdued, restrained, chaste, and has ceased to find fault with all other beings, he indeed is a Brahmana, an ascetic (sramana), a friar (bhikshu).


alaṁkato cepi samaṁ careyya, santo danto niyato brahmacārī; sabbesu bhūtesu nidhāya daṇḍaṁ, so brāhmaṇo so samaṇo sa bhikkhu.


自厳以修法 滅損受浄行
杖不加群生 是沙門道人


自(みずか)ら厳(ごん)にして以(もっ)て法(ほう)を修(しゅう)し、滅損(めつそん)して浄行(じょうぎょう)を受(う)け、
杖(つえ)を群生(ぐんじょう)に加(くわ)え不(ず)んば、是(こ)れ沙門(しゃもん)、道人(どうにん)なり。


※厳:厳格な心
※法:仏法
※滅損:つつしみ深く
※浄行:きよらかな行い
※群生:多くの人々(衆生)
※沙門:男性修行者、比丘(びく)
※道人:仏道修行者


[17]105頁


(143)


誰かこの世に於いて、漸を以て、己を制御する人があろうか、非難を受けることを知って、これを避けること、あたかも良馬が鞭を受けることなく走るように。


Is there in this world any man so restrained by humility that he does not mind reproof, as a well-trained horse the whip?


hirīnisedho puriso, koci lokasmi vijjati; yo niddaṁ apabodheti, asso bhadro kasām iva.


世儻有人 能知慚愧
是名誘進 如策良馬


世(よ)に儻(も)し人(にん)有(あ)り、能(よ)く慚愧(ざんぎ)を知(し)らば、
是(これ)を誘進(ゆうしん)して、良馬(りょうま)を策(むちう)つ如(ごと)しと名(な)づく。


※儻し:もし
※慚愧:恥じること
※誘進:(恥の心を)誘い出し
※良馬を策つ如しと名づく:よい馬は鞭を受けずに、正しい方向に進む


[02]144頁、[17]107頁、[19]61頁、[23]16頁、[23]127頁


(144)


鞭を与えられた良馬のように、まさに努力せよ、信により、戒律により、勇猛により、精神統一により、又、真理を諦観して、智慧と行いを伴い、失念せず、この少なからざる苦しみを捨離せよ。


Like a well-trained horse when touched by the whip, be ye active and lively, and by faith, by virtue, by energy, by meditation, by discernment of the law you will overcome this great pain (of reproof), perfect in knowledge and in behaviour, and never forgetful.


asso yathā bhadro kasāniviṭṭho, ātāpino saṁvegino bhavātha; saddhāya sīlena ca vīriyena ca, samādhinā dhammavinicchayena ca; sampannavijjācaraṇā patissatā, jahissatha dukkham idaṁ anappakaṁ.


如策善馬 進道能遠
人有信戒 定意精進
受道慧成 便滅衆苦


善馬(ぜんま)を策(むち)して、道(みち)を進(すす)め能(よ)く遠(とお)きが如(ごと)く、
人(ひと)に信(しん)と戒(かい)と定意(じょうい)と精進(しょうじん)と有(あ)らば、
受(じゅ)と道(どう)と慧(え)と成(じょう)じて、便(すなわ)ち衆苦(しゅく)を滅(めつ)せん。


※道を進め能く遠きが如く:道を進んでいきはるか遠くまでたどり着くように
※信:信心、仏の教えを信じる
※戒:持戒、戒律を守る
※定意:心の安定、禅定の心
※精進:仏道修行にはげむ 
※受:教法を受け
※道:仏道をたずさわる
※慧:仏の智慧
※成じて:成就して
※衆苦:多くの苦しみ 


[11]90頁、[22]169頁


(145)


水路をつくる人は水を導き、矢をつくる人は矢を調え、大工は木を調え、智慧者は己を調える。


Well-makers lead the water (wherever they like); fletchers bend the arrow; carpenters bend a log of wood; good people fashion themselves.


udakañhi nayanti nettikā, usukārā namayanti tejanaṁ; dāruṁ namayanti tacchakā, attānaṁ damayanti subbatā.


弓工調角 水人調船
材匠調木 智者調身


弓工(くく)は角(つの)を調(おさ)め、水人(すいにん)は船(ふね)を調(おさ)め、
材匠(ざいしょう)は木(き)を調(おさ)め、智者(ちしゃ)は身(しん)を調(おさ)む。


※弓工:弓師
※角:矢の角、真っ直ぐ
※調め:調える、ととのえる
※水人:船乗り
※材匠:大工
※智者:智慧者
※身:我が身
(80句と同文)


[03]122頁 、[05]24頁、[17]107頁、[22]170頁




11章 老いの章

Chapter XI. Old Age
11. jarāvagga
11章 老耗品

(146)


何を笑っているのか、何を喜んでいるのか、この世は常に燃え盛っているのに、汝らは暗闇に覆われている、なぜ燈明を求めないのか。


How is there laughter, how is there joy, as this world is always burning? Why do you not seek a light, ye who are surrounded by darkness?


ko nu hāso kimānando, niccaṁ pajjalite sati; andhakārena onaddhā, padīpaṁ na gavesatha.


何喜何笑 命常熾然
深蔽幽冥 不如求錠
命欲日夜尽 及時可勤力
世間諦非常 莫惑堕冥中


何(なに)をか喜(よろこ)び何(なに)をか笑(わら)う、命(いのち)常(つね)に熾然(しねん)す、
深(ふか)く幽冥(ゆうめい)を蔽(おお)う、錠(じょう)を求(もと)むるに如(し)か不(ず)、
命(いのち)日夜(にちや)に尽(つ)きんと欲(ほっ)す、時(とき)に及(およ)んで勤力(ごんりき)す可(べ)し、
世間(せけん)は諦(あきら)かに非常(ひじょう)なり、惑(まど)うて冥中(めいちゅう)に堕(だ)する莫(な)かれ。


※熾然:盛んに燃え上がり
※幽冥を蔽う:無常の世界を覆い隠す
※錠:燈明、仏の智慧の明かり
※日夜:昼も夜も、いつも
※時に及んで勤力す可し:この時を逃さず今のうちに精進すべし
※非常:無常
※冥中:暗闇の世界


[03]126頁、[05]154頁、[07]38頁、[11]12頁、[17]110頁、[21]156頁、[23]47頁、[24]74頁、[24]84頁、[25]44頁、[26]270頁、[27]45頁


(147)


見よ、上辺だけ飾り立てたこの身体は、積み集めの傷だらけの肉体であり、病に苦しみ、欲望が多く、堅固、常住であることなし。


Look at this dressed-up lump, covered with wounds, joined together, sickly, full of many thoughts, which has no strength, no hold!


passa cittakataṁ bimbaṁ, arukāyaṁ samussitaṁ; āturaṁ bahusaṁkappaṁ, yassa natthi dhuvaṁ ṭhiti.


見身形範 倚以為安
多想致病 豈知非真


身(み)の形範(けいはん)を見(み)て、倚(よ)りて以(もっ)て安(やす)しと為(な)す、
多想(たそう)は病(やまい)を致(いた)す、豈(あに)真(しん)に非(あら)ざるを知(し)らん。


※形範:すがたかたち
※倚りて以て安し:この身を頼りにして安心する
※多想:あれこれと思いが多い人
※豈真に非ざるを知らん:どうして仏の真理を知ることができるであろうか


[03]128頁、[21]158頁、[22]149頁、[24]87頁


(148)


この肉体は衰え、病の巣であり、やがて滅びる、臭く穢れた肉体は壊れ、生命は必ず死に終わる。


This body is wasted, full of sickness, and frail; this heap of corruption breaks to pieces, life indeed ends in death.


parijiṇṇamidaṁ rūpaṁ, roganīḷaṁ pabhaṁguraṁ; bhijjati pūtisandeho, maraṇantañ hi jīvitaṁ.


老則色衰 所病自壊
形敗腐朽 命終自然


老(お)ゆれば則(すなわ)ち色(しき)衰(おとろ)え、病(や)みて自(みずか)ら壊(やぶ)るる所(ところ)、
形(かたち)敗(やぶ)れて腐朽(ふきゅう)し、命(いのち)終(しゅう)すること自然(じねん)なり。


※色:肉体
※病みて自ら壊るる所:病気になり自分の体のあちらこちらが痛む
※形敗れて腐朽し:身体はくずれて傷んでくる


[03]130頁、[04]113頁、[08]52頁、[13]49頁、[14]208頁、[17]111頁、[19]57頁、[21]160頁、[24]87頁、[27]45頁


(149)


秋に棄てられた瓢箪のように、この棄てられた白骨を見よ、何の喜びがあろうか。


Those white bones, like gourds thrown away in the autumn, what pleasure is there in looking at them?

yān’ imāni apatthāni, alābūneva sārade; kāpotakāni aṭṭhīni, tāni disvāna kā rati.


身死神徒 如御棄車
肉消骨散 身何可怙


身(み)死(し)し神(たましい)徒(うつ)らば、棄車(きしゃ)を御(ぎょ)するが如(ごと)し、
肉(にく)消(き)え骨(ほね)散(さん)ず、身(み)は何(なん)ぞ怙(たの)む可(べ)きや。


※身死し神徒らば:我が身が死滅し,たましいが抜け出したならば
※棄車を御する:廃棄した車を動かそうとする
※肉消え骨散ず:肉はなくなり骨は散らばり
※身は何ぞ怙む可きや:この体をどうして頼ることが出来ようか


[03]129頁、[08]54頁、[09]131頁、[13]51頁、[14]208頁、[19]62頁、[23]53頁、[24]89頁、[27]46頁


(150)


骨で城を造り、肉と血とを塗り、その中に老いと死と慢心と覆(罪を隠す心)とを蔵する。


After a stronghold has been made of the bones, it is covered with flesh and blood, and there dwell in it old age and death, pride and deceit.


aṭṭhīnaṁ nagaraṁ kataṁ, maṅsalohitalepanaṁ; yattha jarā ca maccu ca, māno makkho ca ohito.


身為如城 骨幹肉塗
生至老死 但蔵恚慢


身(み)を城(しろ)の如(ごと)しと為(な)す、骨幹(こっかん)肉(にく)塗(ず)あり、
生(うま)れて老死(ろうし)に至(いた)る、但(ただ)恚(い)と慢(まん)とを蔵(ぞう)する。


※骨幹肉塗あり:白骨の上に肉が塗られている
※恚:瞋恚(しんい)、いかり
※慢:慢心


[07]98頁、[11]133頁、[13]51頁、[24]89頁


(151)


美しく飾られた、王の車も必ず朽ち果てるように、身体もまたこのように衰える、ただ善の徳は衰えず、これは善人が互いに語り合うところである。


The brilliant chariots of kings are destroyed, the body also approaches destruction, but the virtue of good people never approaches destruction,—thus do the good say to the good.


jīranti ve rājarathā sucittā, atho sarīrampi jaraṁ upeti; satañca dhammo na jaraṁ upeti, santo have sabbhi pavedayanti.


老則形変 喩如故車
法能除苦 宜以力学


老(お)ゆれば即(すなわ)ち形(かたち)変(へん)ず、喩(たと)えば故車(こしゃ)の如(ごと)し、
法(ほう)は能(よ)く苦(く)を除(のぞ)く、宜(よろ)しく以(もっ)て力(つと)めて学(がく)すべし。


※形変ず:身体は醜く変化する
※法は能く苦を除く:仏法はよく苦難を取り除く
※力めて学すべし:つとめはげんで仏法を学ぶべし


[02]154頁、[05]194頁、[13]52頁、[14]150頁、[15]86頁、[17]113頁、[21]162頁、[24]166頁、[27]46頁


(152)


牛が老いるように、愚か者は老いる、彼の肉は増すが、彼の智慧は増さない。


A man who has learnt little, grows old like an ox; his flesh grows, but his knowledge does not grow.


appassutāyaṁ puriso, balībaddhova jīrati; maṅsāni tassa vaḍḍhanti, paññā tassa na vaḍḍhati.


人之無聞 老若犢牛
但長肌肥 無有智慧


人(ひと)之(の)聞(き)く無(な)きは、老(お)いて犢牛(とくご)の若(ごと)し、
但(ただ)長(ちょう)じて肌(はだ)肥(こ)え、智慧(ちえ)有(あ)ること無(な)し。


※聞く無き:仏法を聞くことがなければ
※老いて犢牛の若し:肉体は老いても心は子牛のよう
※但長じて肌肥え:ただむなしく体はだぶだぶと太り


[02]163頁、[03]130頁、[05]108頁、[08]139頁、[13]53頁、[15]96頁、[17]115頁


(153)


私は家屋の作り手(生死輪廻の原因)を求めても、これを見出せない、多生の輪廻を経た、生存の繰り返しは苦しみである。


Through a round of countless existences have I run to no purpose, Seeking the Builder of the House. Repeated birth is suffering.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


anekajātisaṁsāraṁ, sandhāvissaṁ anibbisaṁ; gahakāraṁ gavesanto, dukkhā jāti punappunaṁ.


生死有無量 往来無端緒
求於屋舎者 数々受胞胎


生死(しょうじ)に無量(むりょう)なる有(あ)り、往来(おうらい)に端緒(たんしょ)無(な)し、
屋舎(おくしゃ)を求(もと)むる者(もの)は、数々(さくさく)胞胎(ほうたい)を受(う)けん。


※無量なる有り:はかり知れないものであり  
※往来に端緒無し:輪廻転生はきっかけが無く尽きることがない
※屋舎を求むる者は:この世に執着する者は
※数々胞胎を受けん:くりかえし輪廻転生し六道にうまれる
 (六道:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)


[10]110頁、[21]164頁


(154)


家屋の作り手(生死輪廻の原因)よ、汝は見出された、再び家屋を造るなかれ、汝のあらゆる垂木は折れたり、棟梁は壊れたり、心はすべての事物から離れ、愛欲を滅尽する。


I see you, Builder of the House. You shall not build the house again. All your rafters are broken, and your ridge-pole is shattered. The mind, at rest in Nibbāna, has attained extinction of cravings.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


gahakāraka diṭṭhosi, puna gehaṁ na kāhasi; sabbā te phāsukā bhaggā, gahakūṭaṁ visaṁkhataṁ; visaṁkhāragataṁ cittaṁ, taṇhānaṁ khayam ajjhagā.


以観此屋 更不造舎
梁桟已壊 台閣摧折
心已離行 中間已滅


此(こ)の屋(おく)を観(かん)ずるを以(もっ)て、更(さら)に舎(しゃ)を造(つく)ら不(ず)、
梁桟(はりざん)已(すで)に壊(やぶ)れ、台閣(たいかく)は摧折(さいせつ)す、
心(こころ)已(すで)に行(ぎょう)を離(はな)れ、中間(ちゅうげん)は已(すで)に滅(めっ)す。


※此の屋を観ずる:この世における執着の心をよく理解し
※舎を造ら不:執着することはない
※台閣は摧折す:執着という楼閣はくじけ落ちる
※行:対象への執着心
※中間:この世の愛欲


[10]111頁


(155)


清浄なる行いをしないで、壮年にして財宝を得なければ、魚のいない池の中で衰えたる鷺のように死滅する。


Men who have not observed proper discipline, and have not gained treasure in their youth, perish like old herons in a lake without fish.


acaritvā brahmacariyaṁ, aladdhā yobbane dhanaṁ; jiṇṇakoñcāva jhāyanti, khīṇamacche va pallale.


不修梵行 又不富財
老如白鷺 守伺空池


梵行(ぼんぎょう)を修(しゅう)せ不(ず)、又(また)富財(ふざい)なら不(ず)んば、
老(お)いて白鷺(しらさぎ)の、空池(からいけ)を守(まも)り伺(うかが)うが如(ごと)し。


※梵行:仏道修行
※富財なら不んば:財産の蓄えが無ければ
※空池:魚のいない池


[03]132頁、[05]68頁、[07]122頁、[21]166頁、[25]128頁


(156)


清浄なる行いをしないで、壮年にして財宝を得なければ、棄てられた矢のように、過去を思い出し、嘆き悲しみに臥す。


Men who have not observed proper discipline, and have not gained treasure in their youth, lie, like broken bows, sighing after the past.


acaritvā brahmacariyaṁ, aladdhā yobbane dhanaṁ; senti cāpātikhīṇāva, purāṇāni anutthunaṁ.


既不守戒 又不積財
老羸気竭 思故何逮


既(すで)に戒(かい)を守(まも)ら不(ず)、又(また)財(ざい)を積(つ)ま不(ず)、
老羸(ろうるい)し気竭(きつ)きて、故(もと)を思(おも)うも何(なん)ぞ逮(およ)ばん。


※戒:戒律
※老羸し気竭きて:老い衰え気力も尽きて
※故を思うも何ぞ逮ばん:昔のことを思いかえし悔やんでも今更どうにもならない


[03]134頁、[05]68頁




12章 自己の章

Chapter XII. Self
12. attavagga
12章 愛身品


(157)


己を愛おしいと思えば、よく慎んで己を護れ、智慧者は夜の三つの時(青年、壮年、老年の人生の時期)の中の一つの時でも、自ら省みるべきである。


If a man hold himself dear, let him watch himself carefully; during one at least out of the three watches a wise man should be watchful.


attānañ ce piyaṁ jaññā, rakkheyya naṁ surakkhitaṁ; tiṇṇaṁ aññataraṁ yāmaṁ, paṭijaggeyya paṇḍito.


自愛身者 慎護所守
悕望欲解 学正不寐


自(みずか)らの身(しん)を愛(あい)する者(もの)は、慎(つつし)みて守(まも)る所(ところ)を護(まも)れ、
悕望(けもう)して解(げ)を欲(ほっ)せば、正(しょう)を学(まな)んで寐(や)ま不(ざ)れ。


※悕望:希望
※解:理解
※正を学んで寐ま不れ:正道(仏の道)を学んで怠らない


[05]54頁、[08]72頁、[12]82頁、[14]228頁、[15]166頁、[19]35頁、[24]60頁、[25]182頁、[26]311頁、[27]105頁


(158)


先ず初めに自らを正しく修めて、その後に他人を教えさとせ、このような智慧者は、思い悩むことがない。


Let each man direct himself first to what is proper, then let him teach others; thus a wise man will not suffer.


attānam eva paṭhamaṁ, patirūpe nivesaye; athaññamanusāseyya, na kilisseyya paṇḍito.


学当先求解 観察別是非
受諦応誨彼 慧然不復惑


学(がく)は当(まさ)に先(ま)ず解(げ)を求(もと)め、観察(かんざつ)して是非(ぜひ)を別(わか)つべし。
諦(たい)を受(う)けて応(まさ)に彼(かれ)を誨(おし)うべし、慧然(えねん)は復(また)惑(まど)わ不ず。


※学:仏道を学ぶ
※解:理解
※観察:ものごとをありのままに観る
※是非を別つべし:善悪を分別せよ
※諦:四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理
※誨うべし:教えるべし
※慧然は復惑わ不ず:はっきりした智慧があれば惑わない


[04]85頁、[12]89頁、[17]118頁、[21]172頁、[25]92頁


(159)


他人に教えるように、自らしっかり修めよ、自らよく制御すれば、その後、他人を制御する、己を制御することは、実に難しい。


If a man make himself as he teaches others to be, then, being himself well subdued, he may subdue (others); one's own self is indeed difficult to subdue.


attānañ ce tathā kayirā, yathāññamanusāsati; sudanto vata dametha, attā hi kira duddamo.


当自剋修 随其教訓
己不被訓 焉能訓彼


当(まさ)に自(みずか)ら剋修(こくじゅう)して、其(そ)の教訓(きょうくん)に随(したが)うべし、
己(おの)れ訓(おしえ)を被(こうむ)ら不(ず)んば、焉(いずく)んぞ能(よ)く彼(かれ)を訓(おし)えん。


※剋修:きびしく修行する
※被ら不んば:受けないならば
※焉んぞ能く彼を訓えん:どうして他人を教育できようか


[02]170頁、[04]85頁、[12]90頁、[21]174頁、[25]94頁


(160)


己を以て己の主と為す、他人がどうして己の主であろうか、己をよく制御すれば、得難き主を得る。


Self is the lord of self, who else could be the lord? With self well subdued, a man finds a lord such as few can find.


attā hi attano nātho, ko hi nātho paro siyā; attanā hi sudantena, nāthaṁ labhati dullabhaṁ.


自己心為師 不随他為師
自己為師者 獲真智人法


自己(じこ)の心(こころ)を師(し)と為(な)し、他(た)に随(したっが)って師(し)と為(な)さ不(ざ)れ、
自己(じこ)を師(し)と為(な)す者(もの)は、真(しん)の智人(ちじん)の法(ほう)を獲(う)。


※法:真理


[01]208頁、[03]135頁、[04]159頁、[06]175頁、[07]201頁、[08]76頁、[09]195頁、[11]117頁、[12]74頁、[14]108頁、[15]184頁、[17]119頁、[18]15頁、[19]163頁、[20]33頁、[21]176頁、[22]161頁、[23]16頁、[24]63頁、[25]64頁、[26]271頁、[27]109頁


(161)


己がした罪悪は、己より生じ、己による罪は愚か者を打ち砕く、あたかも金剛石が宝石を打ち砕くように。


The evil done by oneself, self-begotten, self-bred, crushes the foolish, as a diamond breaks a precious stone.


attanā hi kataṁ pāpaṁ, attajaṁ attasambhavaṁ; abhimatthati dummedhaṁ, vajiraṁvasmamayaṁ maṇiṁ.


本我所造 後我自受
為悪自更 如剛鑽珠


本(もと)、我(わ)が造(つく)る所(ところ)、後(のち)に我(われ)自(みずか)ら受(う)く、
悪(あく)を為(な)して自(みずか)ら更(か)う、剛(ごう)の珠(たま)を鑽(き)るが如(ごと)し。


※本:元々
※更う:改めよう(とすることは)
※剛の珠を鑽る:金剛石(ダイアモンド)の宝石を切るようにむずかしい


[21]178頁


(162)


少しも戒律を持たなければ、蔓草の絡みついた沙羅樹のように、自ら仇敵の望むことを自分に対して行う。


He whose wickedness is very great brings himself down to that state where his enemy wishes him to be, as a creeper does with the tree which it surrounds.


yassa accantadussilyaṁ, māluvā sālamivotthataṁ; karoti so tathattānaṁ, yathā naṁ icchatī diso.


人不持戒 滋蔓如藤
逞情極欲 悪行日増


人(ひと)、戒(かい)を持(も)た不(ず)んば、滋蔓(じまん)して藤(ふじ)の如(ごと)く、
情(じょう)を逞(たくま)しくし欲(よく)を極(きわ)め、悪行(あくぎょう)日(ひ)に増(ま)さん。


※戒:戒律
※滋蔓して藤の如く:藤のつるがしげりはびこるように
※逞しく:思いのままに


(163)


善くないこと、己のためにならないことは、為し易い、ためになること、善いことは、甚だ為し難い。


Bad deeds, and deeds hurtful to ourselves, are easy to do; what is beneficial and good, that is very difficult to do.


sukarāni asādhūni, attano ahitāni ca; yaṁ ve hitañca sādhuñca, taṁ ve paramadukkaraṁ.


悪行危身 愚以為易
善最安身 愚以為難


悪行(あくぎょう)は身(み)を危(あや)うくするも、愚(ぐ)は以(もっ)て易(やす)しと為(な)す、
善(ぜん)は最(もっと)も身(み)を安(やす)んずるも、愚(ぐ)は以(もっ)て難(かた)しと為(な)す。


※危うく:危険に
※愚は以て易しと為す:愚かな者は悪行を為しやすい
※安んず:安心する
※愚は以て難しと為す:愚かな者は善行を為しがたい


[02]176頁、[10]98頁、[19]187頁


(164)


尊き聖人の、真理の教えを罵る愚か者は、悪見にすがる、彼は劫吒迦(カッタカ草、竹の一種)のように、果実が熟すれば自らを滅ぼす。


The foolish man who scorns the rule of the venerable (Arahat), of the elect (Ariya), of the virtuous, and follows false doctrine, he bears fruit to his own destruction, like the fruits of the Katthaka reed.


yo sāsanaṁ arahataṁ, ariyānaṁ dhammajīvinaṁ; paṭikkosati dummedho, diṭṭhiṁ nissāya pāpikaṁ; phalāni kaṭṭhakasseva, attaghātāya phallati.


如真人教 以道活身
愚者疾之 見而為悪
行悪得悪 如種苦種


真人(しんにん)の教(おしえ)の如(ごと)き、道(どう)を以(もっ)て身(しん)を活(い)かす、
愚者(ぐしゃ)は之(これ)を疾(や)み、見(み)て而(しか)も悪(あく)と為(な)す。
悪(あく)を行(ぎょう)ぜば悪(あく)を得(え)る、苦種(くしゅ)を種(う)うるが如(ごと)し。


※真人:真理の人
※道:仏の道
※疾み:ねたみ
※見て而も悪と為す:(愚者は正法を)見てかえってあなどり悪法となす
※苦種を種うる:苦しみの種を植える


(165)


自ら罪をつくり汚れ、自ら罪をつくらずして清める、清いも清くないも己のことである、他により清められることなし。


By oneself the evil is done, by oneself one suffers; by oneself evil is left undone, by oneself one is purified. Purity and impurity belong to oneself, no one can purify another.


attanā va kataṁ pāpaṁ, attanā saṁkilissati; attanā akataṁ pāpaṁ, attanāva visujjhati; suddhī asuddhi paccattaṁ, nāñño aññaṁ visodhaye.


悪自受罪 善自受福
亦各須熟 彼不相代
習善得善 亦如種甜


悪(あく)は自(みずか)ら罪(つみ)を受(う)け、善(ぜん)は自(みずか)ら福(ふく)を受(う)く、
亦(また)各(おのおの)須(すべか)らく熟(じゅく)すべし、彼(かれ)相(あい)代(かわ)ら不(ず)。
善(ぜん)を習(なら)えば善(ぜん)を得(え)、亦(また)甜(てん)を種(う)うるが如(ごと)し。


※各須らく熟すべし:善悪をよく考慮するべきである
※甜を種うる:甜菜(甘味の野菜、砂糖大根)を植える


[02]182頁、[17]121頁、[19]179頁、[21]180頁、[25]46頁、[27]130頁


(166)


他人の利益が如何に重大であっても、己の本来の目的を捨てるなかれ、己の本分を知り、常に本分に専心すべきである。 


Let no one forget his own duty for the sake of another's, however great; let a man, after he has discerned his own duty, be always attentive to his duty.


attadatthaṁ paratthena, bahunāpi na hāpaye; attadatthamabhiññāya, sadatthapasuto siyā.


凡用必予慮 勿以損所務
如是意日修 事務不失時


凡(およ)そ用(よう)は必(かなら)ず予(あらかじ)め慮(おもんばか)り、以(もっ)て所務(しょむ)を損(そん)ずる勿(なか)れ、
是(かく)の如(ごと)く意(こころ)を日(ひ)に修(おさ)め、事務(じむ)に時(とき)を失(うしな)わ不(ざ)れ。


※凡そ用は必ず予め慮り:何事をするにも必ずあらかじめ考えて
※所務を損ずる:自分のつとめをおろそかにする
※日に修め:日々修行する
※事務に時を失わ不れ:時間を無駄にせず事務(つとめ)を処理する


[10]200頁、[17]123頁、[21]182頁、[25]130頁、[26]273頁




13章 世間の章

Chapter XIII. The World
13. lokavagga
13章 世俗品


(167)


下劣なことをするな、放逸に生活するな、邪見をいだくな、世俗の煩いを助長するな。


Do not follow the evil law! Do not live on in thoughtlessness! Do not follow false doctrine! Be not a friend of the world.


hīnaṁ dhammaṁ na seveyya, pamādena na saṁvase; micchādiṭṭhiṁ na seveyya, na siyā lokavaḍḍhano.


不親卑漏法 不与放逸会
不種邪見根 不於世長悪


卑漏(ひろ)の法(ほう)に親(した)しま不(ざ)れ、放逸(ほういつ)与(と)会(え)せ不(ざ)れ、
邪見(じゃけん)の根(ね)を種(う)え不(ざ)れ、世(よ)に於(おい)て悪(あく)を長(ちょう)ぜ不(ざ)れ。


※卑漏の法:下劣な法
※放逸:仏道にはげまず、なまける
※邪見:よこしまな見解
※長ぜ不れ:増加しない


[05]18頁、[06]127頁、[17]128頁、[21]188頁、[25]184頁


(168)


奮起せよ、放逸に耽るな、正しい行いに従え、正しい行いに従う行者は快く眠る、この世でもあの世でも。


Rouse thyself! do not be idle! Follow the law of virtue! The virtuous rests in bliss in this world and in the next.


uttiṭṭhe nappamajjeyya, dhammaṁ sucaritaṁ care; dhammacārī sukhaṁ seti, asmiṁ loke paramhi ca.


随時不興慢 快習於善法
善法善安寐 今世亦後世


時(とき)に随(したが)って慢(まん)を興(おこ)さ不(ざ)れ、快(こころよ)く善法(ぜんぽう)を習(なら)えよ、
善法(ぜんぽう)は善(よ)く安寐(あんぴ)す、今世(こんぜ)にも亦(また)後世(ごせ)にも。


※時に随って慢を興さ不れ:今こそ慢心を起こさず
※安寐:安らかに眠る


[06]128頁、[10]159頁、[17]130頁、[21]190頁


(169)


正しい行いに従え、悪い行いに従うなかれ、正しい行いに従う行者は快く眠る、この世でもあの世でも。


Follow the law of virtue; do not follow that of sin. The virtuous rests in bliss in this world and in the next.


dhammaṁ care sucaritaṁ, na naṁ duccaritaṁ care; dhammacārī sukhaṁ seti, asmiṁ loke paramhi ca.


楽法楽学行 慎莫行悪法
能善行法者 今世後世楽


法(ほう)を楽(たの)しみ楽(たの)しんで学行(がくぎょう)せよ、慎(つつし)んで悪法(あくほう)を行(ぎょう)ずる莫(なか)れ、
能(よ)く善(よ)く法(ほう)を行(ぎょう)ずる者(もの)は、今世(こんぜ)にも後世(ごせ)にも楽(たの)し。


[10]159頁、[17]131頁、[21]192頁


(170)


この世は泡沫のように観よ、この世は陽炎のように観よ、このように世間を観察する人を死王は見ることなし。


Look upon the world as a bubble, look upon it as a mirage: the king of death does not see him who thus looks down upon the world.


yathā pubbuḷakaṁ passe, yathā passe marīcikaṁ; evaṁ lokaṁ avekkhantaṁ, maccurājā na passati.


当観水上泡 亦観幻野馬
如是不観世 亦不見死王


当(まさ)に水上(すいじょう)の泡(あわ)を観(かん)じ、亦(また)幻(まぼろし)の野馬(やめ)を観(かん)ずべし、
是(かく)の如(ごと)く世(よ)を観(かん)ぜ不(ず)んば、亦(また)死王(しおう)を見(み)不(ず)。


※水上の泡を観じ:この世は水上の泡のように儚いものと観じ
※幻の野馬を観ず:この世は幻のような陽炎と観じ
※世を観ぜ不んば死王を見不:世を無常と観れば閻魔を見ず、常住と観れば閻魔に遭う


[03]142頁、[04]52頁、[07]136頁、[14]130頁、[17]134頁、[18]62頁、[21]194頁、[25]160頁


(171)


来れ、王の車のように装飾されたこの世間を見よ、愚か者はこの中に耽溺する、智慧者は執着することがない。


Come, look at this glittering world, like unto a royal chariot; the foolish are immersed in it, but the wise do not touch it.


etha passathimaṁ lokaṁ, cittaṁ rājarathūpamaṁ; yattha bālā visīdanti, natthi saṁgo vijānataṁ.


如是当観身 如王雑色車
愚者所染著 智者遠離之


是(かく)の如(ごと)く身(み)を観(かん)ずべし、王(おう)の雑色車(ざっしきくるま)の如(ごと)し、
愚者(ぐしゃ)は染著(せんじゃく)する所(ところ)、智者(ちしゃ)は之(これ)を遠離(おんり)す。


※王の雑色車:様々な色で装飾された王様の車
※愚者は染著する所:愚か者は豪華に装飾された車に執着して
※智者は之を遠離す:智慧者はこのはかなさ(無常)を見極めて執着から離れる


[03]138頁、[18]27頁、[19]47頁、[21]196頁、[24]168頁


(172)


もし人、前に放逸なるも、後に不放逸なれば、よくこの世間を照らす、あたかも雲を出たる月のように。


He who formerly was reckless and afterwards became sober, brightens up this world, like the moon when freed from clouds.


yo ca pubbe pamajjitvā, pacchā so nappamajjati; somaṁ lokaṁ pabhāseti, abbhā muttova candimā.


人前為過 後止不犯
是照世間 如月雲消


人前(ひとまえ)に過(か)を為(な)すも、後(のち)に止(や)めて犯(おか)さ不(ず)んば、
是(こ)れ世間(せけん)を照(て)らす、月雲(つきくも)の消(きえ)ゆるが如(ごと)し。


※過:あやまち
※世間を照らす:(仏性のはたらきで)世の中を照らす光となる
※月雲の消ゆる:月を隠す雲が消え去り月光が地上を照らす


[05]129頁、[06]126頁、[07]235頁、[09]102頁、[17]135頁、[19]182頁、[21]198頁、[24]168頁


(173)


もし人、前に悪行を作るも、後に善を以てこれを滅せば、よくこの世間を照らす、あたかも雲を出たる月のように。


He whose evil deeds are covered by good deeds, brightens up this world, like the moon when freed from clouds.


yassa pāpaṁ kataṁ kammaṁ, kusalena pidhīyati; somaṁ lokaṁ pabhāseti, abbhā muttova candimā.


人前為悪 以善滅之
是照世間 如月雲消


人前(ひとまえ)に悪(あく)を為(な)すも、善(ぜん)を以(もっ)て之(これ)を滅(めっ)せば、
是(こ)れ世間(せけん)を照(て)らす、月雲(つきくも)の消(きえ)ゆるが如(ごと)し。


※世間を照らす:(仏性のはたらきで)世の中を照らす光となる
※月雲の消ゆる:月を隠す雲が消え去り月光が地上を照らす


[02]190頁、[05]122頁、[10]180頁、[17]136頁、[19]182頁、[25]48頁


(174)


この世は黒暗なり、この理をよく観察するものは稀なり、網を逃れて飛び去る鳥の稀なるように。


This world is dark, few only can see here; a few only go to heaven, like birds escaped from the net.


andhabhūto ayaṁ loko, tanukettha vipassati; sakuṇo jālamuttova, appo saggāya gacchati.


癡覆天下 貪令不見
邪疑却道 若愚行是


癡(ち)は天下(てんか)を覆(おお)い、貪(とん)は見(み)不(ざ)ら令(し)め、
邪疑(じゃぎ)は道(どう)を却(しりぞ)く、若(も)し愚(ぐ)ならば是(こ)れを行(ぎょう)ず。


※癡は天下を覆い:この世は愚癡(ぐち)におおわれ
※貪は見不ら令め:貪欲、むさぼり求める心は正しい智慧を見ることができない
※邪疑は道を却く:よこしまで疑い深い心は仏の道をしりぞく
※若し愚ならば是れを行ず:もし愚か者ならばこの全てを行う


[05]93頁、[07]182頁、[10]177頁、[11]174頁


(175)


白鳥は太陽の道を行く、神通力のある者は虚空を行く、賢者は悪魔とその軍勢を滅ぼし、世間を離れる。


The swans go on the path of the sun, they go through the ether by means of their miraculous power; the wise are led out of this world, when they have conquered Mara and his train.


haṁsādiccapathe yanti, ākāse yanti iddhiyā; nīyanti dhīrā lokamhā, jetvā māraṁ savāhiniṁ.


如鴈将群 避羅高翔
明人導世 度脱邪衆


鴈(かり)の群(むれ)を将(ひき)いて、羅(あみ)を避(さ)けて高(たか)く翔(かけ)るが如(ごと)く、
明人(みょうにん)は世(よ)を導(みちび)き、邪衆(じゃしゅ)は度脱(どだつ)せしむ。


※鴈:雁
※将いて:率いて
※明人:賢者
※邪衆は度脱せしむ:よこしまな考えの人々を解脱する


[21]200頁、[25]220頁


(176)


唯一の真理を犯し、かつ妄語して、彼岸の世界を信じない人は、どのような悪でも為さないものはない。


If a man has transgressed one law, and speaks lies, and scoffs at another world, there is no evil he will not do.


ekaṁ dhammaṁ atītassa, musāvādissa jantuno; vitiṇṇaparalokassa, natthi pāpaṁ akāriyaṁ.


一法脱過 謂妄語人
不免後世 靡悪不更


一法(いちほう)を脱過(だっか)し、妄語(もうご)を謂(い)う人(ひと)は、
後世(ごせ)を免(まぬが)れ不(ず)、悪(あく)として更(か)えざるは靡(な)し。


※一法を脱過し:ただ一つの仏法をふみはずし
※妄語:うそをつく
※後世:来世、のちの世
※悪として更えざるは靡し:悪として改めることはない


[05]115頁、[07]213頁、[10]167頁


(177)


貪欲の人は天界に赴かず、愚か者は決してほどこしを讃えず、賢者はほどこしを隨喜し、これによって来世に安楽を受ける。


The uncharitable do not go to the world of the gods; fools only do not praise liberality; a wise man rejoices in liberality, and through it becomes blessed in the other world.


na ve kadariyā devalokaṁ vajanti, bālā have nappasaṁsanti dānaṁ; dhīro ca dānaṁ anumodamāno, teneva so hoti sukhī parattha.


愚不修天行 亦不誉布施
信施助善者 従是到彼安


愚(ぐ)は天行(てんこう)を修(しゅう)せ不(ず)、亦(また)布施(ふせ)を誉(ほ)め不(ず)、
信施(しんぜ)の善(ぜん)を助(たす)くる者(もの)は、是(こ)れより彼(か)の安(やす)きに到(いた)る。


※愚は天行を修せ不:愚か者は天に至る道を修めず
※信施:信仰心からの施し
※彼の安き:やすらかな世界


[02]197頁、[05]185頁、[10]62頁


(178)


この地上を統治するよりも、また天界に赴くよりも、一切世界の王となるよりも、悟りの階梯の第一段階である預流果のほうが勝れている。


Better than sovereignty over the earth, better than going to heaven, better than lordship over all worlds, is the reward of the first step in holiness.


pathabyā ekarajjena, saggassa gamanena vā; sabbalokādhipaccena, sotāpattiphalaṁ varaṁ.


夫求爵位財 尊貴升天福
弁慧世間悍 斯聞為第一


夫(そ)れ爵位財(しゃくいざい)を求(もと)め、尊貴(そんき)にして天福(てんぷく)に升(のぼ)るも、
弁慧(べんえ)は世間(せけん)の悍(かん)なるも、斯(こ)の聞(もん)を第一(だいいち)と為(な)す。


※爵位財:栄誉称号や財
※尊貴にして天福に升るも:きわめてとうとい人が天界にのぼっても
※弁慧は世間の悍なるも:弁論智慧が世の中で勇ましくても
※斯の聞を第一と為す:仏道を聞くことが第一に大切である


[11]36頁、[14]66頁、[24]114頁




14章 仏陀の章

Chapter XIV. The Buddha (The Awakened)
14. buddhavagga
14章 述仏品


(179)


すでに自ら勝って決して敗れず、その勝利はこの世の誰も達し得ない、無辺の境地にある仏陀を、如何なる道によって、邪道に導くことが出来るであろうか。


He whose conquest is not conquered again, into whose conquest no one in this world enters, by what track can you lead him, the Awakened, the Omniscient, the trackless?


yassa jitaṁ nāvajīyati, jitaṁ yassa noyāti koci loke; taṁ buddhamanantagocaraṁ, apadaṁ kena padena nessatha.


己勝不受悪 一切勝世間
叡智廓無彊 開曚令入道


己(すで)に勝(か)ちて悪(あく)を受(う)けず、一切(いっさい)世間(せけん)に勝(か)つ、
叡智(えいち)は廓(かく)として彊(きわま)り無(な)く、曚(もう)を開(ひら)きて道(どう)に入(い)ら令(し)む。


※叡智:すぐれた智慧
※廓として彊り無く:周りを囲うような境が無い(広く限りない)
※曚を開きて道に入ら令む:暗い心を開いて仏道に入る


[10]131頁、[17]140頁、[21]206頁


(180)


網のように絡みつく執着は、彼には存在しない、無辺の境地にある仏陀を、如何なる道によって、邪道に導くことが出来るであろうか。


He whom no desire with its snares and poisons can lead astray, by what track can you lead him, the Awakened, the Omniscient, the trackless?


yassa jālinī visattikā, taṇhā natthi kuhiñci netave; taṁ buddhamanantagocaraṁ, apadaṁ kena padena nessatha.


決網無罣礙 愛尽無所積
仏智深無極 未践迹令践


網(もう)を決(けっ)して罣礙(けいげ)無(な)く、愛(あい)尽(つ)きて積(つ)む所(ところ)無(な)し、
仏智(ぶっち)深(ふか)くして極(きわ)まり無(な)く、未(いま)だ践(ふ)まざる迹(あと)を践(ふ)ま令(し)む。


※網を決して:(煩悩の)あみを切って
※罣礙無く:とらわれることなく
※愛尽きて積む所無し:愛欲が尽きてたくわえる所も無い
※極まり:かぎり
※未だ践まざる迹を践ま令む:だれも到達していない悟りの境地に入る


[10]131頁


(181)


賢者は禅定に専念し、出家の寂静を喜ぶ、神々でさえもこの正しく覚った者、思念ある者を羨やむ。


Even the gods envy those who are awakened and not forgetful, who are given to meditation, who are wise, and who delight in the repose of retirement (from the world).


ye jhānapasutā dhīrā, nekkhammūpasame ratā; devāpi tesaṁ pihayanti, sambuddhānaṁ satīmataṁ.


勇健立一心 出家日夜滅
根絶無欲意 学正念清明


勇健(ゆうごん)にして一心(いっしん)を立(た)て、出家(しゅっけ)して日夜(にちや)に滅(めっ)し、
根絶(こんぜつ)して欲意(よくい)無(な)く、正(しょう)を学(まな)んで念(ねん)は清明(しょうみょう)なり。


※勇健:力強く
※一心を立て:心を一つに集中し(仏道修行の志)を立て
※日夜に滅し:昼も夜も、いつも(煩悩を)滅し
※根絶して欲意無く:迷いの根を断ち欲望をなくし
※正:正道(仏の道)
※念は清明なり:心の思いはきよらかで明るい


[10]166頁、[14]96頁、[17]141頁、[21]208頁


(182)


人として生まれることは難しい、寿命のあることも難しい、正法を聞くことも難しい、諸仏に出会うことも難しい。


Difficult (to obtain) is the conception of men, difficult is the life of mortals, difficult is the hearing of the True Law, difficult is the birth of the Awakened (the attainment of Buddhahood).


kiccho manussapaṭilābho, kicchaṁ maccāna jīvitaṁ; kicchaṁ saddhammassavanaṁ, kiccho buddhānamuppādo.


得生人道難 生寿亦難得
世間有仏難 仏法難得聞


人道(じんどう)に生(しょう)ずるを得(え)るは難(がた)く、寿(じゅ)を生(しょう)ずるも亦(また)得(え)難(がた)く、
世間(せけん)に仏(ほとけ)有(あ)るは難(がた)く、仏法(ぶっぽう)を聞(き)くこと得(え)るは難(がた)し。


※人道に生ずる:人間として生まれる
※寿を生ずる:長生きする
※世間に仏有る:この世の中で仏に出会う


[01]81頁、[03]146頁、[05]170頁、[06]10頁、[07]26頁、[08]44頁、[09]16頁、[10]10頁、[12]44頁、[14]60頁、[15]210頁、[17]143頁、[18]23頁、[19]60頁、[21]210頁、[23]22頁、[24]191頁、[25]132頁、[27]17頁143頁


(183)


諸々の悪をなさず、諸々の善を奉行し、自分の心を清める、これ諸仏の教えなり。


Not to commit any sin, to do good, and to purify one's mind, that is the teaching of (all) the Awakened.


sabbapāpassa akaraṇaṁ, kusalassa upasampadā; sacittapariyodapanaṁ, etaṁ buddhāna sāsanaṁ.


諸悪莫作 諸善奉行
自浄其意 是諸仏教


諸(もろもろ)の悪(あく)は作(な)す莫(な)く、諸(もろもろ)の善(ぜん)は奉行(ぶぎょう)し、
自(みずか)ら其(そ)の意(こころ)を浄(きよ)くする、是(こ)れ諸仏(しょぶつ)の教(おし)えなり。


※奉行:仏の教えを奉じ行う


[02]206頁、[03]151頁、[04]200頁、[06]17頁、[07]170頁、[09]94頁、[10]33頁、[13]172頁、[14]55頁、[17]144頁、[18]11頁、[19]187頁、[20]91頁、[21]212頁、[22]10頁132頁、[24]195頁、[25]134頁、[26]214頁、[27]143頁


(184)


忍耐、堪忍は最高の苦行であり、涅槃に勝るものなし、これ諸仏の教えなり、他人を害する出家者はなく、他人を悩ます沙門はない。


The Awakened call patience the highest penance, long-suffering the highest Nirvana; for he is not an anchorite (pravragita) who strikes others, he is not an ascetic (sramana) who insults others.


khantī paramaṁ tapo titikkhā, nibbānaṁ paramaṁ vadanti buddhā; na hi pabbajito parūpaghātī, na samaṇo hoti paraṁ viheṭhayanto.


忍為最自守 泥洹仏称上
捨家不犯戒 息心無所害


忍(にん)を最(もっと)も自(みずか)らの守(まも)りと為(な)し、泥洹(ないおん)を仏(ほとけ)は上(じょう)と称(しょう)す、
家(いえ)を捨(す)て戒(かい)を犯(おか)さ不(ず)、心(こころ)を息(や)めて害(がい)する所(ところ)無(な)し。


※忍:耐え忍ぶ、忍辱
※泥洹:涅槃、悟りの境地
※家を捨て:出家して
※戒:戒律
※息めて:鎮めて


[02]214頁、[10]35頁、[17]147頁、[21]214頁、[24]197頁、[27]144頁


(185)


誹らず、害わず、言動を慎み、食事において量を知り、閑静なところに坐臥し、もっぱら瞑想に思念する、これ諸仏の教えなり。


Not to blame, not to strike, to live restrained under the law, to be moderate in eating, to sleep and sit alone, and to dwell on the highest thoughts,—this is the teaching of the Awakened.


anūpavādo anūpaghāto, pātimokkhe ca saṁvaro; mattaññutā ca bhattasmiṁ, pantañca sayanāsanaṁ; adhicitte ca āyogo, etaṁ buddhāna sāsanaṁ.


不嬈亦不悩 如戒一切持
少食捨身貪 有行幽隠処
意諦以有黠 是能奉仏教


嬈(わずらわ)さ不(ず)亦(また)悩(なや)まさ不(ず)、戒(かい)の如(ごと)く一切(いっさい)を持(じ)し、
小食(しょうじき)にして身(み)の貪(とん)を捨(す)て、幽隠(ゆおん)の所(ところ)に行(ぎょう)ずる有(あ)り、
意(こころ)諦(あきら)かに以(もっ)て黠(げち)有(あ)らば、是(こ)れ能(よ)く仏教(ぶきょう)を奉(ほう)ずるなり。


※戒:戒律
※持し:守り
※小食:食事を節し
※貪:貪欲、むさぼり求める心
※幽隠:暗く隠れて目立たない
※行:修行
※黠:頭の働きが良い、聡明


[02]220頁、[10]36頁、[15]16頁、[20]187頁、[24]201頁、[25]136頁


(186)


たとえ天から金貨の雨を降らすとも、欲望は飽くことなし、欲望の甘味は少なく苦しみなり、と知るものは賢者である。


There is no satisfying lusts, even by a shower of gold pieces; he who knows that lusts have a short taste and cause pain, he is wise;


na kahāpaṇavassena, titti kāmesu vijjati; appassādā dukhā kāmā, iti viññāya paṇḍito.


天雨七宝 欲猶無厭
楽少苦多 覚者為賢


天(てん)の七宝(しっぽう)を雨(あめふら)すも、欲(よく)は猶(な)お厭(あ)くこと無(な)く、
楽(らく)少(すく)なく苦(く)多(おお)しと、覚(さと)る者(もの)を賢(けん)と為(な)す。


※天の七宝を雨すも:天から七種の貴金属や宝石が雨のように降っても
※賢:賢者


[05]47頁、[07]67頁、[09]176頁、[10]90頁、[18]86頁、[19]43頁、[21]216頁、[24]203頁、[25]96頁


(187)


天上界の欲楽にも喜びを得ず、愛欲の滅尽を喜ぶものは、仏陀の弟子である。


Even in heavenly pleasures he finds no satisfaction, the disciple who is fully awakened delights only in the destruction of all desires.


api dibbesu kāmesu, ratiṁ so nādhigacchati; taṇhakkhayarato hoti, sammāsambuddhasāvako.


雖有天欲 慧捨無貪
楽離恩愛 為仏弟子


天欲(てんよく)有(あ)りと雖(いえど)も、慧(え)は捨(す)てて貪(むさぼ)る無(な)し、
楽(たの)しんで恩愛(おんあい)を離(はな)るるを、仏(ほとけ)の弟子(でし)と為(な)す。


※天欲:天上界への欲望
※慧:智慧ある人は
※恩愛:愛情に対する執着


[05]47頁、[10]90頁、[24]203頁


(188)


人々は恐怖に駆られて、山に林に庭園に樹木に霊廟にと帰依する。


Men, driven by fear, go to many a refuge, to mountains and forests, to groves and sacred trees.


bahuṁ ve saraṇaṁ yanti, pabbatāni vanāni ca; ārāmarukkhacetyāni, manussā bhayatajjitā.


或多自帰 山川樹神
廟立図像 祭祀求福


或(ある)いは多(おお)く自(みずか)ら、山川(さんせん)と樹神(じゅしん)に帰(き)し、
廟立(びょうりつ)し図像(ずぞう)し、祭祀(さいし)して福(ふく)を求(もと)む。


※山川と樹神に帰し:山、川、樹を拠り所とし
※廟立し図像し:祠を建て神の像や絵画を安置し
※祭祀:神を祭る


[08]90頁、[11]30頁、[14]42頁、[15]206頁


(189)


この拠り所は安らかではない、この拠り所は最上ではない、この拠り所によって、諸々の苦しみを解脱できない。


But that is not a safe refuge, that is not the best refuge; a man is not delivered from all pains after having gone to that refuge.


n’ etaṁ kho saraṇaṁ khemaṁ, n’ etaṁ saraṇamuttamaṁ; n’ etaṁ saraṇamāgamma, sabbadukkhā pamuccati.


自帰如是 非吉非上
彼不能来 度我衆苦


自(みずか)ら帰(き)する是(かく)の如(ごと)きは、吉(きち)に非(あら)ず上(じょう)に非(あら)ず、
彼(かれ)来(き)たりて、我(わが)衆(もろもろ)の苦(く)を度(ど)すること能(あた)わ不(ず)。


※自ら帰する是の如きは:是の如き(山、川、樹の神)に自ら信心する
※彼来たりて:山、川、樹の神が来て
※度する:渡る


[08]90頁、[11]30頁、[14]42頁、[15]206頁、[21]218頁


(190)


仏と法と僧とに帰依し、正しい智慧を以て四聖諦を觀察する。


He who takes refuge with Buddha, the Law, and the Church; he who, with clear understanding, sees the four holy truths:—

yo ca buddhañca dhammañca, saṁghañca saraṇaṁ gato; cattāri ariyasaccāni, sammappaññāya passati.


如有自帰 仏法聖衆
道徳四諦 必見正慧


如(も)し自(みずか)ら、仏法(ぶっぽう)と聖衆(しょうじゅ)とに帰(き)する有(あ)らば、
道徳(どうとく)と四諦(したい)に必(かなら)ず正慧(しょうえ)を見(み)ん。


※聖衆:僧侶
※帰する:信心する
※四諦:四つの聖なる真理(苦諦・集諦・滅諦・道諦)
※正慧:正しい智慧


[01]339頁、[02]228頁、[03]155頁、[11]31頁、[15]214頁、[22]185頁、[24]204頁、[25]100頁、[26]96頁


(191)


苦と、苦の生起と、苦の滅尽と、苦の滅尽に至る八道(八つの正なる道)を觀察する。


Viz. pain, the origin of pain, the destruction of pain, and the eightfold holy way that leads to the quieting of pain;—


dukkhaṁ dukkhasamuppādaṁ, dukkhassa ca atikkamaṁ; ariyaṁ c aṭṭhaṅgikaṁ maggaṁ, dukkhūpasamagāminaṁ.


生死極苦 従諦得度
度世八道 斯除衆苦


生死(しょうじ)は極苦(ごくく)なり、諦(たい)に従(したが)って度(ど)するを得(え)、
世(よ)を度(ど)する八道(はちどう)は、斯(こ)れ衆苦(しゅく)を除(のぞ)く。


※生死は極苦なり:輪廻転生する世界は極めて苦しみなり
※諦に従って度する:四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理に従って苦しみを渡る
※世を度する:この苦しみの世を渡る
※八道:八つの正なる道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)
※衆苦:多くの苦しみ


[01]367頁、[03]159頁、[07]178頁、[11]31頁、[22]171頁、[22]186頁、[24]204頁、[25]100頁、[26]105頁


(192)


この拠り所は安らかであり、この拠り所は最上であり、この拠り所によって、諸々の苦しみを解脱できる。


That is the safe refuge, that is the best refuge; having gone to that refuge, a man is delivered from all pain.


etaṁ kho saraṇaṁ khemaṁ, etaṁ saraṇamuttamaṁ; etaṁ saraṇamāgamma, sabbadukkhā pamuccati.


自帰三尊 最吉最上
唯独有是 度一切苦


自(みずか)ら三尊(さんぞん)に帰(き)する、最吉(さいきち)にして最上(さいじょう)なり、
唯(ただ)独(ひと)り是(これ)のみ有(あ)りて、一切(いっさい)の苦(く)を度(ど)す。


※三尊:仏法僧(仏陀と真理と僧侶)の三宝
※是のみ:四諦・八道
※度す:渡す


[03]160頁、[07]178頁、[11]32頁、[22]186頁


(193)


尊き人は得難く、彼は何処にでも生まれる訳ではない、このように賢者の生まれるところは、安楽にして栄える。


A supernatural person (a Buddha) is not easily found, he is not born everywhere. Wherever such a sage is born, that race prospers.


dullabho purisājañño, na so sabbattha jāyati; yattha so jāyati dhīro, taṁ kulaṁ sukhamedhati.


明人難値 亦不比有
其所生処 族親蒙慶


明人(みょうにん)は値(あ)い難(がた)く、亦(また)比(くら)べ有(あ)ら不(ず)、
其(その)所生(しょしょう)の処(ところ)は、族親(ぞくしん)も慶(きょう)を蒙(こうむ)る。


※明人:賢者
※値い難く:出会うのはむずかしい
※比べ有ら不:他と比較することが出来ない(ほど出会うことがない)
※所生の処:生み出したところ
※慶を蒙る:幸せをうける


[10]80頁


(194)


諸仏の出現は楽しみなり、正法を説示するは楽しみなり、僧団が和合するは楽しみなり、和合の人々の修行は楽しみなり。


Happy is the arising of the awakened, happy is the teaching of the True Law, happy is peace in the church, happy is the devotion of those who are at peace.


sukho buddhānamuppādo, sukhā saddhammadesanā; sukhā saṁghassa sāmaggī, samaggānaṁ tapo sukho.


諸仏興快 説経道快
衆聚和快 和則常安


諸仏(しょぶつ)の興(おこ)るは快(こころよ)く、経道(きょうどう)を説(と)くも快(こころよ)く、
衆聚(しゅじゅ)の和(わ)するも快(こころよ)し、和(わ)なれば則(すなわ)ち常(つね)に安(やす)し。


※興る:世にあらわれる
※経道:経典に示された解脱の道
※衆聚:多くの人が集まる
※和:和合
※安し:やすらか


[02]234頁、[10]142頁、[14]38頁、[17]148頁、[21]220頁、[25]26頁、[25]138頁


(195)


供養に値する、虚妄を離れ、すでに憂いと悲しみとを渡り終えた、仏陀やその弟子を供養する。


He that renders honor to whom honor is due, whether they be the Buddhas or their disciples, Those that have overpassed the Hindrances, those that have crossed the Sea of Sorrow,
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


pūjārahe pūjayato, buddhe yadi va sāvake; papañcasamatikkante, tiṇṇasokapariddave.


見諦浄無穢 已度五道渕
仏出照世間 為除衆憂苦


諦(たい)を見(み)、浄(きよ)くして穢(けが)れ無(な)く、已(すで)に五道(ごどう)の渕(ふち)を度(わた)る、
仏(ほとけ)出(い)でて世間(せけん)を照(てら)すは、衆(しゅ)の憂苦(うく)を除(のぞ)かんが為(ため)なり。


※諦を見:四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理を観て
※五道:人が善悪の因によって行く五つの世界。地獄・餓鬼・畜生・人間・天上
※渕:迷いの世界
※衆の憂苦:多くの人の憂いや苦しみ


(196)


このように安穏にして、恐れなき聖者を供養する人は、この功徳を計ることができない。


He that renders honor to those that have found Nibbāna, to those that are without fear, His merit cannot be measured by anyone.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


tā dise pūjayato, nibbute akutobhaye; na sakkā puññaṁ saṁkhātuṁ, imettamapi kenaci.


士如中正 志道不慳
利哉斯人 自帰仏者


士(し)、如(も)し中正(ちゅうしょう)にして、道(どう)に志(こころざ)し慳(けん)なら不(ず)んば、
利(り)なる哉(かな)斯(この)人(ひと)は、自(みずか)ら仏(ほとけ)に帰(き)する者(もの)なり。


※士:仏道修行者
※中正:偏らない心を保ち
※道:仏の道
※慳:物惜しみ
※利なる:良い




15章 安楽の章

Chapter XV. Happiness
15. sukhavagga
15章 安寧品


(197)


怨みをいだく人々の中にあって怨まず、我は楽しく生きよう、怨みをいだく人々の中にあって怨まず、我は楽しく暮らそう。


Let us live happily then, not hating those who hate us! among men who hate us let us dwell free from hatred!


susukhaṁ vata jīvāma, verinesu averino; verinesu manussesu, viharāma averino.


我生已安 不慍於怨
衆人有怨 我行無怨


我(わが)生(しょう)は已(すで)に安(やす)し、怨(うらみ)を慍(いか)ら不(ず)、
衆人(しゅにん)に怨(うらみ)有(あ)るも、我(われ)は怨(うらみ)無(な)きを行(ぎょう)ず。


※生:人生
※安し:やすらか
※慍ら不:怒らず
※衆人:多くの人々
※行ず:生きる


[04]20頁、[06]35頁、[07]244頁、[09]140頁、[10]163頁、[14]239頁、[17]154頁、[18]46頁、[21]226頁、[22]115頁、[24]50頁、[25]50頁、[27]182頁


(198)


悩める人々の中にあって悩まず、我は楽しく生きよう、悩める人々の中にあって悩まず、我は楽しく暮らそう。


Let us live happily then, free from ailments among the ailing! among men who are ailing let us dwell free from ailments!

susukhaṁ vata jīvāma, āturesu anāturā; āturesu manussesu, viharāma anāturā.


我生已安 不病於病
衆人有病 我行無病


我(わが)生(しょう)は已(すで)に安(やす)し、病(やまい)を病(やまい)とせ不(ず)、
衆人(しゅにん)に病(やまい)有(あ)るも、我(われ)は病(やまい)無(な)きを行(ぎょう)ず。


※生:人生
※安し:やすらか
※病を病とせ不:病の為に憂い悲嘆することがない
※衆人:多くの人々
※行ず:生きる


[05]39頁、[22]116頁、[23]59頁


(199)


貪りのある人々の中にあって貪らず、我は楽しく生きよう、貪りのある人々の中にあって貪らず、我は楽しく暮らそう。


Let us live happily then, free from greed among the greedy! among men who are greedy let us dwell free from greed!


susukhaṁ vata jīvāma, ussukesu anussukā; ussukesu manussesu, viharāma anussukā.


我生已安 不慼於憂
衆人有憂 我行無憂


我(わが)生(しょう)は已(すで)に安(やす)し、憂(うれい)を慼(うれ)え不(ず)、
衆人(しゅにん)に憂(うれい)有(あ)るも、我(われ)は憂(うれい)無(な)きを行(ぎょう)ず。


※生:人生
※安し:やすらか
※憂を慼え不:憂いがあっても心配せず
※衆人:多くの人々
※行ず:生きる


[05]39頁、[17]155頁、[21]228頁、[22]116頁


(200)


我は一物をも所有せず、大いに楽しく生活しよう、光音天(天界に住む神々)のように、喜びを以て食事としよう。


Let us live happily then, though we call nothing our own! We shall be like the bright gods, feeding on happiness!


susukhaṁ vata jīvāma, yesaṁ no n’ atthi kiñcanaṁ; pītibhakkhā bhavissāma, devā ābhassarā yathā.


我生已安 清浄無為
以楽為食 如光音天


我(わが)生(しょう)は已(すで)に安(やす)し、清浄(しょうじょう)にして無(む)為(な)り、
楽(らく)を以(もっ)て食(じき)と為(な)すこと、光音天(こうおんてん)の如(ごと)し。


※生:人生
※安し:やすらか
※清浄にして無為り:清らかで穢れがないので物事に執着することもない
※楽を以て食と為す:安楽をもって生きる糧となす
※光音天:天界に住む神、口から放たれた光がそのまま言葉となる神


[04]106頁、[11]120頁、[17]156頁、[19]18頁、[21]230頁、[25]30頁


(201)


勝利により怨みを生じ、敗者は苦しみに臥す、勝敗を離れて寂静なる人は安楽に臥す。


Victory breeds hatred, for the conquered is unhappy. He who has given up both victory and defeat, he, the contented, is happy.


jayaṁ veraṁ pasavati, dukkhaṁ seti parājito; upasanto sukhaṁ seti, hitvā jayaparājayaṁ.


勝則生怨 負則自鄙
去勝負心 無諍自安


勝(か)たば則(すなわ)ち怨(うらみ)を生(しょう)じ、負(ま)くれば則(すなわ)ち自(みずか)ら鄙(いや)しむ、
勝負(しょうぶ)の心(こころ)を去(さ)りて、諍(あらそ)い無(な)くんば自(みずか)ら安(やす)し。


※勝たば則ち怨を生じ:勝てば人からうらまれ
※負くれば則ち自ら鄙しむ:負ければ自らを見下す
※安し:やすらか


[03]163頁、[04]28頁、[11]163頁、[12]30頁、[14]239頁、[15]40頁、[17]159頁、[18]74頁、[21]232頁、[22]43頁、[24]51頁、[25]32頁、[27]178頁


(202)


貪欲に等しい火はなく、瞋恚に等しい罪はなく、五蘊(肉体と精神を色・受・想・行・識の五つに分けたもの、個人存在)に等しい苦しみはなく、寂静に優る安楽はない。


There is no fire like passion; there is no losing throw like hatred; there is no pain like this body; there is no happiness higher than rest.


n’ atthi rāgasamo aggi, n’ atthi dosasamo kali; n’ atthi khandhasamā dukkhā, n’ atthi santiparaṁ sukhaṁ.


熱無過婬 毒無過怒
苦無過身 楽無過滅


熱(ねつ)は婬(いん)に過(す)ぐる無(な)く、毒(どく)は怒(いかり)に過(す)ぐる無(な)し、
苦(く)は身(しん)に過(す)ぐる無(な)く、楽(らく)は滅(めつ)に過(す)ぐる無(な)し。


※熱は婬に過ぐる無く:みだらなことに熱心になることなく
※毒は怒に過ぐる無し:怒りにより身体を毒するものなし
※苦は身に過ぐる無く:我が身を煩わせる苦しみはなく
※楽は滅に過ぐる無し:楽をして淫、怒、苦を滅することなし


[03]167頁、[05]144頁、[17]160頁、[21]234頁、[22]143頁、[24]116頁、[25]98頁


(203)


飢は最上の病であり、五蘊(肉体と精神を色・受・想・行・識の五つに分けたもの、個人存在)は最上の苦しみであり、如実にこれを知れば、最上安楽の涅槃がある。


Hunger is the worst of diseases, the body the greatest of pains; if one knows this truly, that is Nirvana, the highest happiness.


Jighacchā paramā rogā, saṁkhāraparamā dukhā; etaṁ ñatvā yathābhūtaṁ, nibbānaṁ paramaṁ sukhaṁ.


饑為大病 行為最苦
已諦知此 泥洹最安


饑(き)を大病(たいびょう)と為(な)し、行(ぎょう)を最苦(さいく)と為(な)す、
已(すで)に諦(あきら)かに此(これ)を知(し)る、泥洹(ないおん)最(もっと)も安(やす)し。


※饑:飢餓
※行:対象への執着心
※諦かに此を知る:あきらかにこの真理を観る
※泥洹:涅槃、悟りの境地
※安し:やすらか


[02]242頁、[05]202頁、[13]138頁、[14]127頁、[17]161頁、[21]236頁、[22]141頁145頁


(204)


無病は第一の利得であり、知足は第一の財産であり、信頼は第一の親族であり、涅槃は第一の安楽である。


Health is the greatest of gifts, contentedness the best riches; trust is the best of relationships, Nirvana the highest happiness.


ārogyaparamā lābhā, santuṭṭhiparamaṁ dhanaṁ; vissāsaparamā ñāti, nibbānaṁ paramaṁ sukhaṁ.


無病最利 知足最富
厚為最友 泥洹最楽


無病(むびょう)は最利(さいり)たり、知足(ちそく)は最富(さいふ)たり、
厚(こう)を最友(さいゆう)となし、泥洹(ないおん)は最楽(さいらく)なり。


※無病(むびょう)は最利(さいり)たり:無病は最高の利益であり
※知足(ちそく)は最富(さいふ)たり:足ることを知るのは最高の富であり
※厚(こう)を最友(さいゆう)となし:情け深く誠実であることを最高の友人となし
※泥洹(ないおん)は最楽(さいらく)なり:涅槃は最高の安楽である


[05]164頁、[06]238頁238頁、[08]178頁、[11]7頁、[15]224頁、[21]238頁、[22]142頁、[25]208頁


(205)


孤独を味わい、寂静を味わい、真理を喜び味わい、罪過を離れ、悪を離れる。


He who has tasted the sweetness of solitude and tranquillity, is free from fear and free from sin, while he tastes the sweetness of drinking in the law.


pavivekarasaṁ pitvā, rasaṁ upasamassa ca; niddaro hoti nippāpo, dhammapītirasaṁ pivaṁ.


解知念待味 思惟休息義
無熱無饑想 当服於法味


念待(ねんたい)の味(あじ)を解知(げち)し、休息(くそく)の義(ぎ)を思惟(しゆい)せば、
熱(ねつ)無(な)く饑想(きそう)無(な)く、当(まさ)に法味(ほうみ)を服(ふく)すべし。


※念待の味を解知し:心に仏を念じ待つ喜びをさとり
※休息の義を思惟せば:心身のやすらぎの意味を正しく考えれば
※熱無く:欲に熱心になることなく
※饑想無く:飢餓の心配はなく
※法味を服す:正法の喜びをうける


[10]199頁


(206)


聖人に遭うことは善く、共に住むのは安楽であり、愚か者に遭わないのは常に安楽である。


The sight of the elect (Arya) is good, to live with them is always happiness; if a man does not see fools, he will be truly happy.


sādhu dassanamariyānaṁ, sannivāso sadā sukho; adassanena bālānaṁ, niccameva sukhī siyā.


見聖人快 得依附快
得離愚人 為善独快


聖人(しょうにん)を見(み)るは快(こころよ)く、依附(えふ)を得(う)るは快(こころよ)く、
愚人(ぐにん)を離(はな)るるを得(え)て、善(ぜん)を為(な)すは独(ひと)り快(こころよ)し。


※聖人:徳の高い僧
※依附を得る:そのような人と生活を共にすることを得る


[10]195頁、[17]163頁、[25]206頁


(207)


愚か者と共に道を行けば、憂いは続く、愚か者と共に住むのは、あたかも敵と共に住むように、常に苦しみである、智慧者と共に住むのは安楽である、あたかも親族との会合のように。


He who walks in the company of fools suffers a long way; company with fools, as with an enemy, is always painful; company with the wise is pleasure, like meeting with kinsfolk.


bālasaṁgatacārī hi, dīghamaddhāna socati; dukkho bālehi saṁvāso, amitteneva sabbadā; dhīro ca sukhasaṁvāso, ñātīnaṁ va samāgamo.


与愚同居難 猶如怨同処
当選択共居 如与親々会


愚(ぐ)と与(とも)に同居(どうきょ)するは難(がた)し、猶(な)お怨(うらみ)と同処(どうしょ)するが如(ごと)し、
当(まさ)に共居(きょうきょ)を選択(せんたく)して、親々(おやおや)と与(とも)に会(かい)するが如(ごと)く当(す)べし。


※猶お:まるで
※当に共居を選択して:まさに聖人と生活を共にすることを選択して
※親々:親族


[05]76頁、[10]195頁


(208)


賢者、智慧者、博学者、忍辱なる人、戒を守る人、聖者、このような善人、善知識に従え、あたかも月が星の軌道に従うように。


Therefore, one ought to follow the wise, the intelligent, the learned, the much enduring, the dutiful, the elect; one ought to follow a good and wise man, as the moon follows the path of the stars.


tasmā hi
dhīrañca paññañca bahussutañca, dhorayhasīlaṁ vatavantamariyaṁ; taṁ tādisaṁ sappurisaṁ sumedhaṁ, bhajetha nakkhattapathaṁva candimā.


是故事多聞 幷及持戒者
如是人中上 如月在衆星


是(これ)の故(ゆえ)に多聞(たもん)と、幷(なら)びに及(およ)び持戒者(じかいしゃ)とに事(つか)えよ。
是(これ)の如(ごと)きは人中(じんちゅう)の上(じょう)にして、月(つき)の衆星(しゅうせい)に在(あ)るが如(ごと)し。


※多聞:広く智慧を備えた者
※幷び:並び
※持戒者:戒律を守り徳を備えた者
※事えよ:仕えよ
※人中の上:人の中でも最上
※月の衆星に在る:月が多くの星の中でも一番光り輝いている


[10]196頁、[17]165頁、[21]240頁




16章 愛する者の章

Chapter XVI. Pleasure
16. piyavagga
16章 好喜品


(209)


心身ともに散乱して、禅定に専念せず、本来の目的を捨てて、愛欲に執着する人は、自ら禅定する人を妬む。


He who gives himself to vanity, and does not give himself to meditation, forgetting the real aim (of life) and grasping at pleasure, will in time envy him who has exerted himself in meditation.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


ayoge yuñjamattānaṁ, yogasmiñca ayojayaṁ; atthaṁ hitvā piyaggāhī, pihetattānuyoginaṁ.


違道則自順 順道則自違
捨義取所好 是為順愛欲


道(みち)に違(たが)はば則(すなわ)ち自(みずか)ら順(したが)い、道(みち)に順(したが)はば則(すなわ)ち自(みずか)ら違(たが)う、
義(ぎ)を捨(す)てて好(この)む所(ところ)を取(と)る、是(これ)を愛欲(あいよく)に順(したが)うと為(な)す。


※道に違はば則ち自ら順い:仏の道を違えても自らその道を進む
※道に順はば則ち自ら違う:仏の道を従うべきなのに自ら違う道を進む
※義:人としての正しい道
※好む所を取る:好き勝手にふるまう
※愛欲:愛欲の煩悩


[05]136頁、[09]182頁、[25]188頁


(210)


愛する人と会うなかれ、愛さない人と決して会うなかれ、愛する人を見ないのは苦しみであり、愛さない人を見るのも苦しみである。


Let no man ever look for what is pleasant, or what is unpleasant. Not to see what is pleasant is pain, and it is pain to see what is unpleasant.


mā piyehi samāgañchi, appiyehi kudācanaṁ; piyānaṁ adassanaṁ dukkhaṁ, appiyānañca dassanaṁ.


不当趣所愛 亦莫有不愛
愛之不見憂 不愛見亦憂


当(まさ)に愛(あい)する所(ところ)に趣(おもむ)くべから不(ず)、亦(また)愛(あい)せ不(ざ)る有(あ)ること莫(なか)れ、
之(これ)を愛(あい)するを見(み)不(ざ)るは憂(うれ)い、愛(あい)せ不(ざ)るを見(み)るも亦(また)憂(うれ)う。


※愛する所に趣くべから不:愛欲に執着してはならない
※愛せ不る有ること莫れ:嫌いな人から離れることに執着しない


[01]103頁、[07]49頁、[08]66頁、[15]162頁、[16]9頁、[17]168頁、[21]246頁、[23]90頁、[24]67頁、[25]140頁、[26]168頁、[27]68頁190頁


(211)


故に愛する人を造るなかれ、愛する人を失うのは災いであり、愛する人も愛さない人もいない人には、諸々の束縛はない。


Let, therefore, no man love anything; loss of the beloved is evil. Those who love nothing and hate nothing, have no fetters.


tasmā piyaṁ na kayirātha, piyāpāyo hi pāpako; ganthā tesaṁ na vijjanti, yesaṁ natthi piyāppiyaṁ.


是以莫造愛 愛憎悪所由
已除縛結者 無愛無所憎


是(これ)を以(もっ)て愛(あい)を造(つく)る莫(なか)れ、愛(あい)は憎悪(ぞうお)の由(よ)る所(ところ)、
已(すで)に縛結(ばくけつ)を除(のぞ)ける者(もの)は、愛(あい)無(な)く憎(にく)む所(ところ)無(な)し。


※愛を造る莫れ:愛欲に執着することなかれ
※愛は憎悪の由る所:愛欲は憎しみの原因である
※縛結:(愛欲の)しばり、とらわれ
※愛無く憎む所無し:愛欲にも憎しみにも執着しない


[16]10頁、[17]169頁、[21]248頁、[24]67頁、[25]141頁、[27]73頁


(212)


愛より憂いが生じ、愛より恐れが生じる、愛を離れた人には憂いはない、どこに恐れがあろうか。


From pleasure comes grief, from pleasure comes fear; he who is free from pleasure knows neither grief nor fear.


piyato jāyatī soko, piyato jāyatī bhayaṁ; piyato vippamuttassa, natthi soko kuto bhayaṁ.


好楽生憂 好楽生畏
無所好楽 何憂何畏


好楽(こうらく)は憂(うれ)いを生(しょう)じ、好楽(こうらく)は畏(おそ)れを生(しょう)ず。
好楽(こうらく)する所(ところ)無(な)くんば、何(なに)をか憂(うれ)い、何(なに)をか畏(おそ)れん。


※好楽:好き勝手に楽しむ心


[03]176頁、[07]56頁、[16]10頁、[17]170頁、[18]34頁、[21]250頁、[23]84頁、[24]67頁、[25]142頁、[27]74頁


(213)


親愛より憂いが生じ、親愛より恐れが生じる、親愛を離れた人には憂いはない、どこに恐れがあろうか。


From affection comes grief, from affection comes fear; he who is free from affection knows neither grief nor fear.


pemato jāyatī soko, pemato jāyatī bhayaṁ; pemato vippamuttassa, natthi soko kuto bhayaṁ.


愛喜生憂 愛喜生畏
無所愛喜 何憂何畏


愛喜(あいき)は憂(うれ)いを生(しょう)じ、愛喜(あいき)は畏(おそ)れを生(しょう)ず。
愛喜(あいき)する所(とくろ)無(な)くんば、何(なに)をか憂(うれ)い、何(なに)をか畏(おそ)れん。


※愛喜:愛喜ぶ心


[11]183頁、[16]10頁


(214)


愛楽より憂いが生じ、愛楽より恐れが生じる、愛楽を離れた人には憂いはない、どこに恐れがあろうか。


From lust comes grief, from lust comes fear; he who is free from lust knows neither grief nor fear.


ratiyā jāyatī soko, ratiyā jāyatī bhayaṁ; ratiyā vippamuttassa, natthi soko kuto bhayaṁ.


愛楽生憂 愛楽生畏
無所好楽 何憂何畏


愛楽(あいぎょう)は憂(うれ)いを生(しょう)じ、愛楽(あいぎょう)は畏(おそ)れを生(しょう)ず。
愛楽(あいぎょう)する所(とくろ)無(な)くんば、何(なに)をか憂(うれ)い、何(なに)をか畏(おそ)れん。


※愛楽:愛を願う心


[07]59頁、[10]193頁、[16]10頁


(215)


愛欲より憂いが生じ、愛欲より恐れが生じる、愛欲を離れた人には憂いはない、どこに恐れがあろうか。


From love comes grief, from love comes fear; he who is free from love knows neither grief nor fear.


kāmato jāyatī soko, kāmato jāyatī bhayaṁ; kāmato vippamuttassa, natthi soko kuto bhayaṁ.


貪欲生憂 貪欲生畏
解無貪欲 何憂何畏


貪欲(とんよく)は憂(うれ)いを生(しょう)じ、貪欲(とんよく)は畏(おそ)れを生(しょう)ず。
解(さと)って貪欲(とんよく)無(な)くば、何(なに)をか憂(うれ)い、何(なに)をか畏(おそ)れん。


※貪欲:むさぼり求める心


[03]171頁、[16]11頁、[17]171頁、[21]252頁


(216)


渇愛より憂いが生じ、渇愛より恐れが生じる、渇愛を離れた人には憂いはない、どこに恐れがあろうか。


From greed comes grief, from greed comes fear; he who is free from greed knows neither grief nor fear.


taṇhāya jāyatī soko, taṇhāya jāyatī bhayaṁ; taṇhāya vippamuttassa, natthi soko kuto bhayaṁ.


愛欲生憂 愛欲生畏
解無愛欲 何憂何畏


愛欲(あいよく)は憂(うれ)いを生(しょう)じ、愛欲(あいよく)は畏(おそ)れを生(しょう)ず。
解(さと)って愛欲(あいよく)無(な)くば、何(なに)をか憂(うれ)い、何(なに)をか畏(おそ)れん


[04]72頁、[05]32頁、[16]11頁、[21]252頁


(217)


戒律と見識とをそなえ、心が正しく、真実を語り、自らの為すべきことを為す人は、人々に愛される。


He who possesses virtue and intelligence, who is just, speaks the truth, and does what is his own business, him the world will hold dear.


sīladassanasampannaṁ, dhammaṭṭhaṁ saccavedinaṁ; attano kamma kubbānaṁ, taṁ jano kurute piyaṁ.


貪法戒成 至誠知慚
行身近道 為衆所愛


法(ほう)を貪(むさぼ)りて戒成(かいじょう)し、至誠(しじょう)にして慚(はじ)を知(し)り、
身(み)を行(ぎょう)じて道(どう)に近(ちかず)かば、衆(もろもろ)の愛(あい)する所(ところ)と為(な)る。


※法:仏法
※戒成:戒律を成し
※至誠:きわめて誠実な心
※慚:恥
※行:修行
※道:仏の道
※衆の愛する所:多くの人に愛される


[02]252頁、[09]25頁、[11]72頁、[17]172頁、[25]188頁


(218)


悟りの境地(涅槃)を希望し、作意して怠らず、心は諸々の愛欲に妨げられない、彼は上流(涅槃に近づいた人)と言われる。


He in whom a desire for the Ineffable (Nirvana) has sprung up, who is satisfied in his mind, and whose thoughts are not bewildered by love, he is called urdhvamsrotas (carried upwards by the stream).


chandajāto anakkhāte, manasā ca phuṭo siyā; kāmesu ca appaṭibaddhacitto, uddhaṁsoto ti vuccati.


欲態不出 思正乃語
心無貪愛 必截流度


欲態(よくたい)を出(い)で不(ず)、正(しょう)を思(おも)いて乃(すなわ)ち語(かた)り、
心(こころ)に貪愛(とんあい)無(な)くんば、必(かなら)ず流(ながれ)を截(き)りて度(ど)する。


※欲態を出で不:欲望を抑えて外に表さず
※正:正道(仏の道)
※貪愛:むさぼり愛する
※流を截りて度する:欲望の流れを断ち切り悟りの境地に渡る


[03]179頁、[17]173頁


(219)


久しく遠方から無事に帰ってきた人を、親戚及び朋友が喜んで迎えるように。


Kinsmen, friends, and lovers salute a man who has been long away, and returns safe from afar.


cirappavāsiṁ purisaṁ, dūrato sotthimāgataṁ; ñātimittā suhajjā ca, abhinandanti āgataṁ.


譬人久行 従遠吉還
親厚普安 帰来喜歓


譬(たと)えば人(ひと)の久(ひさ)しく行(ゆ)き、遠(とお)き従(よ)り吉(きち)にして還(かえ)り、
親厚(しんこう)普(あまね)く安(やす)からば、帰(かえ)り来(きた)りて喜歓(きかん)するがごとし。


※久しく行き:しばらく出かけており
※遠き従り吉にして還り:遠方より無事に帰り
※親厚普く安からば:親族友人など皆が安心して
※喜歓:喜ぶ


[17]174頁


(220)


このように善をつくり、現世から来世に往ける人は、善業に迎へられる、帰って来た愛しい人を親戚が迎えるように。


In like manner his good works receive him who has done good, and has gone from this world to the other;—as kinsmen receive a friend on his return.


that’ eva katapuññam pi, asmā lokā paraṁ gataṁ; puññāni paṭigaṇhanti, piyaṁ ñātīva āgataṁ.


好行福者 従此到彼
自受福祚 如親来喜


好(この)んで福(ふく)を行(ぎょう)ずる者(もの)は、此(ここ)より彼(かしこ)に到(いた)り、
自(みずか)ら福祚(ふくそ)を受(う)くる、親(おや)の来(きた)り喜(よろこ)ぶが如(ごと)し。


※福を行ずる:功徳と福利を得る行いをする
※此より彼に到り:迷いの境地から悟りの境地に至る
※福祚:幸福
※親の来り喜ぶが如し:あたかも遠方より帰って来たのを両親が喜び迎えるように


[17]175頁




17章 瞋恚の章

Chapter XVII. Anger
17. kodhavagga
17章 忿怒品


(221)


怒りを棄てよ、慢心を離れよ、一切の煩悩を越えよ、精神と物質とに執着しない、無所有の人は、諸々の苦しみに遭うことはない。


Let a man leave anger, let him forsake pride, let him overcome all bondage! No sufferings befall the man who is not attached to name and form, and who calls nothing his own.


kodhaṁ jahe vippajaheyya mānaṁ, saṁyojanaṁ sabbamatikkameyya; taṁ nāmarūpasmim asajjamānaṁ, akiñcanaṁ nānupatanti dukkhā.


捨恚離慢 避諸愛貪
不著名色 無為滅苦


恚(い)を捨(す)て慢(まん)を離(はな)れ、諸(もろもろ)の愛貪(あいとん)を避(さ)け、
名色(みょうしき)に著(じゃく)せ不(ず)んば、無為(むい)にして苦(く)を滅(めっ)す。


※恚:瞋恚(しんい)、いかり
※慢:慢心
※愛貪:愛欲をむさぼる心
※名色:現象世界
※著:執着
※無為:現世を超越した絶対不変の境地


[17]178頁、[21]258頁


(222)


湧き上がる怒りを、疾走する車を止めるように制御する人を、我は御者と呼ぶ、他の人々はただ手綱を持っているだけである。


He who holds back rising anger like a rolling chariot, him I call a real driver; other people are but holding the reins.


yo ve uppatitaṁ kodhaṁ, rathaṁ bhantaṁva vāraye; tamahaṁ sārathiṁ brūmi, rasmiggāho itaro jano.


恚能自制 如止奔車
是為善御 棄冥入明


恚(い)を能(よ)く自(みずか)ら制(せい)し、奔車(ほんしゃ)を止(とど)むるが如(ごと)き、
是(これ)を善(ぜん)の御(ぎょ)と為(な)す、冥(めい)を棄(す)てて明(みょう)に入(い)る。


※奔車:疾走する車
※是を善の御と為す:このような人をよい御者となす
※冥を棄てて明に入る:暗い世界をすてて明るい世界に入る


[05]102頁、[14]204頁


(223)


怒らないことを以て怒りに勝て、善を以て不善に勝て、施しを以て物惜しみに勝て、真実を以て妄語者に勝て。


Let a man overcome anger by love, let him overcome evil by good; let him overcome the greedy by liberality, the liar by truth!


akkodhena jine kodhaṁ, asādhuṁ sādhunā jine; jine kadariyaṁ dānena, saccenālikavādinaṁ.


忍辱勝恚 善勝不善
勝者能施 至誠勝欺


忍辱(にんにく)は恚(い)に勝(か)ち、善(ぜん)は不善(ふぜん)に勝(か)ち、
勝者(しょうじゃ)は能(よ)く施(ほどこ)し、至誠(しじょう)は欺(ぎ)に勝(か)つ。


※忍辱:屈辱や苦しみを耐え忍ぶ
※恚:瞋恚(しんい)、いかり
※勝者は能く施し:勝者は常に施しをすることで物惜しみする者に勝つ
※至誠:きわめて誠実な心
※欺:あざむく心


[02]260頁、[04]13頁、[14]204頁、[17]179頁、[18]30頁、[21]260頁、[25]88頁


(224)


真実を語れ、怒るなかれ、乞われたならば貧しくても与えよ、この三つの事により、天の神々のもとに至るであろう。


Speak the truth, do not yield to anger; give, if thou art asked for little; by these three steps thou wilt go near the gods.


saccaṁ bhaṇe na kujjheyya, dajjā appampi yācito; etehi tīhi ṭhānehi, gacche devāna santike.


不欺不怒 意不多求
如是三事 死則上天


欺(あざむ)か不(ず)、怒(いか)ら不(ず)、意(こころ)に多(おお)く求(もと)め不(ず)、
是(かく)の如(ごと)き三事(さんじ)は、死(し)して則(すなわ)ち天(てん)に上(のぼ)る。


[05]99頁、[09]82頁、[17]180頁、[25]42頁


(225)


諸々の賢者は常に身を護り、殺生しなければ、不死の境地におもむく、そこに至れば憂いはない。


The sages who injure nobody, and who always control their body, they will go to the unchangeable place (Nirvana), where, if they have gone, they will suffer no more.


ahiṁsakā ye munayo, niccaṁ kāyena saṁvutā; te yanti accutaṁ ṭhānaṁ, yattha gantvā na socare.


常自摂身 慈心不殺
是生天上 到彼無憂


常(つね)に自(みずか)ら身(み)を摂(おさ)め、慈心(じしん)にして殺(ころ)さ不(ず)んば、
是(こ)れ天上(てんじょう)に生(しょう)じ、彼(かしこ)に到(いた)りて憂(うれ)い無(な)けん。


※身を摂め:身を正し
※慈心:いつくしみの心
※彼に到り:悟りの境地に至る


[17]182頁、[21]264頁


(226)


人が常に覚醒し、昼夜に勤め学び、涅槃の心を願えば、煩悩は滅尽する。


Those who are ever watchful, who study day and night, and who strive after Nirvana, their passions will come to an end.


sadā jāgaramānānaṁ, ahorattānusikkhinaṁ; nibbānaṁ adhimuttānaṁ, atthaṁ gacchanti āsavā.


意常覚寤 明慕勤学
漏尽意解 可致泥洹


意(こころ)常(つね)に覚寤(かくご)し、明慕(みょうぼ)に勤学(ごんがく)せば、
漏(ろ)尽(つ)き意(こころ)に解(さと)り、泥洹(ないおん)を致(いた)す可(べ)し。


※覚寤:気が付く
※明慕に勤学せば:常につとめ学べば
※漏:煩悩
※解り:理解する
※泥洹:涅槃、悟りの境地


[04]60頁、[11]115頁、[17]183頁、[21]266頁


(227)


阿覩羅(アトゥラ、在家信者の名前)よ、これは古より言われていることで、今日に始まることではない、人は黙って座る者を謗り、多く語る者を謗り、少なく語る者を謗る、この世に於いて、謗られない者はいない。


This is an old saying, O Atula, this is not only of to-day: `They blame him who sits silent, they blame him who speaks much, they also blame him who says little; there is no one on earth who is not blamed.'


porāṇam etaṁ atula n’ etaṁ ajjatanām iva; nindanti tuṇhimāsīnaṁ, nindanti bahubhāṇinaṁ; mitabhāṇimpi nindanti, n’ atthi loke anindito.


人相謗毀 自古至今
既毀多言 又毀訥訒
亦毀中和 世無不毀


人(ひと)相(あ)い謗毀(ぼうき)するは、古(いにしえ)自(よ)り今(いま)に至(いた)る、
既(すで)に多言(たごん)を毀(そし)り、又(また)訥訒(とつじん)を毀(そし)り、
亦(また)中和(ちゅうわ)を毀(そし)り、世(よ)に毀(そし)ら不(ざ)る無(な)し。


※人相い謗毀するは:人々が互いにけなし罵り合うことは
※古自り今に至る:昔も今も同じ
※多言を毀り:口数が多い人に対し悪口を言う
※訥訒:無口な人
※中和:その中間な人
※世に毀ら不る無し:この世に悪口を言われない人はいない


[03]180頁、[05]82頁、[06]38頁、[08]216頁、[11]203頁、[14]201頁、[15]54頁、[17]185頁、[19]26頁、[24]54頁、[25]78頁、[26]175頁


(228)


過去にはいないし、未来にもいない、又現在にもいない、ただ謗られるだけの人、或いはただ誉められるだけの人。


There never was, there never will be, nor is there now, a man who is always blamed, or a man who is always praised.


na cāhu na ca bhavissati, na cetarahi vijjati; ekantaṁ nindito poso, ekantaṁ vā pasaṁsito.


欲意非聖 不能制中
一毀一誉 但為利名


欲意(よくい)と非聖(ひしょう)は、中(ちゅう)を制(せい)するに能(あた)わ不(ず)、
一毀(いっき)一誉(いちよ)、但(た)だ利名(りみょう)の為(ため)なり。


※欲意:欲望
※非聖:聖者を非難すること
※中:中道、偏らない悟りの道
※一毀一誉:そしられるだけの人、ほめられるだけの人
※利名:利益と名誉


[02]266頁、[03]182頁、[05]88頁、[06]42頁、[08]212頁、[09]163頁、[11]203頁、[15]58頁、[19]26頁、[24]54頁、[25]80頁、[26]175頁


(229)


もしも智慧者が判断して、彼は行いに瑕疵なく、聡明にして、智慧と戒律とを備えている、と称讃するならば。


If men of intelligence always, from day to day, praise Some man as free from flaws, wise, endowed with learning and goodness, –
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


yañ ce viññū pasaṁsanti, anuvicca suve suve; acchiddavuttiṁ medhāviṁ, paññāsīlasamāhitaṁ.


明智所誉 唯称是賢
慧人守戒 無所譏謗


明智(みょうち)は誉(ほ)め所(ら)れ、唯(ただ)是(こ)れ賢(けん)なりと称(しょう)す、
慧人(えにん)は戒(かい)を守(まも)りて、譏謗(きぼう)する所(ところ)無(な)し。


※明智は誉め所れ:智慧は褒められるが
※唯是れ賢なりと称す:ただ賢い人と言われるだけ
※慧人は戒を守りて:智慧者は戒律を守り 
※譏謗する所無し:教えをそしること無し


[05]88頁、[11]203頁


(230)


閻浮陀金(えんぶだごん、ジャンブー河産の最高の黄金)の金貨のように、誰か彼を謗ることが出来ようか、諸々の神々も彼を称讃する、梵天すら彼を称讃する。


Who would venture to find fault with such a man, any more than with a coin made of gold of the Jambu river? Even the gods praise such a man, even by Brahmā is he praised.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


nikkhaṁ jambonadasseva, ko taṁ ninditumarahati; devāpi naṁ pasaṁsanti, brahmunāpi pasaṁsito.


如羅漢浄 莫而誣謗
諸人咨嗟 梵釈所称


羅漢(らかん)の浄(じょう)なる如(ごと)きは、而(しか)も誣謗(ふぼう)する莫(な)し、
諸人(しょにん)も咨嗟(しさ)し、梵釈(ぼんしゃく)も称(しょう)する所(ところ)なり。


※羅漢:阿羅漢、悟りの境地を得た聖者
※浄なる:清らかなる
※誣謗:作りごとを言って人をそしる
※諸人も咨嗟し:多くの人々もその素晴らしさを誉める
※梵釈も称する所なり:梵天、帝釈天にも称賛される


[05]88頁、[11]204頁


(231)


身体の怒りを護れ、身体を慎んで護るべし、身体の悪行を捨てて、身体にて善行を行え。


Beware of bodily anger, and control thy body! Leave the sins of the body, and with thy body practise virtue!


kāyappakopaṁ rakkheyya, kāyena saṁvuto siyā; kāyaduccaritaṁ hitvā, kāyena sucaritaṁ care.


常守護身 以護瞋恚
除身悪行 進修徳行


常(つね)に身(しん)を守護(しゅご)し、以(もっ)て瞋恚(しんい)を護(まも)り、
身(しん)の悪行(あくぎょう)を除(のぞ)きて、徳行(とくぎょう)を進修(しんじゅ)せよ。


※身を守護し:我が身を守り
※瞋恚を護り:怒りによる暴力を振るわず
※身の悪行を除きて:我が身に悪い行いを除き
※徳行を進修せよ:功徳ある行いを進み修めよ


[09]78頁、[11]105頁、[21]268頁、[25]144頁


(232)


言葉の怒りを護れ、言葉を慎んで護るべし、言葉の悪行を捨てて、言葉にて善行を行え。


Beware of the anger of the tongue, and control thy tongue! Leave the sins of the tongue, and practise virtue with thy tongue!


vacīpakopaṁ rakkheyya, vācāya saṁvuto siyā; vacīduccaritaṁ hitvā, vācāya sucaritaṁ care.


常守護口 以護瞋恚
除口悪言 誦習法言


常(つね)に口(く)を守護(しゅご)し、以(もっ)て瞋恚(しんい)を護(まも)り、
口(く)の悪言(あくごん)を除(のぞ)きて、法言(ほうごん)を誦習(しょうしゅう)せよ。


※口を守護し:言葉を守り
※瞋恚を護り:怒りによる暴言を言わず
※口の悪口を除きて:悪口を言わず
※法言を誦習せよ:真理の言葉を繰り返し唱えよ


[08]104頁200頁、[11]105頁、[15]132頁、[17]186頁、[25]146頁


(233)


心の怒りを護れ、心を慎んで護るべし、心の悪行を捨てて、心にて善行を行え。


Beware of the anger of the mind, and control thy mind! Leave the sins of the mind, and practise virtue with thy mind!


manopakopaṁ rakkheyya, manasā saṁvuto siyā; manoduccaritaṁ hitvā, manasā sucaritaṁ care.


常守護心 以護瞋恚
除心悪念 思惟念道


常(つね)に心(しん)を守護(しゅご)し、以(もっ)て瞋恚(しんい)を護(まも)り、
心(しん)の悪念(あくねん)を除(のぞ)きて、思惟(しゆい)して道(どう)を念(ねん)ぜよ。


※心を守護し:心を守り
※瞋恚を護り:怒りによる悪意を懐かず
※心の悪念を除きて:心の中の悪い思考を除き
※思惟して道を念ぜよ:正しい考えで仏の道を思え


[07]239頁、[11]106頁


(234)


身体を護り、言葉を護る賢者は、心を護る、実に能く慎んで護る。


The wise who control their body, who control their tongue, the wise who control their mind, are indeed well controlled.


kāyena saṁvutā dhīrā, atho vācāya saṁvutā; manasā saṁvutā dhīrā, te ve suparisaṁvutā.


節身慎言 守摂其心
捨恚行道 忍辱最強


身(しん)に節(せつ)し言(ごん)を慎(つつし)み、其(その)心(しん)を守摂(しゅしょう)し、
恚(い)を捨(す)て道(どう)を行(ぎょう)ぜよ、忍辱(にんにく)は最(もっと)も強(つよ)し。


※身に節し言を慎み:我が身を保ち言葉を慎み
※心を守摂し:心を守りおさめて
※恚を捨て道を行ぜよ:怒りを捨て仏の道を修行せよ
※忍辱:屈辱や苦しみを耐え忍ぶ


[11]106頁、[19]148頁




18章 汚れの章

Chapter XVIII. Impurity
18. malavagga
18章 塵垢品


(235)


汝は今や枯葉のように、閻魔の使者が汝の傍に近づく、汝は今や死別の門に立つ、しかし汝に旅路の資糧もない。


Thou art now like a sear leaf, the messengers of death (Yama) have come near to thee; thou standest at the door of thy departure, and thou hast no provision for thy journey.


paṇḍupalāsova dānisi, yamapurisāpi ca te upaṭṭhitā; uyyogamukhe ca tiṭṭhasi, pātheyyampi ca te na vijjati.


(237)


汝は齢すでに尽き、閻魔の傍に立つ、しかしその途上に、汝の安らげる場所はない、汝に旅路の資糧もない。


Thy life has come to an end, thou art come near to death (Yama), there is no resting- place for thee on the road, and thou hast no provision for thy journey.


upanītavayo ca dānisi, sampayātosi yamassa santikaṁ; vāso te natthi antarā, pātheyyampi ca te na vijjati.


(235)(237)


生無善行 死墮悪道
住疾無間 到無資用


生(い)きて善行(ぜんぎょう)無(な)くんば、死(し)して悪道(あくどう)に墮(だ)せん、
住(ゆ)くこと疾(はや)くして間(いとま)無(な)く、到(いた)るに資用(しよう)無(な)からん。


※墮:おちる
※住くこと疾くして間無く:生涯は瞬く間に過ぎて少しの暇も無く
※到るに資用無からん:死を前にしても何の心構えも準備もない


[11]43頁、[17]190頁、[21]274頁、[22]199頁200頁、[24]92頁、[27]37頁


(236)


汝自らの島を造れ、速やかに勤めよ、賢者であれ、汚れを除き穢れなき者は、天の聖地に赴くであろう。


Make thyself an island, work hard, be wise! When thy impurities are blown away, and thou art free from guilt, thou wilt enter into the heavenly world of the elect (Ariya).


so karohi dīpamattano, khippaṁ vāyama paṇḍito bhava; niddhantamalo anaṁgaṇo, dibbaṁ ariyabhūmiṁ upehisi.


(238)


汝自らの島を造れ、速やかに勤めよ、賢者であれ、過ちを除き汚れなき者は、再び生と老に近づくことがない。


Make thyself an island, work hard, be wise! When thy impurities are blown away, and thou art free from guilt, thou wilt not enter again into birth and decay.


so karohi dīpamattano, khippaṁ vāyama paṇḍito bhava; niddhantamalo anaṁgaṇo, na punaṁ jātijaraṁ upehisi.


(236)(238)


当求智慧 以然意定
去垢勿汚 可離苦形


当(まさ)に智慧(ちえ)を求(もと)めて、以(もっ)て意定(いじょう)を然(もや)すべし、
垢(く)を去(さ)りて汚(けが)れ勿(な)くんば、苦形(くぎょう)を離(はな)る可(べ)し。


※意定を然すべし:禅定の炎を燃やすべし
※垢:あか
※苦形:苦しみの状態


[02]274頁、[09]203頁、[11]44頁、[15]219頁、[17]191頁、[22]200頁、[24]92頁、[27]40頁


(239)


賢者は順次にだんだんと、一刹那一刹那ごとに、己の汚れを除くべし、鍛冶工が銀の汚れを除くように。


Let a wise man blow off the impurities of his self, as a smith blows off the impurities of silver one by one, little by little, and from time to time.


anupubbena medhāvī, thokaṁ thokaṁ khaṇe khaṇe; kammāro rajatasseva, niddhame malam attano.


慧人以漸 安徐精進
洗除心垢 如工錬金


慧人(えにん)は漸(ぜん)を以(もっ)て、安徐(あんじょ)、精進(しょうじん)して、
心垢(しんく)を洗除(せんじょ)す、工(く)の金(こん)を練(ね)るが如(ごと)し。


※慧人:智慧者
※漸:少しずつ、だんだんと
※安徐:穏やかに
※精進:仏道修行にはげむ
※心垢:心のあか
※工の金を練る:鍛工が銀の垢を取り除くように


[04]182頁、[06]101頁、[11]59頁、[15]180頁、[17]193頁、[21]276頁、[25]148頁、[27]42頁


(240)


鉄より生じる錆は、鉄より生じて正に鉄を腐食する、このように不浄の行者は、自の業によって地獄に導く。


As the impurity which springs from the iron, when it springs from it, destroys it; thus do a transgressor's own works lead him to the evil path.


ayasā va malaṁ samuṭṭhitaṁ, tatuṭṭhāya tameva khādati; evaṁ atidhonacārinaṁ, sāni kammāni nayanti duggatiṁ.


悪生於心 還自壞形
如鉄生垢 反食其身


悪(あく)は心(こころ)に生(しょう)じて、還(かえ)って自(みずか)ら形(かたち)を壊(こわ)す、
鉄(てつ)の垢(く)を生(しょう)じて、反(かえ)って其(その)身(み)を食(しょく)するが如(ごと)し。


※自ら形:自分自身の心と身体
※鉄の垢を生じて:鉄はみずから錆を生じて
※其身を食する:鉄自身を腐食させる


[02]280頁、[05]62頁、[06]100頁、[08]39頁、[09]60頁、[11]59頁、[13]6頁、[14]233頁、[15]112頁、[19]179頁、[21]278頁、[26]19頁、[27]42頁


(241)


読誦しないのを聖典の汚れとし、修繕しないのを家の汚れとし、だらしない身なりを容姿の汚れとし、仏道にはげまないのを守護者の汚れとする。


The taint of prayers is non-repetition; the taint of houses, non-repair; the taint of the body is sloth; the taint of a watchman, thoughtlessness.


asajjhāyamalā mantā, anuṭṭhānamalā gharā; malaṁ vaṇṇassa kosajjaṁ, pamādo rakkhato malaṁ.


不誦為言垢 不勤為家垢
不厳為色垢 放逸為事垢


誦(じゅ)せ不(ざ)るを言(ごん)の垢(く)と為(な)し、勤(つと)め不(ざ)るを家(いえ)の垢(く)と為(な)し、
厳(ごん)なら不(ざる)を色(しき)の垢(く)と為(な)し、放逸(ほういつ)なるを事(じ)の垢(く)と為(な)す。


※誦せ不るを言の垢:経典を読まないと言葉が汚れ
※勤め不るを家の垢と為し:家の修復や清掃につとめないと家が汚れ
※厳なら不を色の垢と為し:厳格な心を保たないと色欲に侵され
※※放逸なるを事の垢と為す:※仏道にはげまず、なまけると全ての事が汚れる


[05]62頁、[06]104頁、[25]36頁


(242)


不貞を婦女の汚れとし、物惜しみを施す者の汚れとし、悪行を現世でも来世でも汚れとする。


Bad conduct is the taint of woman, greediness the taint of a benefactor; tainted are all evil ways in this world and in the next.


mal’ itthiyā duccaritaṁ, maccheraṁ dadato malaṁ; malā ve pāpakā dhammā, asmiṁ loke paramhi ca.


慳為恵施垢 不善為行垢
今世亦後世 悪法為常垢


慳(けん)を恵施(えせ)の垢(く)と為(な)し、不善(ふぜん)を行(ぎょう)の垢(く)と為(な)し、
今世(こんぜ)にも亦(また)後世(ごせ)にも、悪法(あくほう)を常(つね)の垢(く)と為(な)す。


※慳を恵施の垢:物惜しみを恵み施しの垢
※不善を行:よくない行いを修行の垢
※今世にも亦後世にも:いまの世にもまたのちの世にも


[06]104頁、[21]280頁、[25]102頁


(243)


無明はこれらの汚れの中でも、最悪の汚れである、比丘たちよ、この汚れを絶って、汚れなき者となれ。


But there is a taint worse than all taints,—ignorance is the greatest taint. O mendicants! throw off that taint, and become taintless!


tato malā malataraṁ, avijjā paramaṁ malaṁ; etaṁ malaṁ pahantvāna, nimmalā hotha bhikkhavo.


垢中三垢 莫甚於癡
学当捨悪 比丘無垢


垢中(くちゅう)の三垢(さんく)は、癡(ち)より甚(はなは)だしきは莫(な)し、
学(まな)ぶもの当(まさ)に悪(あく)を捨(す)つべし、比丘(びく)よ無垢(むく)なれ。


※垢中の三垢:垢の中でも三つの垢(貪欲・瞋恚・愚癡)
※癡:愚癡(ぐち)、愚かで物事の道理を知らない
※比丘よ無垢なれ:修行者よ汚れなき清らかな心であれ


[06]107頁、[21]280頁


(244)


恥知らずで、厚かましく、性悪で、慢心で、図々しく、道徳に背いた者には、生活し易い。


Life is easy to live for a man who is without shame, a crow hero, a mischief-maker, an insulting, bold, and wretched fellow.


sujīvaṁ ahirikena, kākasūrena dhaṁsinā; pakkhandinā pagabbhena, saṁkiliṭṭhena jīvitaṁ.


苟生無恥 如鳥長喙
強顔耐辱 名曰穢生


生(しょう)を苟(いやし)くして恥(はじ)無(な)く、鳥(とり)の如(ごと)く長喙(ちょうけい)に、
強顔(ごうがん)にして辱(にく)を耐(た)えるを、名(な)づけて穢生(えしょう)と曰(い)う。


※生を苟くして恥無く:仮にも人間として生きながら恥の心が無く
※鳥の如く長喙に:鳥(カラス)のように長いくちばしでところかまわず餌をあさるように
※強顔にして辱を耐える:あつかましくて恥知らず
※穢生:穢れた生きかた


[09]112頁、[13]10頁、[18]82頁、[22]123頁、[26]134頁


(245)


しかし恥を知り、常に清浄を求め、執著なく、謙虚に、清らかに生活し、智慧ある人には、生活し難い。


But life is hard to live for a modest man, who always looks for what is pure, who is disinterested, quiet, spotless, and intelligent.


hirīmatā ca dujjīvaṁ, niccaṁ sucigavesinā; alīnenāppagabbhena, suddhājīvena passatā.


廉恥雖苦 義取清白
避辱不妄 名曰潔生


廉恥(れんち)は苦(く)なりと雖(いえど)も、義(ぎ)は清白(しょうびゃく)を取(と)り、
辱(にく)を避(さ)けて妄(もう)なら不(ざ)るを、名(な)づけて潔生(けっしょう)と曰(い)う。


※廉恥は苦なり:こころ清らかで恥を知ることは苦しみなり
※義は清白を取り:人としての道は清廉潔白を得る 
※辱:恥
※妄:うそ、いつわり
※潔生:清く正しい生き方


[09]172頁、[13]11頁、[14]236頁、[22]124頁、[26]134頁


(246)


動物を殺し、妄語を語り、世の中に於いて与えられない物を取り、他人の婦人を犯す。


He who destroys life, who speaks untruth, who in this world takes what is not given him, who goes to another man's wife;


yo pāṇamatipāteti, musāvādañca bhāsati; loke adinnamādiyati, paradārañca gacchati.


愚人好殺 言無誠実
不与而取 好犯人婦


愚人(ぐにん)は殺(せつ)を好(この)み、言(ごん)に誠実(じょうじつ)無(な)く、
与(あた)え不(ざ)るを而(しか)も取(と)り、好(この)んで人(ひと)の婦(ふ)を犯(おか)す。


※殺:殺生
※言:言葉
※与え不るを而も取り:人に与えることなくしかも他人の物を取る
※人の婦:他人の婦人


[08]30頁、[11]62頁、[13]12頁、[14]72頁、[15]108頁、[21]282頁、[22]67頁


(247)


窣羅(スーラ、穀物酒)、迷麗耶(メーラヤ、果実酒)に飲み耽るならば、現世に於いて既に彼は己の根元を掘るものである。


And the man who gives himself to drinking intoxicating liquors, he, even in this world, digs up his own root.


surāmerayapānañ ca, yo naro anuyuñjati; idheva meso lokasmiṁ, mūlaṁ khaṇati attano.


逞心犯戒 迷惑於酒
斯人世世 自掘身本


心(こころ)を逞(たくまし)くして戒(かい)を犯(おか)し、酒(さけ)に迷惑(めいわく)す、
斯(この)人(ひと)世世(よよ)に、自(みずか)ら身(み)の本(もと)を掘(ほ)る。


※心を逞くして:心を思いのままにして
※戒:戒律
※酒に迷惑す:酒に酔って迷惑をかける
※斯人世世に:このような人はこの世もあの世も
※身の本を掘る:墓穴を掘る


[08]22頁30頁、[11]62頁、[13]12頁、[14]72頁、[15]108頁、[17]194頁、[21]282頁、[22]67頁


(248)


人よ、このように知れ、自制しないのは悪なり、貪欲と不正とにより永く自らを苦しめ、害うなかれ。


O man, know this, that the unrestrained are in a bad state; take care that greediness and vice do not bring thee to grief for a long time!


evaṁ bho purisa jānāhi, pāpadhammā asaññatā; mā taṁ lobho adhammo ca, ciraṁ dukkhāya randhayuṁ.


人如学是 不当念悪
愚近非法 久自焼没


人(ひと)如(も)し是(これ)を学(さと)らば、当(まさ)に悪(あく)を念(ねん)ずべから不(ず)、
愚(ぐ)なれば非法(ひほう)に近(ちか)づき、久(ひさ)しく自(みずか)ら焼没(しょうぼつ)す。


※念:心に思う
※愚なれば非法に近づき:愚か者は法にはずれることに近づき 
※焼没す:焼き滅ぼす


[11]62頁、[13]30頁


(249)


人は信じる所に従い、喜ぶ所に従い施す、もし自分の得た飲食の施しが他人の施しよりも、少なく粗末であると、不満を懐くならば、昼も夜も彼は心の安定を得られない。


The world gives according to their faith or according to their pleasure: if a man frets about the food and the drink given to others, he will find no rest either by day or by night.


dadāti ve yathāsaddhaṁ, yathāpasādanaṁ jano; tattha yo ca maṅku bhavati, paresaṁ pānabhojane; na so divā vā rattiṁ vā, samādhim adhigacchati.


若信布施 欲揚名誉
会人虚飾 非入浄定


若(も)し信(しん)の布施(ふせ)して、名誉(めいよ)を揚(あ)げんと欲(ほっ)し、
人(ひと)の虚飾(きょしょく)に会(え)せば、浄定(じょうじょう)に入(い)るに非(あら)ず。


※信の布施して:信心による布施をしても
※名誉を揚げんと欲し:自分の名誉をあげようと求め
※人の虚飾に会せば:人の前では外見だけ飾り見栄を張れば
※浄定:禅定


[03]184頁205頁、[08]193頁、[17]107頁、[17]195頁、[21]284頁


(250)


もし人がこの不満を断ち、根絶して、除去したならば、昼も夜も彼は心の安定を得られる。


He in whom that feeling is destroyed, and taken out with the very root, finds rest by day and by night.


yassa c’ etaṁ samucchinnaṁ, mūlaghaccaṁ samūhataṁ; sa ve divā vā rattiṁ vā, samādhim adhigacchati.


一切断欲 截意根原
昼夜守一 必入定意


一切(いっさい)の欲(よく)を断(た)ち、意(こころ)の根原(こんげん)を截(き)り、
昼夜(ちゅうや)に一(いち)を守(まも)らば、必(かなら)ず定意(じょうい)に入(はい)らん。


※欲:欲心
※意の根原を截り:こころの迷いの根源を切り
※一を守らば:一心に(仏道を)守れば
※定意:禅定の心


[03]184頁


(251)


貪欲に等しい火はなく、瞋恚に等しい執着はなく、愚癡に等しい網はなく、愛欲に等しい河はない。


There is no fire like passion, there is no shark like hatred, there is no snare like folly, there is no torrent like greed.


n’ atthi rāgasamo aggi, n’ atthi dosasamo gaho; n’ atthi mohasamaṁ jālaṁ, n’ atthi taṇhāsamā nadī.


火莫熱於婬 捷莫疾於怒
網莫密於癡 愛流駛乎河


火(ひ)は婬(いん)より熱(あつ)きは莫(な)く、捷(はや)きは怒(いかり)より疾(はや)きは莫(な)く、
網(あみ)は癡(ち)より密(みつ)なるは莫(な)く、愛(あい)の流(ながれ)は河(かわ)より駛(はや)し乎(かな)。


※火は婬より熱きは莫く:みだらな欲より熱い火はなく
※捷きは怒より疾きは莫く:怒りの心よりはやいものはなく
※網は癡より密なるは莫く:愚癡より細かい網目はなく
※愛の流は河より駛し乎:愛欲の流れは河よりはやしかな


[07]88頁、[08]56頁、[21]286頁


(252)


他人の過失は見易いけれど、自分の過失は見難い、他人の過失は、籾殻のようにまき散らすが、自分の過失は覆い隠す、狡猾なる博徒が不利な骰子の目を隠すように。


The fault of others is easily perceived, but that of oneself is difficult to perceive; a man winnows his neighbour's faults like chaff, but his own fault he hides, as a cheat hides the bad die from the gambler.


sudassaṁ vajjam aññesaṁ, attano pana duddasaṁ; paresaṁ hi so vajjāni, opunāti yathā bhusaṁ; attano pana chādeti, kaliṁva kitavā saṭho.


善観自瑕隙 使己不露外
彼々自有隙 如彼飛軽塵


善(よ)く自(おの)が瑕隙(かげき)を観(かん)じて、己(おのれ)をして外(そと)に露(あら)われ不(ざ)ら使(し)めよ、
彼々(ひひ)に自(おのずか)ら隙(すき)有(あ)り、彼(か)の軽塵(けいじん)を飛(と)ばすが如(ごと)し。


※善く自が瑕隙を観じて:よくよく自らの過失をありのままに観て
※己をして外に露われ不ら使めよ:自ら思うままに世間に露呈してはならない
※彼々に自ら隙有り:誰にでも自らの過失は有り
※彼の軽塵を飛ばす:他人の過失を塵が舞い上がるように暴き立てる


[02]286頁、[04]90頁、[05]64頁、[14]165頁、[15]28頁、[17]197頁、[19]11頁、[21]288頁、[23]121頁、[25]150頁


(253)


もし人が他人の過失を探して、常に軽蔑すれば、彼の心の穢れは増大する、心の穢れは消滅から遠く離れている。


If a man looks after the faults of others, and is always inclined to be offended, his own passions will grow, and he is far from the destruction of passions.


paravajjānupassissa, niccaṁ ujjhānasaññino; āsavā tassa vaḍḍhanti, ārā so āsavakkhayā.


若己称無瑕 罪福倶幷至
但見外人隙 恆懐危害心


若(も)し己(おのれ)を無瑕(むげ)と称(しょう)せば、罪福(ざいふく)倶(とも)に幷(なら)び至(いた)る、
但(た)だ外人(げにん)の隙(すき)を見(み)ば、恆(つね)に危害(きがい)の心(こころ)懐(いだ)く。


※己を無瑕と称せば:自分には過失はないと言えば
※罪福倶に幷び至る:罪悪と福徳が共に加わる
※外人の隙を見ば:他人の過失を見つけ出して
※恆に危害の心懐く:常に相手に危害を加える心をいだく


[17]198頁


(254)


虚空に鳥の足跡なく、外道(仏の道以外)に沙門なく、愚か者は戯論を楽しむ、如来は戯論しない。


There is no path through the air, a man is not a Samana by outward acts. The world delights in vanity, the Tathagatas (the Buddhas) are free from vanity.


akāse ca padaṁ n’ atthi, samaṇo n’ atthi bāhire; papañcābhiratā pajā, nippapañcā tathāgatā.


虚空無轍跡 沙門無外意
衆人尽楽悪 唯仏浄無穢


虚空(こくう)に轍跡(てっせき)無(な)く、沙門(しゃもん)に外意(げい)無(な)し、
衆人(しゅうにん)尽(ことごと)く悪(あく)を楽(たの)しみ、唯(た)だ仏(ほとけ)のみ浄(きよく)して穢(けが)れ無(な)し。


※虚空に轍跡無く:大空に車輪の跡は残らず
※沙門に外意無し:修行者に外道のこころ無し


[10]195頁、[10]205頁、[14]165頁、[15]150頁、[17]199頁


(255)


虚空に鳥の足跡はなく、外道(仏の道以外)に沙門はなく、有為(因縁により作られた一切の現象、諸行)に常住はなく、ブッダに動揺はない。


There is no path through the air, a man is not a Samana by outward acts. No creatures are eternal; but the awakened (Buddha) are never shaken.


akāse ca padaṁ n’ atthi, samaṇo n’ atthi bāhire; saṁkhārā sassatā n’ atthi, n’ atthi buddhānam iñjitaṁ.


虚空無轍跡 沙門無外意
世間皆無常 仏無我所有


虚空(こくう)に轍跡(てっしゃく)無(な)く、沙門(しゃもん)に外意(げい)無(な)し、
世間(せけん)は皆(みな)無常(むじょう)なり、佛(ほとけ)のみ我(が)の所有(しょう)無(な)し。


※虚空に轍跡無く:大空に車輪の跡は残らず
※沙門に外意無し:修行者に外道のこころ無し


[02]293頁、[03]196頁、[10]206頁




19章 真理に生きる章

XIX. 1. The Unjust Judges
19. dhammaṭṭhavagga
19章 奉持品


(256)


性急に物事を決めるのは正しくない、智慧者は正義と不正義との両面を見極めよ。


Not therefore is a man called a justice because he decides a cause arbitrarily; Nay rather is it he that inquires into both right and wrong, he that is wise.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


na tena hoti dhammaṭṭho, yenatthaṁ sāhasā naye; yo ca atthaṁ anatthañca, ubho niccheyya paṇḍito.


好経道者 不競於利
有利無利 無欲不惑


経道(きょうどう)を好(この)む者(もの)は、利(り)を競(きそ)わ不(ず)、
有利(うり)と無利(むり)とに、欲(よく)無(な)くして惑(まど)わ不(ず)、


※経道:経典に示された解脱の道
※利を競わ不:利益を争わない
※有利と無利とに:利益が有ろうと無かろうと


[03]188頁


(257)


性急に判断せず、公平に他人を導き、正義を守り聡明である、これが教えを実践する者といわれる。


He that leads others without violence, justly and righteously, He that is protected of the Law, he that is intelligent, he alone is properly called a justice.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


asāhasena dhammena, samena nayatī pare; dhammassa gutto medhāvī, “dhammaṭṭho” ti pavuccati.


常愍好学 正心以行
擁懐宝慧 是謂為道


常(つね)に好学(こうがく)を愍(あわ)れみ、心(こころ)を正(ただ)しく以(もっ)て行(ぎょう)じ、
宝慧(ほうえ)を擁懐(ようえ)する、是(これ)を道(どう)の為(な)すと謂(い)う。


※好学を愍れみ:学ぶことに心がけ
※宝慧を擁懐する:宝の智慧を守りいだく
※道の為す:仏の道を修める


[17]204頁、[21]294頁


(258)


多く説くのみでは智慧者にあらず、穩かに、憎みなく、恐れなきものが智慧者といわれる。


A man is not learned because he talks much; he who is patient, free from hatred and fear, he is called learned.


na tena paṇḍito hoti, yāvatā bahu bhāsati; khemī averī abhayo, paṇḍito ti pavuccati.


所謂智者 不必弁言
無恐無懼 守善為智


謂(い)う所(ところ)に智者(ちしゃ)とは、必(かなら)ずしも弁言(べんごん)なら不(ず)、
恐(おそ)れ無(な)く懼(おそ)るる無(な)く、善(ぜん)を守(まも)るを智(ち)と為(な)す。


※弁言:口数が多い


[17]205頁、[18]106頁、[21]296頁、[23]206頁、[24]176頁


(259)


多く説くのみでは教えを保つ者にならず、たとえ少なく教えを聞いても、身をもってこれを修得すれば、実に教えを保つ者になる。彼は教えを疎かにしない。


A man is not a supporter of the law because he talks much; even if a man has learnt little, but sees the law bodily, he is a supporter of the law, a man who never neglects the law.


na tāvatā dhammadharo, yāvatā bahu bhāsati; yo ca appam pi sutvāna, dhammaṁ kāyena passati; sa ve dhammadharo hoti, yo dhammaṁ nappamajjati.


奉持法者 不以多言
雖素少聞 身依法行
守道不忘 可謂奉法


法(ほう)を奉持(ぶじ)する者(もの)は、多言(たごん)を以(もっ)てせ不(ず)、
素(もと)少(すこ)しく聞(き)くと雖(いえど)も、身(み)は法(ほう)に依(よ)りて行(ぎょう)じ、
道(どう)を守(まも)りて忘(わす)れ不(ざ)るは、法(ほう)を奉(ほう)ずると謂(い)う可(べ)し。


※法を奉持:仏法を大切にうけたまわる
※多言:口数が多い
※素少しく聞く:もとから少ししか聞かない
※法を奉ずる:仏法をうけたまわる


[17]206頁


(260)


頭髪が白くなっても長老にならず、年を取っただけなら、空しく老いぼれた人といわれる。


A man is not an elder because his head is grey; his age may be ripe, but he is called `Old-in-vain.'


na tena thero so hoti, yenassa palitaṁ siro; paripakko vayo tassa, moghajiṇṇo ti vuccati.


所謂長老 不必年耆
形熟髪白 惷愚而已


謂(い)う所(ところ)の長老(ちょうろう)とは、必(かなら)ずしも年(とし)の耆(お)いるにあら不(ず)、
形(かたち)熟(じゅく)し髪(かみ)白(しろ)きは、而(しか)も惷愚(しゅんぐ)なる已(のみ)。


※惷愚なる已:愚かに老いぼれただけ


[02]300頁、[06]217頁、[09]68頁、[11]178頁、[13]40頁、[14]187頁、[15]154頁、[17]208頁、[24]176頁、[25]214頁、[26]182頁


(261)


真実と法(真理)と不害と慎みと自御あり、彼こそすでに汚れを吐き出した長老といわれる。


He in whom there is truth, virtue, love, restraint, moderation, he who is free from impurity and is wise, he is called an elder.


yamhi saccañ ca dhammo ca ahiṁsā saṁyamo damo sa ve vantamalo dhīro thero iti pavuccati.


謂懐諦法 順調慈仁
明達清潔 是為長老


諦法(たいほう)を懐(いだ)き、順調(じゅんちょう)・慈仁(じにん)、明達(みょうだつ)・清潔(しょうけつ)なるを謂(い)いて、是(これ)を長老(ちょうろう)と為(な)す。


※諦法:真なる仏法
※順調:心は乱れず滞りなく
※慈仁:慈しみ情け深い
※明達:物事を明確に理解する
※清潔:清らかで穢れがない


[11]178頁、[14]187頁、[17]209頁、[24]176頁、[26]182頁


(262)


ただ口先だけにより、ただ美しい容姿により、嫉妬、物惜しみ、媚びへつらう人は善人ではない。


An envious greedy, dishonest man does not become respectable by means of much talking only, or by the beauty of his complexion.


na vākkaraṇamattena, vaṇṇapokkharatāya vā; sādhurūpo naro hoti, issukī maccharī saṭho.


所謂端正 非色如花
慳嫉虚飾 言行有違


謂(い)う所(ところ)の端正(たんじょう)とは、色(しき)は花(はな)の如(ごと)くなるも、
慳嫉(けんしつ)、虚飾(きょしょく)、言行(ごんぎょう)に違(あやま)り有(あ)るに非(あら)ず。


※謂う所の端正とは:いわゆる正しい人とは
※色は花の如くなるも:ただ容姿が花のように美しくても
※慳嫉:物惜しみやねたみ
※虚飾:見栄を張る
※言行に違り有るに非ず:言動行動にあやまりが有る人は正しい人にあらず


[17]210頁、[19]144頁、[21]298頁


(263)


もし人これらを断ち、根絶して、除去すれば、すでに怒りを吐き出した長老といわれる。


He in whom all this is destroyed, and taken out with the very root, he, when freed from hatred and wise, is called respectable.


yassa c’ etaṁ samucchinnaṁ, mūlaghaccaṁ samūhataṁ; sa vantadoso medhāvī, sādhurūpo ti vuccati.


謂能捨悪 根原已断
慧而無恚 是謂端正


能(よ)く悪(あく)を捨(す)て、根原(こんげん)已(すで)に断(た)ち、
慧(え)にして而(しか)も恚(しん)無(な)き謂(い)いて、是(これ)を端正(たんじょう) と謂(い)う。


※根原:迷いのもと
※恚:いかり
※端正:正しい人


[17]211頁、[21]298頁


(264)


頭を剃っていても、戒律を守らず、妄語すれば、沙門ではない、欲と貪りを備えたものが、どうして沙門であろうか。


Not by tonsure does an undisciplined man who speaks falsehood become a Samana; can a man be a Samana who is still held captive by desire and greediness?


na muṇḍakena samaṇo abbato alikaṁ bhaṇaṁ; icchālobhasamāpanno samaṇo kiṁ bhavissati.


所謂沙門 非必除髪
妄語貪取 有欲如凡


謂(い)う所(ところ)の沙門(しゃもん)とは、必(かなら)ずしも髪(かみ)を除(のぞ)くに非(あら)ず、
妄語(もうご)、貪取(とんしゅ)して、欲(よく)有(あ)らば凡(ぼん)の如(ごと)し。


※沙門:修行者
※髪を除く:剃髪する
※妄語:うそをつく
※貪取:欲の為にむさぼり取る
※凡:凡人


[14]153頁、[17]213頁、[21]300頁、[23]40頁、[24]178頁、[27]81頁


(265)


もし大小すべての罪を止めれば、諸々の罪を鎮め滅ぼしたのであるから、沙門といわれる。


He who always quiets the evil, whether small or large, he is called a Samana (a quiet man), because he has quieted all evil.


yo ca sameti pāpāni, aṇuṁthūlāni sabbaso; samitattā hi pāpānaṁ, samaṇo ti pavuccati.


謂能止悪 恢廓弘道
息心滅意 是為沙門


能(よ)く悪(あく)を止(や)め、恢廓(かいかく)弘道(くどう)に
心(こころ)を息(や)め意(こころ)を滅(めっ)するを謂(い)って、是(これ)を沙門(しゃもん)と為(な)す。


※恢廓:こころをおおきく
※弘道に:仏道を広め
※心を息め意を滅する:心を鎮め邪念の意識を滅する


[21]300頁


(266)


他人に食べ物を乞う(托鉢する)から比丘ではない、凡夫の生活に従えば比丘ではない。


A man is not a mendicant (Bhikshu) simply because he asks others for alms; he who adopts the whole law is a Bhikshu, not he who only begs.


na tena bhikkhu so hoti, yāvatā bhikkhate pare; vissaṁ dhammaṁ samādāya, bhikkhu hoti na tāvatā.


所謂比丘 非時乞食
邪行婬彼 称名而已


謂(い)う所(ところ)の比丘(びく)は、時(とき)に食(じき)を乞(こう)に非(あら)ず、
邪行(じゃぎょう)の彼(かれ)を婬(いん)せば、名(な)を称(しょう)する已(のみ)なり。


※比丘:修行者
※時に食を乞に非ず:食事時に托鉢することではない
※邪行の彼を婬せば:行いがよこしまで他人の妻とみだらにふければ
※名を称する已なり:名ばかりで真の修行者ではない


[17]214頁、[21]302頁、[22]77頁


(267)


もし俗世間に於ける善悪を離れて、清らかな行いで、慎重にして世間を行けば真の比丘といわれる。


He who is above good and evil, who is chaste, who with knowledge passes through the world, he indeed is called a Bhikshu.


yodha puññañca pāpañca bāhetvā brahmacariyavā saṁkhāya loke carati sa ve bhikkhū ti vuccati.


謂捨罪福 浄修梵行
慧能破悪 是為比丘


罪福(ざいふく)を捨(す)てて、浄(きよ)く梵行(ぼんぎょう)を修(しゅう)し、
慧(え)をもて能(よ)く悪(あく)を破(やぶ)るを謂(い)いて、是(これ)を比丘(びく)と為(な)す。


※罪福を捨て:罪悪と福徳を捨て、俗世間の善悪から離れる
※梵行:仏道修行
※慧:智慧


[17]215頁、[21]302頁、[22]78頁


(268)


ただ黙っているだけで、愚かで無智であるならば、聖者ではない、智慧者は秤に掛けるように、善を取る。


Not because of silence is a man a sage, if he be foolish and ignorant. But the wise man who takes to himself truth, even as one grasps a pair of scales,
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


na monena munī hoti mūḷharūpo aviddasu yo ca tulaṁva paggayha varamādāya paṇḍito.


所謂仁明 非口不言
用心不浄 外順而已


謂(い)う所(ところ)の仁明(にんみょう)とは、口(くち)に言(い)わ不(ざ)るに非(あら)ず、
心(こころ)を用(もち)うるに浄(きよ)から不(ず)んば、外順(げじゅん)なる已(のみ)。


※仁明:慈しみあり聡明な人、賢者
※口に言わ不るに非ず:外見だけ口数少なく黙っているのではない
※外順なる已:外道(誤った道)に従うのみ


[08]82頁、[09]144頁、[15]146頁、[16]64頁


(269)


そして諸々の悪を避ければ、この聖者こそ真の聖者である、もしこの世に於いて善と悪の両方を理解すれば、それにより聖者といわれる。


And rejects those things that are evil, such a man is a sage, and for this reason is a sage. He that understands both worlds is therefore called a sage.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


pāpāni parivajjeti sa munī tena so muni, yo munāti ubho loke muni, tena pavuccati.


謂心無為 内行清虚
此彼寂滅 是為仁明


心(こころ)を無為(むい)にして、内(うち)に清虚(しょうこ)を行(ぎょう)じ、
此彼(しひ)に寂滅(じゃくめつ)なるを謂(い)いて、是(これ)を仁明(にんみょう)と為(な)す。


※無為:現世を超越した絶対不変の境地
※清虚:心が清らかで汚れなどがまったくないこと
※此彼に寂滅なる:この世もあの世もこころ静まり悟りの境地となる
※仁明:慈しみあり聡明な人、賢者


[08]82頁、[09]145頁、[16]65頁


(270)


生きものを害するから阿梨耶(アリヤ、聖者)ではない、一切の生きものを害さないことで、阿梨耶といわれる。


A man is not an elect (Ariya) because he injures living creatures; because he has pity on all living creatures, therefore is a man called Ariya.


na tena ariyo hoti yena pāṇāni hiṁsati, ahiṁsā sabbapāṇānaṁ ariyo ti pavuccati.


所謂有道 非救一物
普済天下 無害為道


謂(い)う所(ところ)の有道(うどう)とは、一物(いちもつ)を救(すく)うに非(あら)ず、
普(あまね)く天下(てんげ)を済(すく)いて、害(がい)する無(な)きを道(どう)と為(な)す。


※有道:仏道修行にはげむ者
※一物:一つのものだけ
※普く天下:この世の中のすべて
※道:仏の道


[14]75頁、[16]123頁、[17]218頁、[21]304頁、[23]64頁


(271)


ただ禁戒のよるものでなく、博学によるものでなく、心の安定を得たからでなく、或いは一人離れて臥すからでもない。


Not merely because of religious practices, nor yet because of much learning, Neither because of attainment of Tranquillity, nor because of living solitary and remote,


(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


na sīlabbatamattena bāhusaccena vā pana, atha vā samādhilābhena vivittasayanena vā.


戒衆不言 我行多誠
得定意者 要由閉損


戒(かい)は衆(おお)きを言(い)わ不(ず)、我(われ)は誠(まこと)多(おお)きを行(ぎょう)ず、
定意(じょうい)を得(え)る者(もの)は、要(かなら)ず閉損(へいそん)に由(よ)る。


※戒は衆きを言わ不:戒律が多いと不満を言わず
※定意:心の安定、禅定の心
※閉損:一人で閑静なところに住む


[21]306頁


(272)


我は凡夫の味わうことの出来ない、出離の楽しみに触れる、修行者よ、未だ心の中の穢れを、滅尽しないうちは、気を許すな。


Win I the Bliss of Release, incapable of attainment by worldlings. Monk, rest not content until thou hast attained Destruction of the Depravities.
(Burlingame, Eugene Watson. Buddhist Legends)


phusāmi nekkhammasukhaṁ, aputhujjanasevitaṁ; bhikkhu vissāsamāpādi appatto āsavakkhayaṁ.


意解求安 莫習凡人
使結未尽 莫能得脱


意(こころ)解(さと)り安(やす)きを求(もと)めば、凡人(ぼんにん)に習(なら)うこと莫(な)し、
使結(しけつ)未(いま)だ尽(つ)きずんば、能(よ)く脱(だつ)を得(う)ること莫(な)けん。


※解り安き:理解と安心
※凡人に習うこと莫し:一般人に見習おうとしない
※使結:煩悩
※脱:解脱、悟りの境地


[10]64頁、[21]306頁




20章 道の章

Chapter XX. The Way
20. maggavagga 
20章 道行品


(273)


諸々の道の中では八正道が勝れ、諸々の真理の中に於いては四聖諦が勝れ、諸々の行の中に於いては離欲が勝れ、人間の中に於いては仏陀が最も勝れている。


The best of ways is the eightfold; the best of truths the four words; the best of virtues passionlessness; the best of men he who has eyes to see.


maggān’ aṭṭhaṅgiko seṭṭho saccānaṁ caturo padā, virāgo seṭṭho dhammānaṁ dvipadānañca cakkhumā.


道為八直妙 聖諦四句上
無欲法之最 明眼二足尊


道(どう)は八直(はちじき)を妙(みょう)と為(な)し、聖諦(しょうたい)は四句(しく)を上(じょう)とし、
無欲(むよく)は法(ほう)之(の)最(さい)にして、明眼(めいがん)は二足(にそく)の尊(そん)なり。


※道は八直:八つの正なる道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)
※妙:すぐれている
※聖諦:聖なる真理
※四句:四聖諦 (苦諦・集諦・滅諦・道諦)
※上:最上
※法:仏法
※最:最高
※明眼:仏陀、(物事の真実を明らかに見通せる心の眼)を持つ者
※二足の尊:人間の中で最上の尊者


[03]200頁、[04]186頁、[11]50頁、[17]224頁、[21]312頁、[22]187頁、[25]222頁


(274)


これは即ち正しい思想の道であり、他の道はない、汝らこの道を進め、これは魔王を幻惑させる。


This is the way, there is no other that leads to the purifying of intelligence. Go on this way! Everything else is the deceit of Mara (the tempter).


es’ eva maggo n’ atth’ añño dassanassa visuddhiyā, etañhi tumhe paṭipajjatha, mārassetaṁ pamohanaṁ.


此道無有余 見諦之所浄
趣向滅衆苦 此能壊魔兵


此(こ)の道(どう)は余(よ)有(あ)る無(な)し、諦(たい)之(の)浄(きよ)き所(ところ)を見(み)て、
趣向(しゅこう)せば衆苦(しゅく)を滅(めっ)し、此(こ)れ能(よ)く魔兵(まひょう)を壊(やぶ)らん。


※此の道は余有る無し:八正道が有るのみ
※諦:四聖諦 (苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理
※趣向:四聖諦・八正道に注意を向けて進めば
※衆苦:多くの苦しみ
※魔兵を壊らん:悪魔の兵隊を破らん


[08]166頁、[11]50頁、[22]196頁


(275)


汝らこの道を進めば、苦しみを滅尽できる、我はすでに毒矢の抜き取ることを悟り、汝らにこの道を説くものである。


If you go on this way, you will make an end of pain! The way was preached by me, when I had understood the removal of the thorns (in the flesh).


etamhi tumhe paṭipannā dukkhassantaṁ karissatha, akkhāto vo mayā maggo aññāya sallakantanaṁ.


吾已説道 抜愛固刺
宜以自勗 受如来言


吾(われ)已(すで)に道(どう)を説(と)き、愛(あい)の固刺(こし)を抜(ぬ)けり、
宜(よろ)しく以(もっ)て自(みずか)ら勗(つと)めて、如来(にょらい)の言(ごん)を受(う)くべし。


※愛:愛欲
※固刺:かたいとげ
※宜しく以て:そのようにして
※勗めて:努めて
※如来の言:永遠不変の言葉


[04]49頁、[11]51頁、[14]139頁、[15]198頁、[21]314頁


(276)


汝らはすべからく努力せよ、如来はただ説法する者である、思惟して修行する人は、魔王の束縛から逃れる。


You yourself must make an effort. The Tathagatas (Buddhas) are only preachers. The thoughtful who enter the way are freed from the bondage of Mara.


tumhehi kiccam ātappaṁ, akkhātāro tathagata, paṭipannā pamokkhanti jhāyino mārabandhanā.


吾語汝法 愛箭為射
宜以自勗 受如来言


吾(われ)汝(なんじ)に法(ほう)を語(かた)れり、愛箭(あいせん)に射(い)為(ら)ると、
宜(よろ)しく以(もっ)て自(みずか)ら勗(つと)めて、如来(にょらい)の言(ごん)を受(う)くべし。


※法:仏法
※愛箭に射為る:愛欲の矢に射られる
※宜しく以て:そのようにして
※勗めて:努めて
※如来の言:永遠不変の言葉


[10]152頁、[21]314頁、[22]197頁、[25]224頁


(277)


すべての現象は、無常である、(諸行無常)と智慧により観るときは、これによって苦しみを厭い離れる、これが清浄に至る道である。


`All created things perish,' he who knows and sees this becomes passive in pain; this is the way to purity.


“sabbe saṁkhārā aniccā” ti, yadā paññāya passati; atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiyā.


一切行無常 如慧所観察
若能覚此苦 行道浄其跡


一切(いっさい)の行(ぎょう)は無常(むじょう)なり、慧(え)の観察(かんざつ)する所(ところ)の如(ごと)し、
若(も)し能(よ)く此(こ)の苦(く)を覚(さと)らば、行道(ぎょうどう)は其(そ)の跡(あと)を浄(きよ)くす。


※一切の行:すべての事象、現象世界
※無常:諸行無常
※慧:智慧
※行道:修行の道


[04]119頁、[06]197頁、[07]20頁、[08]144頁、[11]137頁、[13]110頁、[14]25頁、[15]90頁、[17]232頁、[21]316頁、[25]190頁、[26]122頁


(278)


すべての現象は、苦しみである、(一切皆苦)と智慧により観るときは、これによって苦しみを厭い離れる、これが清浄に至る道である。


`All created things are grief and pain,' he who knows and sees this becomes passive in pain; this is the way that leads to purity.


“sabbe saṁkhārā dukkhā” ti, yadā paññāya passati; atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiyā.


一切衆行苦 如慧之所見
若能覚此苦 行道浄其跡


一切(いっさい)の衆行(しゅぎょう)は苦(く)なり、慧(え)之(の)見(み)る所(ところ)の如(ごと)し、
若(も)し能(よ)く此(こ)の苦(く)を覚(さと)らば、行道(ぎょうどう)は其(そ)の跡(あと)を浄(きよ)くす。


※一切の衆行:すべての事象、現象世界
※苦:一切皆苦
※慧:智慧
※行道:修行の道


[06]203頁、[07]20頁、[11]138頁、[14]27頁、[26]123頁


(279)


すべての事物は、無我である、(諸法無我)と智慧により観るときは、これによって苦しみを厭い離れる、これが清浄に至る道である。


`All forms are unreal,' he who knows and sees this becomes passive in pain; this is the way that leads to purity.


“sabbe dhammā anattā” ti, yadā paññāya passati; atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiyā.


一切衆行空 如慧之所見
一切行無我 如慧之所見


一切(いっさい)の衆行(しゅぎょう)は空(くう)なり、慧(え)之(の)見(み)る所(ところ)の如(ごと)し、
一切(いっさい)の行(ぎょう)は無我(むが)なり、慧(え)之(の)見(み)る所(ところ)の如(ごと)し、


※一切の行:すべての事象、現象世界
※空:一切皆空
※無我:諸法無我
※慧:智慧


[02]308頁、[04]79頁、[08]147頁、[11]141頁、[14]29頁、[15]194頁、[17]233頁、[21]318頁、[25]166頁、[25]192頁、[26]124頁


(280)


起きるべきときに起きず、若くて、力があるのに、意志も思考も弱くて、おこたり怠けている者は、智慧により道を知ることがない。


He who does not rouse himself when it is time to rise, who, though young and strong, is full of sloth, whose will and thought are weak, that lazy and idle man will never find the way to knowledge.


uṭṭhānakālamhi anuṭṭhahāno, yuvā balī ālasiyaṁ upeto; saṁsannasaṁkappamano kusīto, paññāya maggaṁ alaso na vindati.


応起而不起 恃力不精懃
自陥人形卑 懈怠不解慧


応(まさ)に起(た)つべくして而(しか)も起(た)た不(ず)、力(ちから)を恃(たの)みて精懃(しょうごん)なら不(ず)、
自(みずか)ら人形(にんぎょう)の卑(いやし)きに陥(おちい)り、懈怠(けたい)ならば慧(え)を解(げ)せ不(ず)。


※応に起つべくして而も起た不:まさに奮起すべき時に奮起せず
※力を恃みて精懃なら不:力を頼りに勤め励まず遊びまわり
※人形の卑きに陥り:何もせず無気力の卑しい人間に陥り
※懈怠ならば慧を解せ不:おこたり、なまけていたら仏の智慧を理解できない


[08]169頁、[17]235頁、[21]320頁、[23]99頁


(281)


言葉を慎み、心を護り、身体により不善を造らず、この三行道を清めれば、仏の説いた道を得る。


Watching his speech, well restrained in mind, let a man never commit any wrong with his body! Let a man but keep these three roads of action clear, and he will achieve the way which is taught by the wise.


vācānurakkhī manasā susaṁvuto, kāyena ca nākusalaṁ kayirā; ete tayo kammapathe visodhaye, ārādhaye maggam isippaveditaṁ.


慎言守意念 身不善不行
如是三行除 仏説是得道


言(ごん)を慎(つつし)み意念(いねん)を守(まも)り、身(しん)に不善(ふぜん)を行(ぎょう)ぜ不(ず)、
是(かく)の如(ごと)く三行(さんぎょう)を除(のぞ)かば、仏(ほとけ)は是(こ)れ道(どう)を得(う)ると説(と)けり。


※言:言葉
※意念:こころ
※身に不善を行ぜ不:我が身によくない行いをせず
※三行を除かば:我が身・言葉・こころによる悪行を除けば
※道:仏の道


[14]178頁、[17]236頁、[21]322頁、[22]169頁、[22]171頁


(282)


実に瞑想により智慧が生じ、瞑想しなければ智慧が尽きる、この利益と不利益との二つの道を知り、自ら確立して智慧を増すべし。


Through zeal knowledge is gotten, through lack of zeal knowledge is lost; let a man who knows this double path of gain and loss thus place himself that knowledge may grow.


yogā ve jāyatī bhūri, ayogā bhūrisaṁkhayo; etaṁ dvedhāpathaṁ ñatvā, bhavāya vibhavāya ca, that attānaṁ niveseyya yathā bhūri pavaḍḍhati.


念応急則正 念不応則邪
慧而不起邪 思正道乃成


念(ねん)応(おう)ずれば急(きゅう)に則(すなわ)ち正(ただ)しく、念(ねん)応(おう)ぜ不(ざ)れば則(すなわ)ち邪(じゃ)なり、
慧(え)にして而(しか)も邪(じゃ)を起(おこ)さ不(ず)、正(しょう)を思(おも)えば道(どう)乃(すなわ)ち成(な)る。


※念:仏を思う心
※正:正道(仏の道)
※邪:よこしまな心、邪念
※慧:智慧
※道:仏の道


[11]109頁、[17]237頁、[22]172頁、[25]226頁


(283)


欲望の林を伐れ、一本の樹木だけを伐るなかれ、林より恐れが生じる、林と灌木とを伐って、修行者よ、欲望の尽きた者となれ。


Cut down the whole forest (of lust), not a tree only! Danger comes out of the forest (of lust). When you have cut down both the forest (of lust) and its undergrowth, then, Bhikshus, you will be rid of the forest and free!


vanaṁ chindatha mā rukkhaṁ, vanato jāyate bhayaṁ, chetvā vanañca vanathañ ca nibbanā hotha bhikkhavo.


伐樹勿休 樹生諸悪
断樹尽株 比丘滅度


樹(き)を伐(き)りて休(やす)む勿(なか)れ、樹(き)は諸悪(しょあく)を生(しょう)ず、
樹(き)を断(た)ち株(かぶ)を尽(つく)さば、比丘(びく)よ滅度(めつど)せん。


※樹を伐りて休む勿れ:煩悩の樹木を休まずきりつづけよ
※比丘:修行者
※滅度せん:煩悩はなくなり悟りの境地に渡る


[21]324頁、[25]196頁


(284)


男性が女性に対して、僅かな欲情をも絶たない間は、その男性の心は、束縛されている、あたかも乳を飲む子牛が、母牛を慕うように。


So long as the love of man towards women, even the smallest, is not destroyed, so long is his mind in bondage, as the calf that drinks milk is to its mother.


yāvaṁ〔hi〕vanaho na chijjati aṇumattopi narassa nārisu paṭibaddhamanova tāva so vaccho khīrapakova mātari.


夫不伐樹 少多余親
心繫於此 如犢求母


夫(それ)樹(き)を伐(き)ら不(ず)、少多(しょうた)にも余親(よしん)あり、
心(こころ)此(これ)に繫(かか)らば、犢(こうし)の母(はは)を求(もと)むるが如(ごと)けん。


※夫樹を伐ら不:そもそも煩悩の樹木を全てきらず
※少多にも余親あり:多少は残したいと思う
※心此に繫らば:心がこのような思いにつながれば
※犢の母を求むるが如けん:子牛が母牛の乳を求めて離れないように煩悩はつきまとう


[03]209頁、[17]239頁、[21]324頁、[23]78頁


(285)


自己の愛執を断て、秋の蓮を手で断ち切るように、静けさの道を求めよ、仏陀は悟りの境地を説かれた。


Cut out the love of self, like an autumn lotus, with thy hand! Cherish the road of peace. Nirvana has been shown by Sugata (Buddha).


ucchinda sineham attano kumudaṁ sāradikaṁva pāṇinā, santimaggameva brūhaya nibbānaṁ sugatena desitaṁ.


当自断恋 如秋池蓮
息跡受教 仏説泥洹


当(まさ)に自(みずか)ら恋(こい)を断(たつ)こと、秋(あき)池(いけ)の蓮(はす)の如(ごと)くすべし、
跡(あと)を息(や)め教(おしえ)を受(う)けよ、仏(ほとけ)は泥洹(ないおん)を説(と)けよ。


※恋:恋愛
※秋池の蓮の如くすべし:秋の池の枯れた蓮を全て取り除くようにする
※跡を息め:跡を残さず
※泥洹:涅槃、悟りの境地


[24]71頁


(286)


雨季にはここに住もう、冬にはここに、夏にはここに住もう、このように愚な者は、思惟して、死が迫っていることを覚らない。


`Here I shall dwell in the rain, here in winter and summer,' thus the fool meditates, and does not think of his death.


idha vassaṁ vasissāmi idha hemantagimhisu iti bālovicinteti antarāyaṁ na bujjhati.


暑当止此 寒当止此
愚多務慮 莫知来変


暑(しょ)は当(まさ)に此(ここ)に止(とど)まるべし、寒(かん)は当(まさ)に此(ここ)に止(とど)まるべし、
愚(ぐ)は務慮(むりょ)多(おお)くして、来変(らいへん)を知(し)る莫(な)し。


※暑は当に此に止まるべし:熱い夏はここに住もう
※寒は当に此に止まるべし:寒い冬はここに住もう
※愚は務慮多くして:愚か者はくよくよとおもんばかり多くして
※来変:死


[02]314頁、[11]192頁、[19]87頁、[24]72頁


(287)


自分の子孫と家畜に気を奪われ、執着する人を死は捕らえ去る、あたかも暴流が、眠れる村を押し流すように。


Death comes and carries off that man, praised for his children and flocks, his mind distracted, as a flood carries off a sleeping village.


taṁ puttapasusammattaṁ byāsattamanasaṁ naraṁ suttaṁ gāmaṁ mahoghova maccu ādāya gacchati.


人営妻子 不解病法
死命卒至 如水湍驟


人(ひと)は妻子(さいし)を営(いとな)み、病法(びょうほう)を解(げ)せ不(ず)んば、
死命(しみょう)卒(にわ)かに至(いた)る、水湍(すいたん)の驟(はや)きが如(ごと)し。


※妻子を営み:妻や子供に執着した暮しにふけり
※病法を解せ不んば:病気のことなど考えもしないから
※死命卒かに至る:死が突然に生命を奪い至る
※水湍の驟きが如し:洪水が一瞬にして村落を押し流すように


[24]80頁


(288)


子供も助けとならず、父も友も親戚も助けとならず、死に捕らえられた者を、親族でも助けることはできない。


Sons are no help, nor a father, nor relations; there is no help from kinsfolk for one whom death has seized.


na santi puttā tāṇāya na pitā nā pi bandhavā antakenādhipannassa n’ atthi ñātīsu tāṇatā.


非有子恃 亦非父兄
為死所迫 無親可怙


子(こ)有(あ)るを恃(たの)むに非(あら)ず、亦(また)父兄(ふけい)にも非(あら)ず、
死(し)の迫(せま)る所(ところ)と為(な)らば、親(しん)の怙(たの)む可(べ)き無(な)し。


※子有るを恃むに非ず:子供が有るとて頼りにならない
※親の怙む可き無し:どんなに親族がいても頼るべきところはない


[03]230頁、[06]230頁、[07]44頁、[17]240頁、[22]205頁、[24]94頁、[25]194頁


(289)


この道理を理解して、智慧者は戒律を護り、速やかに涅槃に至る道を清めよ。


A wise and good man who knows the meaning of this, should quickly clear the way that leads to Nirvana.


etam atthavasaṁ ñatvā, paṇḍito sīlasaṁvuto, nibbānagamanaṁ maggaṁ khippameva visodhaye.


慧解是意 可修経戒
勤行度世 一切除苦


慧(え)は是(こ)の意(こころ)を解(げ)して、経戒(きょうかい)を修(しゅう)し、
勤行(ごんぎょう)して世(よ)を度(ど)し、一切(いっさい)の苦(く)を除(のぞ)く可(べ)し。


※慧は是の意を解して:智慧者はこの心を理解して
※経戒を修し:教法や戒律をおさめて
※勤行して世を度し:仏道につとめ励んでこの世を渡り


[03]230頁、[17]240頁、[22]205頁、[24]94頁




21章 雑集の章

Chapter XXI. Miscellaneous
21. pakiṇṇakavagga
21章 広衍品


(290)


小さな楽を捨てることで、広大な楽を得ることを観て、賢人は広大な楽を願って、小さな楽を捨てるべきである。


If by leaving a small pleasure one sees a great pleasure, let a wise man leave the small pleasure, and look to the great.


mattāsukhapariccāgā, passe ce vipulaṁ sukhaṁ; caje mattāsukhaṁ dhīro, sampassaṁ vipulaṁ sukhaṁ.


施安雖小 其報弥大
慧従小施 受見景福


施安(せあん)は小(しょう)なりと雖(いえど)も、其(そ)の報(ほう)は弥(いよいよ)大(だい)なり、
慧(え)は小施(しょうせ)に従(よ)り、景福(けいふく)を受(う)けて見(み)る。


※施安:何気ないほどこし
※報:果報
※慧は小施に従り:智慧者は少しのほどこしを受けるうちに積もり積もって
※景福:大きな幸福


[03]213頁、[11]120頁、[17]244頁、[19]41頁、[21]330頁、[25]228頁


(291)


他人を苦しめて、自分の楽を求める人は、怨憎の混乱の中に没落して、逃れられない。


He who, by causing pain to others, wishes to obtain pleasure for himself, he, entangled in the bonds of hatred, will never be free from hatred.


paradukkhūpadhānena attano sukhamicchati, verasaṁsaggasaṁsaṭṭho verā so na parimuccati.


施労於人 而欲望祐
殃咎帰身 自遭広怨


労(ろう)を人(ひと)に施(ほどこ)し、而(しか)も祐(さいわい)を望(のぞ)まんと欲(ほっ)せば、
殃咎(おうぐ)は身(み)に帰(き)し、自(みずか)ら広怨(こうおん)に遭(あ)わん。


※労を人に施し:苦労を他人にさせて
※祐を望まんと欲せば:自分だけが幸せを望まんと欲を出せば
※殃咎:災い
※広怨に遭わん:いたるところで怨みにあう


[18]42頁、[21]332頁


(292)


為すべきことを疎かにし、為すべからざることを為す、慢心で放逸なる人には、心の穢れは増大する。


What ought to be done is neglected, what ought not to be done is done; the desires of unruly, thoughtless people are always increasing.


Yañ hi kiccaṁ apaviddhaṁ akiccaṁ pana karīyati unnaḷānaṁ pamattānaṁ tesaṁ vaḍḍhanti āsavā.


已為多事 非事亦造
伎楽放逸 悪習日増


已(すで)に多事(たじ)を為(な)し、事(こと)に非(あら)ざるを亦(また)造(つく)り、
伎楽(きがく)して放逸(ほういつ)ならば、悪習(あくしゅう)日(ひ)に増(ま)さん。


※多事を為し:多くの事をしても
※事に非ざるを亦造り:やらなくてもいいことをやり
※伎楽して放逸ならば:歌や踊りを楽しんで仏道にはげまず、なまけていたら
※悪習:悪い習慣


[04]68頁、[04]152頁、[18]70頁、[23]105頁


(293)


常に善く努力して、我が身を念ずれば、為すべからざることを為さず、絶えず為すべきことを為す、正念し、正知して心の穢れをなくす。


But they whose whole watchfulness is always directed to their body, who do not follow what ought not to be done, and who steadfastly do what ought to be done, the desires of such watchful and wise people will come to an end.


yesañca susamāraddhā niccaṁ kāyagatā sati akiccaṁ te na sevanti kicce sātaccakārino, satānaṁ sampajānānaṁ atthaṁ gacchanti āsavā.


精進惟行 習是捨非
修身自覚 是為正習


精進(しょうじん)を惟(こ)れ行(ぎょう)じ、是(ぜ)を習(なら)い非(ひ)を捨(す)て、
身(しん)を修(おさ)めて自(みずか)ら覚(さと)る、是(これ)を正習(しょうじゅう)と為(な)す。


※精進:仏道修行にはげむ
※是を習い非を捨て:善を見習い悪を捨て
※身:我が身
※修:おさめて
※正習:正しい習慣


(294)


渇愛という母と、慢心という父を殺し、常見(永遠に存在する)と、断見(滅び無くなる)という二つの王を殺し、六根(六つの器官)眼・耳・鼻・舌・身・意と、六境(六つの対象)色・声・香・味・触・法、による煩悩の迷いを滅ぼし、婆羅門は苦しみなく行く。


A true Brahmana goes scatheless, though he have killed father and mother, and two valiant kings, though he has destroyed a kingdom with all its subjects.


mātaraṁ pitaraṁ hantvā rājāno dve ca khattiye raṭṭhaṁ sānucaraṁ hantvā anīgho yāti brāhmaṇo.


除其父母縁 王家及二種
遍滅其境土 無垢為梵志


其(そ)の父母(ふぼ)の縁(えん)と、王家(おうけ)及(およ)びに二種(にしゅ)を除(のぞ)き、
遍(あまね)く其(そ)の境土(きょうど)を滅(ほろ)ぼし、無垢(むく)なるを梵志(ぼんし)と為(な)す。


※父母の縁:父(慢心)と母(渇愛)の心を除き
※王家及びに二種を除き:常見(永遠に存在する)と、断見(滅び無くなる)という見解を除き
※遍く其の境土を滅ぼし:六根(六つの器官)眼・耳・鼻・舌・身・意と、六境(六つの対象)色・声・香・味・触・法、による煩悩の迷いを滅ぼし
※無垢なるを梵志と為す:汚れなき清らかなるをバラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)となす


[03]217頁、[17]245頁


(295)


渇愛という母と、慢心という父を殺し、常見(永遠に存在する)と、断見(滅び無くなる)という二つの王を殺し、第五には疑(疑いためらい)という虎を殺し、婆羅門は苦しみなく行く。


A true Brahmana goes scatheless, though he have killed father and mother, and two holy kings, and an eminent man besides.


mātaraṁ pitaraṁ hantvā rājāno dve ca sotthiye veyagghapañcamaṁ hantvā anīgho yāti brāhmaṇo.


学先断母 率君二臣
廃諸営従 是上道人


学(がく)は先(ま)ず母(はは)を断(た)ち、君(くん)の二臣(にじん)を率(ひき)い、
諸(もろもろ)の営従(えいじゅう)を廃(はい)す、是(こ)れ上道(じょうどう)の人(ひと)なり。


※学は:仏道を学ぶ者は
※母:渇愛の心
※君の二臣:常見(永遠に存在する)と、断見(滅び無くなる)という見解
※諸の営従を廃す:このようなものが従いくるのを廃す
※上道の人:最上の仏道修行者


(296)


瞿曇(ゴータマ、釈迦)の弟子は常によく目覚めて、彼らは昼も夜も常に仏を念じる。


The disciples of Gotama (Buddha) are always well awake, and their thoughts day and night are always set on Buddha.


suppabuddhaṁ pabujjhanti sadā gotamasāvakā, yesaṁ divā ca ratto ca niccaṁ buddhagatā sati.


能知自覚者 是瞿曇弟子
昼夜当念是 一心帰命仏


能(よ)く自覚(じかく)を知(し)る者(もの)は、是(こ)れ瞿曇(くどん)の弟子(でし)なり、
昼夜(ちゅうや)に当(まさ)に是(これ)を念(ねん)じ、一心(いっしん)に仏(ほとけ)に帰命(きみょう)す。


※瞿曇:ゴータマ、釈迦
※念:心に思う
※一心:心を一つに集中する
※仏:仏陀
※帰命:身命を投げ出して従うこと


[03]221頁、[04]167頁、[11]98頁、[14]57頁、[17]246頁、[25]244頁


(297)


瞿曇(ゴータマ、釈迦)の弟子は常によく目覚めて、彼らは昼も夜も常に法を念じる。


The disciples of Gotama are always well awake, and their thoughts day and night are always set on the law.


suppabuddhaṁ pabujjhanti sadā gotamasāvakā, yesaṁ divā ca ratto ca niccaṁ dhammagatā sati.


善覚自覚者 是瞿曇弟子
昼夜当念是 一心念於法


能(よ)く自覚(じかく)を知(し)る者(もの)は、是(こ)れ瞿曇(くどん)の弟子(でし)なり、
昼夜(ちゅうや)に当(まさ)に是(これ)を念(ねん)じ、一心(いっしん)に法(ほう)を念(ず)。


※瞿曇:ゴータマ、釈迦
※念:心に思う
※法:真理


[03]222頁、[04]171頁、[11]99頁、[25]244頁


(298)


瞿曇(ゴータマ、釈迦)の弟子は常によく目覚めて、彼らは昼も夜も常に僧を念じる。


The disciples of Gotama are always well awake, and their thoughts day and night are always set on the church.


suppabuddhaṁ pabujjhanti sadā gotamasāvakā, yesaṁ divā ca ratto ca niccaṁ saṁghagatā sati.


善覚自覚者 是瞿曇弟子
昼夜当念是 一心念於衆


能(よ)く自覚(じかく)を知(し)る者(もの)は、是(こ)れ瞿曇(くどん)の弟子(でし)なり、
昼夜(ちゅうや)に当(まさ)に是(これ)を念(ねん)じ、一心(いっしん)に衆(しゅう)を念(ねん)ず。


※瞿曇:ゴータマ、釈迦
※衆:僧侶


[03]222頁、[11]99頁


(299)


瞿曇(ゴータマ、釈迦)の弟子は常によく目覚めて、彼らは昼も夜も常に身体を念じる。


The disciples of Gotama are always well awake, and their thoughts day and night are always set on their body.

suppabuddhaṁ pabujjhanti sadā gotamasāvakā, yesaṁ divā ca ratto ca niccaṁ kāyagatā sati.


善知自覚者 是能仁弟子
応当於昼夜 一心恒念身


能(よ)く自覚(じかく)を知(し)る者(もの)は、是(こ)れ能仁(のうにん)の弟子(でし)なり、
当(まさ)に昼夜(ちゅうや)に於(お)いて応(おう)じ、一心(いっしん)に恒(つね)に身(しん)を念(ねん)ず。


※能仁:釈迦
※身:我が身


[03]226頁、[11]99頁


(300)


瞿曇(ゴータマ、釈迦)の弟子は常によく目覚めて、彼らは昼も夜も常に不害を楽しむ。


The disciples of Gotama are always well awake, and their mind day and night always delights in compassion.


suppabuddhaṁ pabujjhanti sadā gotamasāvakā, yesaṁ divā ca ratto ca ahiṁsāya rato mano.


善覚自覚者 是瞿曇弟子
昼夜当念是 一心会不害


能(よ)く自覚(じかく)を知(し)る者(もの)は、是(こ)れ瞿曇(くどん)の弟子(でし)なり、
昼夜(ちゅうや)に当(まさ)に是(これ)を念(ねん)じ、一心(いっしん)に不害(ふがい)に会(あ)う。


※瞿曇:ゴータマ、釈迦
※不害:他の生き物を害しない


[03]226頁、[04]126頁、[11]99頁、[18]58頁


(301)


瞿曇(ゴータマ、釈迦)の弟子は常によく目覚めて、彼らは昼も夜も常に禅定を楽しむ。


The disciples of Gotama are always well awake, and their mind day and night always delights in meditation.


suppabuddhaṁ pabujjhanti sadā gotamasāvakā, yesaṁ divā ca ratto ca bhāvanāya rato mano.


為仏弟子 常寤自覚
日暮思禅 楽観一心


仏弟子(ぶっでし)と為(な)りては、常(つね)に寤(さ)めて自(みずか)ら覚(さと)し、
日暮(にちぼ)に禅(ぜん)を思(おも)い、楽観(らっかん)し一心(いっしん)なり。


※寤めて:目覚めて
※日暮に禅を思い:昼も夜も、いつもこころ静かに集中させ
※楽観:信楽(しんぎょう)仏を信じ願い、観察(かんざつ)ありのままを観る


[03]226頁(文中306句とありますが301句が正しいとしました)、[04]45頁、[11]100頁


(302)


出家することは難しく、楽しみ難い、在家の暮らしも難しく、苦しみである、同輩と共に住むのは苦しみである、修行者は旅に出ると苦しみに遭う、だから旅に出るな、苦しみに遭うな。


It is hard to leave the world (to become a friar), it is hard to enjoy the world; hard is the monastery, painful are the houses; painful it is to dwell with equals (to share everything in common) and the itinerant mendicant is beset with pain. Therefore let no man be an itinerant mendicant and he will not be beset with pain.


duppabbajjaṁ durabhiramaṁ durāvāsā gharā dukhā, dukkho samānasaṁvāso, dukkhānupatit’ addhagū, tasmā na c’ addhagū siyā, na ca dukkhānupatito siyā.


学難捨罪難 居住家亦難
会止同利難 難難無過有
比丘乞求難 何可不自勉
精進得自然 後無欲於人


学(がく)は難(かた)く罪(つみ)を捨(す)つるは難(かた)く、家(いえ)に居住(きょじゅう)するも亦(また)難(かた)く、
会止利(えしり)を同(おな)じくするも難(かた)く、難難(なんなん)有(う)に過(す)ぐる無(な)し、
比丘(びく)の乞求(こつぐ)は難(かた)し、何(なん)ぞ自(みずか)ら勉(つと)め不(ざ)る可(べ)けんや、
精進(しょうじん)ならば得(う)ること自然(じねん)にして、後(のち)に人(ひと)に欲(ほっ)する無(な)し。


※学:仏道を学ぶ
※罪を捨つる:罪悪を犯さない
※家に居住する:在家信者が一人で家に住む
※会止利を同じくする:僧侶同士が共同生活をする
※難難有に過ぐる無し:難中の難は物欲の心以上のものはない
※乞求:托鉢
※何ぞ自ら勉め不る可けんや:何としても自ら努めなければならない
※精進:仏道修行にはげむ
※人に欲する無し:他人に欲求することは無い


[16]27頁


(303)


信心あり、戒律を備え、名声と高貴とを備えれば、いたる所で、供養を受ける。


Whatever place a faithful, virtuous, celebrated, and wealthy man chooses, there he is respected.


saddho sīlena sampanno yasobhogasamappito yaṁ yaṁ padesaṁ bhajati tattha tattheva pūjito.


有信則戒成 従戒多致賢
亦従得諧偶 在所見供養


信(しん)有(あ)れば則(すなわ)ち戒(かい)成(な)り、戒(かい)に従(よっ)て多(おお)く賢(けん)を致(いた)し、
亦(また)従(したがっ)て諧偶(かいぐう)を得(え)、供養(くよう)せ見(ら)る。


※信:信心、仏の教えを信じる
※戒成り:戒律は成就する
※賢を致し:賢者となり
※諧偶を得:心の通い合った仲間を得る
※在所:どこに居ても


[02]320頁、[11]20頁


(304)


善人は雪山(ヒマラヤの山々)のように、遠い所からもよく見える、不善者は近くにいても見えない、夜中に射られた矢のように見えない。


Good people shine from afar, like the snowy mountains; bad people are not seen, like arrows shot by night.


dūre santo pakāsenti himavantova pabbato, asantettha na dissanti rattiṁ khittā yathā sarā.


近道名顯 如高山雪
遠道闇昧 如夜発箭


道(どう)に近(ちか)きは名(みょう)顯(あら)われて、高山(こうせん)の雪(ゆき)の如(ごと)し、
道(どう)に遠(とお)きは闇昧(あんまい)にして、夜(よる)に発(はっ)せる箭(や)の如(ごと)し。


※道に近きは名顯われて:仏道に寄り添うものは名声があらわれ
※高山の雪の如し:高い山にふった雪がどこからも見られるように
※道に遠きは闇昧にして:仏道にはずれるものは物事に暗く愚かにして
※夜に発せる箭の如し:夜中に射られた矢のように見えない


[03]23頁、[14]167頁、[17]247頁、[21]334頁、[25]230頁


(305)


一人坐し、一人臥し、一人行きてあきることなく、一人己をととのえて、林の中に居るように、寂静を楽しめ。


He alone who, without ceasing, practises the duty of sitting alone and sleeping alone, he, subduing himself, will rejoice in the destruction of all desires alone, as if living in a forest.


ekāsanaṁ ekaseyyaṁ eko caramatandito, eko damayamattānaṁ vanante ramito siyā.


一坐一処臥 一行無放逸
守一以正身 心楽居樹間


一坐(いちざ)一処(いっしょ)に臥(ふ)して、一行(いちぎょう)にして放逸(ほういつ)無(な)し、
一(いち)を守(まも)りて以(もっ)て身(み)を正(ただ)さば、心(こころ)楽(たの)しく樹間(じゅけん)に居(い)るごとし。


※一坐一処に臥して:一人で座り一つのところに寝て
※一行にして放逸無し:ただ一つの仏道修行をしてなまけること無し
※一を守りて:ただ仏の道を守りて
※樹間:林の中


[17]248頁、[25]242頁




22章 地獄の章

Chapter XXII. The Downward Course
22. nirayavagga
22章 地獄品


(306)


不実を語る者は、地獄に落ちる、或いは自ら悪を為して後に為していないという者も、地獄に落ちる、この両者は死後に等しく、来世に於いて賤しい業の人となる。


He who says what is not, goes to hell; he also who, having done a thing, says I have not done it. After death both are equal, they are men with evil deeds in the next world.


abhūtavādī nirayaṁ upeti yo vāpi katvā na karomi cāha, ubhopi te pecca samā bhavanti nihīnakammā manujā parattha.


妄語地獄近 作之言不作
二罪後倶受 自作自牽往


妄語(もうご)は地獄(じごく)に近(ちか)し、之(これ)を作(な)して作(な)さ不(ず)と言(い)わば、
二罪(にざい)は後(のち)に倶(とも)に受(う)く、自(みずか)ら作(な)して自(みずか)ら牽(ひ)き往(ゆ)く。


※妄語:うそをつく
※之を作して作さ不と言わば:やったことをやっていないと言えば
※二罪は後に倶に受く:この二つの罪は後に共に罰を受ける
※自ら作して自ら牽き往く:自ら犯した罪により自らを地獄に落とす


[09]90頁、[13]18頁、[14]86頁、[21]340頁、[27]127頁


(307)


肩に袈裟を纏っていても、悪を行い節制しない者が多い、このような悪人は悪業により地獄に落ちる。


Many men whose shoulders are covered with the yellow gown are ill-conditioned and unrestrained; such evil-doers by their evil deeds go to hell.


kāsāvakaṇṭhā bahavo pāpadhammā asaññatā; pāpā pāpehi kammehi nirayaṁ te upapajjare.


法衣在其身 為悪不自禁
苟没悪行者 終則墮地獄


法衣(ほうえ)其(その)身(み)に在(あ)るも、悪(あく)を為(な)して自(みずか)ら禁(こん)せ不(ず)、
苟(いやし)くも悪行(あくぎょう)に没(ぼっ)する者(もの)は、終(つい)に則(すなわ)ち地獄(じごく)に墮(だ)す。


※法衣其身に在るも:袈裟を着ていても


[14]155頁、[17]252頁、[27]85頁


(308)


戒律を破り、節制しない者が、国民の施しを受けるよりは、むしろ火焔のように、灼熱した鉄丸を食らうべし。


Better it would be to swallow a heated iron ball, like flaring fire, than that a bad unrestrained fellow should live on the charity of the land.


seyyo ayoguḷo bhutto tatto aggisikhūpamo, yañce bhuñjeyya dussīlo raṭṭhapiṇḍamasaññato.


寧噉焼石 呑飲鎔銅
不以無戒 食人信施


寧(むし)ろ焼石(やきいし)を噉(くら)い鎔銅(ようどう)を呑飲(どんいん)すとも、
無戒(むかい)を以(もっ)て、人(ひと)の信施(しんぜ)を食(は)ま不(ざ)れ。


※寧ろ焼石を噉い鎔銅を呑飲すとも:たとえ焼けた石を食べ、とけた銅を飲んだとしても
※無戒を以て:戒律を守らない者が
※人の信施を食ま不れ:他人の信仰心からの施しを受けてはならない


[15]116頁、[17]253頁


(309)


放逸にして他人の婦人を犯す人は四つの事に遭う、第一に福利を得ず、第二に安眠できない、第三に非難を受け、第四に地獄に落ちる。


Four things does a wreckless man gain who covets his neighbour's wife,—a bad reputation, an uncomfortable bed, thirdly, punishment, and lastly, hell.


cattāri ṭhānāni naro pamatto āpajjati paradārūpasevī; apuññalābhaṁ na nikāmaseyyaṁ, nindaṁ tatīyaṁ nirayaṁ catutthaṁ.


放逸有四事 好犯他人婦
臥険非福利 毀三淫泆四


放逸(ほういつ)に四事(しじ)有(あ)り、好(この)んで他人(たにん)の婦(ふ)を犯(おか)す、
険(けん)に臥(ふ)して、福利(ふくり)にあら非(ず)、毀(き)は三(さん)・淫泆(いんいつ)は四(し)なり。


※放逸に四事有り:仏道にはげまず、なまける者に四つの事柄に遭う
※好んで他人の婦を犯す:好んで他人の婦人を犯す者には
※険に臥して:一に、安らかに眠ることができない
※福利にあら非:二に、幸福と利益にならない
※毀は三:三に、世間から非難を受ける
※淫泆は四なり:四に、みだらでだらしない


[08]59頁、[14]83頁、[21]342頁


(310)


福利を得ることなく、悪しき世界に赴く、そして恐れる男と恐れる女の楽しみは少なく王は重罰を下す、故に人は他人の婦人に慣れ親しむべきではない。


There is bad reputation, and the evil way (to hell), there is the short pleasure of the frightened in the arms of the frightened, and the king imposes heavy punishment; therefore let no man think of his neighbour's wife.


apuññalābho ca gatī ca pāpikā bhītassa bhītāya ratī ca thokikā, rājā ca daṇḍaṁ garukaṁ paṇeti, tasmā naro paradāraṁ na seve.


不福利墮悪 畏而畏楽寡
王法重罰加 身死入地獄


福利(ふくり)なら不(ず)して悪(あく)に墮(だ)し、畏(おそ)れて而(しか)も畏(おそ)れの楽(らく)は寡(すくな)く、
王法(おうほう)は重罰(じゅうばつ)を加(くわ)え、身(み)死(し)して地獄(じごく)に入(い)る。


※福利なら不して悪に墮し:幸福と利益はなく罪悪を犯す
※畏れて而も畏れの楽は寡く:常に恐れてしかもその恐れから楽しみは少なく
※王法:国王、法の番人


[14]83頁、[17]254頁、[21]342頁


(311)


例えば茅草でも、採りかたが悪ければ、手が傷つくように、修行者の生活も悪用すれば、地獄に引き込まれる。


As a grass-blade, if badly grasped, cuts the arm, badly-practised asceticism leads to hell.


kuso yathā duggahito hatthamevānukantati, sāmaññaṁ dupparāmaṭṭhaṁ nirayāyupakaḍḍhati.


譬如抜菅草 執緩則傷手
学戒不禁制 獄録乃自賊


譬(たと)えば菅草(かんそう)を抜(ぬ)くが如(ごと)し、執(とる)こと緩(ゆる)ければ則(すなわ)ち手(て)を傷(きず)つく、
戒(かい)を学(まな)んで禁制(こんせい)せ不(ざ)れば、獄録(ごくろく)乃(すなわ)ち自(みずか)ら賊(ぞく)す。


※菅草:かや草
※執こと緩ければ則ち手を傷つく:採るときやわらかく握って引っ張ると手を傷つける
※戒を学んで禁制せ不れば:戒律を学んでも悪行を禁じなければ
※獄録乃ち自ら賊す:悪行の記録の為自らをそこない地獄に落ちる


[17]255頁、[19]174頁


(312)


行いが怠慢で、戒律が乱れて、清浄なる修行も怪しければ、大きな果報を得ることはできない。


An act carelessly performed, a broken vow, and hesitating obedience to discipline, all this brings no great reward.


yaṁ kiñci sithilaṁ kammaṁ saṁkiliṭṭhañca yaṁ vataṁ, saṁkassaraṁ brahmacariyaṁ na taṁ hoti mahapphalaṁ.


人行為慢惰 不能除衆労
梵行有玷欠 終不受大福


人(ひと)行(おこな)うに慢惰(まんだ)を為(な)し、衆労(しゅろう)を除(のぞ)くこと能(あた)わ不(ず)、
梵行(ぼんぎょう)に玷欠(てんけつ)有(あ)らば、終(つい)に大福(だいふく)を受(う)け不(ず)。


※人行うに慢惰を為し:何事を行うにもだらしなく
※衆労を除くこと能わ不:多くの苦労を除くことはできない
※梵行に玷欠有らば:仏道修行に欠点が有れば
※大福:大きな福徳


(313)


まさに為すべきものは、これを為せ、力強くこれを行え、外道なる修行者は、むしろ多くの塵をまき散らす。


If anything is to be done, let a man do it, let him attack it vigorously! A careless pilgrim only scatters the dust of his passions more widely.


kayirā ce kayirāthenaṁ daḷhamenaṁ parakkame, sithilo hi paribbājo bhiyyo ākirate rajaṁ.


常行所当行 自持必令強
遠離諸外道 莫習為塵垢


常(つね)に当(まさ)に行(ぎょう)ずべき所(ところ)行(ぎょう)じ、自(みずか)ら持(じ)して必(かなら)ず強(つよ)から令(し)め、
諸(もろもろ)の外道(げどう)を遠離(おんり)し、習(なら)いて塵垢(じんく)を為(な)すこと莫(な)かれ。


※常に当に行ずべき所行じ:つねに修行すべきときは修行して
※自ら持して:自ら保持して
※必ず強から令め:かならず強い意思を持て
※諸の外道を遠離し:多くの仏教以外の教えから離れて
※習いて塵垢を為すこと莫かれ:仏法を学んで煩悩の塵垢に汚れるなかれ


[14]214頁、[21]344頁、[23]109頁


(314)


悪行を為さないことは良いことであり、悪行は後に苦悩を招く、善行を為すことは良いことであり、後悔しない。


An evil deed is better left undone, for a man repents of it afterwards; a good deed is better done, for having done it, one does not repent.


akataṁ dukkaṭaṁ seyyo pacchā tappati dukkaṭaṁ, katañca sukataṁ seyyo yaṁ katvā nānutappati.


為所不当為 然後致鬱毒
行善常吉順 所適無悔悕


当(まさ)に為(な)すべから不(ざ)る所(ところ)為(な)さば、然(しか)る後(のち)に鬱毒(うつどく)を致(いた)す、
善(ぜん)を行(ぎょう)ぜば常(つね)に吉順(きちじゅん)にして、適(ゆ)く所(ところ)悔悕(けき)無(な)し。


※当に為すべから不る所為さば:やってはいけないことをやれば
※鬱毒:憂鬱になり苦しむ
※吉順:幸せが順調にくる
※悔悕:くやみ悲しむ


[22]131頁


(315)


辺境の城郭が、内も外も護られているように、自己を護れ、瞬時も怠るな、怠る者は、地獄に落ちて苦悩する。


Like a well-guarded frontier fort, with defences within and without, so let a man guard himself. Not a moment should escape, for they who allow the right moment to pass, suffer pain when they are in hell.


nagaraṁ yathā paccantaṁ guttaṁ santarabāhiraṁ evaṁ gopetha attānaṁ, khaṇo vo mā upaccagā, khaṇātītā hi socanti nirayamhi samappitā.


如備辺城 中外牢固
自守其心 非法不生
行欠致憂 令墮地獄


辺城(へんじょう)を備(そな)うるに、中外(ちゅうげ)牢固(ろうこ)なるが如(ごと)く、
自(みずか)ら其(そ)の心(こころ)を守(まも)り、非法(ひほう)を生(しょう)ぜ不(ざ)れ、
行(ぎょう)欠(か)くれば憂(うれい)を致(いた)し、地獄(じごく)に墮(だ)せ令(し)む。


※辺城:国境周辺の城
※中外牢固なる:内も外もしっかり防御する
※非法を生ぜ不れ:法にはずれることはおこらない
※行欠くれば憂を致し:正しい行いが欠ければ憂いを生じ


(316)


恥じなくてもいいことを恥じ、恥じなければいけないことを恥じない、このような邪見をいだく者は、地獄に落ちる。


They who are ashamed of what they ought not to be ashamed of, and are not ashamed of what they ought to be ashamed of, such men, embracing false doctrines enter the evil path.


alajjitāye lajjanti lajjitāye na lajjare, micchādiṭṭhisamādānā sattā gacchanti duggatiṁ.


可羞不羞 非羞反羞
生為邪見 死墮地獄


羞(は)ず可(べ)きを羞(は)じ不(ず)、羞(は)じに非(あら)ざるを反(かえ)りて羞(は)じなば、
生(い)きて邪見(じゃけん)を為(な)し、死(し)して地獄(じごく)に墮(お)つ。


※羞ず可きを羞じ不:恥じなければいけないことを恥じない
※羞じに非ざるを反りて羞じなば:恥じなくてもいいことを恥じれば
※邪見:よこしまな見解


[15]70頁、[19]32頁、[23]144頁


(317)


畏れなくてもいいことを畏れ、畏れなければいけないことを畏れない、このような邪見をいだく者は、地獄に落ちる。


They who fear when they ought not to fear, and fear not when they ought to fear, such men, embracing false doctrines, enter the evil path.


abhaye bhayadassino bhaye cābhayadassino, micchādiṭṭhisamādānā sattā gacchanti duggatiṁ.


可畏不畏 非畏反畏
信向邪見 死墮地獄


畏(おそ)る可(べ)きを畏(おそ)れ不(ず)、畏(おそ)れに非(あら)ざるを反(かえ)りて畏(おそ)れなば、
邪見(じゃけん)に信向(しんこう)し、死(し)して地獄(じごく)に墮(お)つ。


※畏る可きを畏れ不:畏れなければいけないことを畏れない
※畏れに非ざるを反りて畏れなば:畏れなくてもいいことを畏れるならば
※邪見に信向し:よこしまな見解を信じ行う者は


[08]129頁、[15]66頁


(318)


避けなくてもいいことを避け、避けなくてはいけないことを避けない、このような邪見をいだく者は、地獄に落ちる。


They who forbid when there is nothing to be forbidden, and forbid not when there is something to be forbidden, such men, embracing false doctrines, enter the evil path.


avajje vajjamatino vajje cāvajjadassino, micchādiṭṭhisamādānā sattā gacchanti duggatiṁ.


可避不避 可就不就
翫習邪見 死墮地獄


避(さ)く可(べ)きを避(さ)け不(ず)、就(つ)く可(べ)きに就(つ)か不(ず)、
邪見(じゃけん)に翫習(がんしゅう)せば、死(し)して地獄(じごく)に墮(お)つ。


※避く可きを避け不:避けるべきことを避けない
※就く可きに就か不:行うべきことを行はない
※邪見に翫習せば:よこしまな見解を常にたのしめば


[11]125頁


(319)


避けるべきことを避けるべきことと知り、避けるべきでないことを避けるべきでないことと知る、このような正見をいだく者は、浄土に生まれる。


They who know what is forbidden as forbidden, and what is not forbidden as not forbidden, such men, embracing the true doctrine, enter the good path.


vajjañca vajjato ñatvā avajjañca avajjato, sammādiṭṭhisamādānā sattā gacchanti suggatiṁ.


可近則近 可遠則遠
恒守正見 死墮善道


近(ちか)づく可(べ)きは則(すなわ)ち近(ちか)づき、遠(とお)ざく可(べ)きは則(すなわ)ち遠(とお)ざけ、
恒(つね)に正見(しょうけん)を守(まも)らば、死(し)して善道(ぜんどう)に墮(お)つ。


※近づく可きは則ち近づき:近づかなければいけないことに近づき
※遠ざく可きは則ち遠ざけ:遠ざけなければいけないことを遠ざけ
※正見:正しい見解
※善道に墮つ:浄土に生まれる


[11]125頁、[21]346頁




23章 象の章

Chapter XXIII. The Elephant
23. nāgavagga
23章 象喩品


(320)


象が戦場に於いて弓より射られた矢を耐え忍ぶように、我は他人の誹謗を忍ぶ、多くの人は破戒者であるから。


Silently shall I endure abuse as the elephant in battle endures the arrow sent from the bow: for the world is ill-natured.


ahaṁ nāgova saṁgāme cāpato patitaṁ saraṁ, ativākyaṁ titikkhissaṁ dussīlo hi bahujjano.


我如象闘 不恐中箭
常以誠信 度無戒人


我(われ)は象(ぞう)の闘(たたか)うに、箭(や)の中(あた)るを恐(おそ)れ不(ざ)るが如(ごと)く、
常(つね)に誠信(じょうしん)を以(もっ)て、戒(かい)無(な)き人(ひと)を度(わた)せん。


※我は象の闘うに:我は戦場でたたかう象のように
※箭の中るを恐れ不るが如く:弓矢があたるのを恐がらずに
※誠信:まごころ
※戒無き人を度せん:戒律の無い人を正しい道に渡す


[08]208頁、[09]187頁、[10]169頁、[14]158頁、[17]258頁


(321)


調教された象は、戦場に行き、調教された象は、王の乗り物にもなる、自らよく調えて誹謗を忍ぶことは、人の中において最上である。


They lead a tamed elephant to battle, the king mounts a tamed elephant; the tamed is the best among men, he who silently endures abuse.


dantaṁ nayanti samitiṁ dantaṁ rājābhirūhati, danto seṭṭho manussesu yotivākyaṁ titikkhati.


譬象調正 可中王乗
調為尊人 乃受誠信


譬(たと)えば象(ぞう)の調正(ちょうしょう)せるは、王乗(おうじょう)に中(あ)つ可(べ)し、
調(ちょう)せるを尊人(そんにん)と為(な)す、乃(すなわ)ち誠信(じょうしん)を受(う)く。


※調正せるは:よく調教されていれば
※王乗に中つ可し:王様の乗り物にもなれる
※調せるを尊人と為す:こころを調えた人は尊い人となす
※誠信を受く:まごころのある人と思われる


(322)


調教された騾馬も良い、信度(シンドゥ、インダス河)産の駿馬も良い、大きな牙を持つ巨象も良い、己を調えた人はさらに良い。


Mules are good, if tamed, and noble Sindhu horses, and elephants with large tusks; but he who tames himself is better still.


varam assatarā dantā ājānīyā ca sindhavā, kuñjarā ca mahānāgā attadanto tato varaṁ.


雖為常調 如彼新馳
亦最善象 不如自調


常調(じょうちょう)を為(な)すと雖(いえど)も、彼(か)の新(あら)たに馳(は)せて如(ごと)きは、
亦(また)最善(さいぜん)の象(ぞう)にして、自(みずか)ら調(おさ)めるに如(し)か不(ず)。


※常調を為す:常に調教されている
※彼の新たに馳せて如きは:あの新しく走ってきた象も
※亦最善の象にして:またすばらしい象であるが
※自ら調めるに如か不:自らのこころを調えた人ほどすぐれた人はいない


[03]234頁、[06]153頁


(323)


これらの乗り物によっては決して未到の地(涅槃)に至ることはできない、調えた人の、よく調えられたる己を、調えられた乗り物で赴く。


For with these animals does no man reach the untrodden country (Nirvana), where a tamed man goes on a tamed animal, viz. on his own well-tamed self.


na hi etehi yānehi gaccheyya agataṁ disaṁ, yath’ āttanā sudantena danto dantena gacchati.


彼不能適 人所不至
唯自調者 能到調方


彼(かれ)、人(ひと)の至(いた)ら不(ざ)る所(ところ)に、適(ゆ)くこと能(あた)わ不(ず)、
唯(ただ)自調(じちょう)する者(もの)は、能(よ)く調(ととの)うる方(ほう)に到(いた)る。


※彼、人の至ら不る所に、適くこと能わ不:普通の人は悟りの境地に至ることはできない
※自調する者は:自らのこころを調えた者は
※能く調うる方に到る:悟りの境地に至る


[17]259頁、[21]352頁


(324)


陀那波羅柯(ダナパーラカ、財を守るもの)という名の象は発情期には、醉狂して制し難く、これを捕らえると、一口も食べない、この象はただ象の林を恋い慕っている。


The elephant called Dhanapalaka, his temples running with sap, and difficult to hold, does not eat a morsel when bound; the elephant longs for the elephant grove.


dhanapālako nāma kuñjaro kaṭukabhedano dunnivārayo, baddho kabaḷaṁ na bhuñjati sumarati nāgavanassa kuñjaro.


如象名財守 猛害難禁制
繋絆不与食 而猶暴逸象


象(ぞう)の財守(ざいしゅ)と名(な)ずくる如(ごと)きは、猛害(もうがい)にして禁制(こんせい)し難(がた)し、
繋絆(けばん)せば与(とも)に食(くら)わ不(ず)、而(しか)も猶(なお)暴逸(ぼういつ)の象(ぞう)の如(ごと)し。


※象の財守と名ずくる如きは:財を守ると名付けられた象は
※猛害にして禁制し難し:凶暴にしてとりおさえることができない
※繋絆せば与に食わ不:たとえ縛りつけて食物を与えても食べない
※猶暴逸:なお暴れまわる、(象は仲間のいる林に帰りたいのである)


[10]52頁、[21]354頁


(325)


睡眠を好み、貪り大食し、ゴロゴロ寝転び、穀類を餌に肥えた大豚のように、この愚鈍者は何度も母胎に入り輪廻する。


If a man becomes fat and a great eater, if he is sleepy and rolls himself about, that fool, like a hog fed on wash, is born again and again.


middhī yadā hoti mahagghaso ca niddāyitā samparivattasāyī, mahāvarāhova nivāpapuṭṭho punappunaṁ gabbhamupeti mando.


没在悪行者 恒以貪自繋
其象不知厭 故数入胞胎


悪行(あくぎょう)に没在(もつざい)する者(もの)は、恒(つね)に貪(とん)を以(もっ)て自(みずか)ら繋(つな)ぎ、
其(そ)の象(ぞう)の厭(あ)くことを知(し)ら不(ず)、故(ゆえ)に数(しばしば)胞胎(ほうたい)に入(い)る。


※没在:のめりこむ
※貪:貪欲、むさぼり求める心
※其の象の厭くことを知ら不:欲をむさぼる象は飽きることを知らず
※数胞胎に入る:くりかえし輪廻転生し六道にうまれる
 (六道:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)


[09]64頁、[24]145頁


(326)


この心は以前には望む所へ、欲に従い、楽に応じて、徘徊していた、しかし今はこれをすべて制御しよう、鉤を持った象使いが、発情期の象を制御するように。


This mind of mine went formerly wandering about as it liked, as it listed, as it pleased; but I shall now hold it in thoroughly, as the rider who holds the hook holds in the furious elephant.


idaṁ pure cittamacāri cārikaṁ yenicchakaṁ yatthakāmaṁ yathāsukhaṁ, tadajjahaṁ niggahessāmi yoniso hatthippabhinnaṁ viya aṅkusaggaho.


本意為純行 及常行所安
悉捨降結使 如鈎制象調


本(もと)意(こころ)に純行(じゅんぎょう)を為(な)し、及(およ)び常(つね)に安(やす)んずる所(ところ)を行(ぎょう)ぜり、
悉(ことごと)く結使(けっし)を捨降(しゃこう)せば、鈎(かぎ)もて象(ぞう)を制(せい)して調(おさ)むるが如(ごと)し。


※本意に純行を為し:元々のこころは思うがままに行い
※常に安んずる所を行ぜり:常に安楽を求めて行ってきた
※悉く結使を捨降せば:今はことごとく煩悩をすてた
※鈎もて象を制して調むる如し:象使いが鈎をもって象を制し調教するように


(327)


不放逸を楽しめ、自心を護れ、難所(煩悩)より己を救い出せ、あたかも泥沼にはまった象のように。


Be not thoughtless, watch your thoughts! Draw yourself out of the evil way, like an elephant sunk in mud.


appamādaratā hotha sacittamanurakkhatha, duggā uddharathattānaṁ paṁke sannova kuñjaro.


楽道不放逸 能常自護心
是為抜身苦 如象出于塪


道(どう)を楽(たの)しみ放逸(ほういつ)なら不(ず)、常(つね)に能(よ)く自(みずか)ら心(こころ)を護(まも)る、
是(これ)を身苦(しんく)を抜(ぬ)くと為(な)す、象(ぞう)の塪(かん)于(より)出(いず)るが如(ごと)し。


※道:仏の道
※放逸:仏道にはげまず、なまける
※身苦を抜く:身の苦しみを抜く
※象の塪于出るが如し:泥沼にはまって苦しみもがいている象が抜け出るように


[17]260頁、[21]356頁


(328)


もし人、賢善にして、行いを同じくして、正しく振る舞い、堅固なる友を得れば、諸々の困難を乗り越え、心歓び正しく思念して共に行くべし。


If a man find a prudent companion who walks with him, is wise, and lives soberly, he may walk with him, overcoming all dangers, happy, but considerate.


sace labhetha nipakaṁ sahāyaṁ saddhiṁ caraṁ sādhuvihāridhīraṁ, abhibhuyya sabbāni parissayāni careyya tenattamano satīmā.


若得賢能伴 倶行行善悍
能伏諸所聞 至到不失意


若(も)し賢(けん)の能(よ)く伴(ともな)うを得(え)て、倶行(ぐぎょう)に善悍(ぜんかん)を行(ぎょう)じ、
能(よ)く諸(もろもろ)の所聞(しょもん)を伏(ふく)せば、至到(しとう)意(い)を失(しつ)せ不(ず)。


※若し賢の能く伴うを得て:もしよく賢者の友を得て
※倶行に善悍を行じ:その友と行動し善行を勇ましく行い
※能く諸の所聞を伏せば:よくさまざまな問題を解決すれば
※至到意を失せ不:自らの誠意を失わず仏の道に到達する


[12]95頁、[14]217頁、[16]84頁


(329)


もし人、賢善にして、行いを同じくして、正しく振る舞い、堅固なる友を得なければ、王が亡ぼされた国を棄てるように、また林の中の象のように、一人で行くべし。


If a man find no prudent companion who walks with him, is wise, and lives soberly, let him walk alone, like a king who has left his conquered country behind,—like an elephant in the forest.


no ce labhetha nipakaṁ sahāyaṁ saddhiṁ caraṁ sādhuvihāri dhīraṁ, rājāva raṭṭhaṁ vijitaṁ pahāya eko care mātaṁgaraññeva nāgo.


不得賢能伴 倶行行悪悍
広断王邑里 寧独不為悪


賢(けん)の能(よ)く伴(ともな)うを得(え)不(ず)、倶行(ぐぎょう)して悪悍(あくかん)を行(ぎょう)ぜば、
広(ひろ)く王(おう)の邑里(ゆうり)を断(た)つごとく、寧(むし)ろ独(ひと)りにて悪(あく)を為(な)さ不(ざ)れ。


※賢の能く伴うを得不:よく賢者の友を得られず
※倶行して悪悍を行ぜば:もし愚者の友と行動し悪行を勇ましく行えば
※広く王の邑里を断つごとく:王様がおさめる広い国土を捨て去るように
※寧ろ独りにて悪を為さ不れ:むしろひとりで歩んで悪から離れよ


[12]96頁、[16]85頁


(330)


むしろ一人で行くことを善とする、愚か者を友とするな、一人で行き悪をするな、小欲であれ、林の中の象のように。


It is better to live alone, there is no companionship with a fool; let a man walk alone, let him commit no sin, with few wishes, like an elephant in the forest.


ekassa caritaṁ seyyo natthi bāle sahāyatā, eko care na ca pāpāni kayirā, appossukko mātaṁgaraññeva nāgo.


寧独行為善 不与愚為侶
独而不為悪 如象驚自護


寧(むし)ろ独行(どくぎょう)して善(ぜん)を為(な)し、愚(ぐ)と与(とも)に侶(りょ)を為(な)さ不(ざ)れ、
独(ひと)りにて而(しか)も悪(あく)を為(な)さ不(ざ)ること、象(ぞう)の驚(おどろ)きを自(みずか)ら護(まも)るが如(ごと)くせよ。


※独行して:ひとりで行動して
※愚と与に侶を為さ不れ:愚か者の仲間と共に行動してはならない
※象の驚きを自ら護る:象が外部の騒ぎにも自ら制し林の中で静かに暮らす


[10]170頁、[12]97頁、[14]218頁、[17]261頁、[21]358頁、[24]145頁


(331)


事が起きたときに友がいれば楽しく、満足することは全て楽しく、福徳は命尽きるときに楽しく、一切の苦しみを断滅することは楽しい。


If an occasion arises, friends are pleasant; enjoyment is pleasant, whatever be the cause; a good work is pleasant in the hour of death; the giving up of all grief is pleasant.


atthamhi jātamhi sukhā sahāyā tuṭṭhī sukhā yā itarītarena, puññaṁ sukhaṁ jīvitasaṁkhayamhi sabbassa dukkhassa sukhaṁ pahānaṁ.


生而有利安 伴䎡和為安
命尽為福安 衆悪不犯安


生(うま)れて而(しか)も利(り)有(あ)るは安(やす)く、伴(とも)は䎡和(なんわ)を安(やす)しと為(な)し、
命(いのち)尽(つ)くるに福(ふく)を為(な)せば安(やす)く、衆悪(しゅあく)を犯(おか)さ不(ざ)るは安(やす)し。


※生れて而も利有るは安く:人として生まれしかも他人の役に立てればやすらぎ
※伴は䎡和を安しと為し:友人は穏やかで優しい仲間であればやすらぎ
※命尽くるに福を為せば安く:命尽きるまでに多くの善行を積めばやすらぎ
※衆悪を犯さ不るは安し:すべての悪を犯さなければやすらぐ


[12]110頁、[25]232頁


(332)


この世に母を敬うのは楽しく、父を敬うのもまた楽しく、この世に沙門を敬うのは楽しく、婆羅門を敬うのもまた楽しい。


Pleasant in the world is the state of a mother, pleasant the state of a father, pleasant the state of a Samana, pleasant the state of a Brahmana.


sukhā matteyyatā loke atho petteyyatā sukhā, sukhā sāmaññatā loke atho brahmaññatā sukhā.


人家有母楽 有父斯亦楽
世有沙門楽 天下有道楽


人家(にんけ)に母(はは)有(あ)るは楽(たの)しく、父(ちち)有(あ)るも斯(こ)れ亦(また)楽(たの)しく、
世(よ)に沙門(しゃもん)有(あ)るは楽(たの)しく、天下(てんげ)に道(どう)有(あ)るは楽(たの)し。


※人家:わが家
※世:世間
※沙門:修行者
※天下:この世の中
※道:仏の道


[02]328頁、[08]180頁、[09]38頁、[12]111頁、[14]223頁、[15]189頁、[17]262頁、[19]138頁、[21]360頁


(333)


戒律を保ち老年に至るは楽しく、信仰が確立していることは楽しく、智慧を得ることは楽しく、諸々の悪を作らないことは楽しい。


Pleasant is virtue lasting to old age, pleasant is a faith firmly rooted; pleasant is attainment of intelligence, pleasant is avoiding of sins.


sukhaṁ yāva jarā sīlaṁ sukhā saddhā patiṭṭhitā, sukho paññāya paṭilābho pāpānaṁ akaraṇaṁ sukhaṁ.


持戒終老安 信正所正善
智慧最安身 不犯悪最安


戒(かい)を持(も)たば終(つい)に老(お)いるは安(やす)く、正(しょう)を信(しん)じて正(ただ)しき所(ところ)善(よ)く、
智慧(ちえ)は最(もっと)も身(み)を安(あん)じ、悪(あく)を犯(おか)さ不(ざ)るは最(もっと)も安(やす)し。


※戒を持たば終に老いるは安く:戒律を守り老いることはやすらぎであり
※正を信じて正しき所善く:正道(仏の道)を信じ正しい行いは善く


[11]81頁、[12]132頁、[14]124頁、[25]234頁、[26]217頁




24章 渇愛の章

Chapter XXIV. Thirst
24. taṇhāvagga
24章 愛欲品


(334)


放逸なる人の愛欲は、摩魯婆(マロバ、蔓草)のようにはびこる、林の中で果物を求める猿のように、この世かの世を走り回る。


The thirst of a thoughtless man grows like a creeper; he runs from life to life, like a monkey seeking fruit in the forest.


manujassa pamattacārino taṇhā vaḍḍhati māluvā viya, so plavatī hurā huraṁ phalamicchaṁva vanasmi vānaro.


心放在婬行 欲愛増枝條
分布生熾盛 超躍貪果猴


心(こころ)を婬行(いんぎょう)に放在(ほうざい)せば、欲愛(よくあい)は枝條(しじょう)を増(ま)し、
分布(ぶんぷ)の生(しょう)ずる熾盛(しじょう)にして、超躍(ちょうやく)して果(か)を貪(むさぼ)る猴(さる)のごとし。


※婬行に放在せば:みだらな行いをそのまま放置すれば
※枝條を増し:木の枝のように増え
※分布の生ずる熾盛にして:つる草が勢いよく生い茂るように
※超躍して果を貪る猴のごとし:あちらこちら飛びはね回り果物をむさぼる猿のごとし


[07]114頁、[08]26頁、[17]266頁、[21]366頁


(335)


この世に於いて、激しい愛欲に征服された人は、諸々の憂いが増大する、雨の後の毘羅拏草(ビーラナ草、香草の一種)がはびこるように。


Whomsoever this fierce thirst overcomes, full of poison, in this world, his sufferings increase like the abounding Birana grass.


yaṁ esā sahate jammī taṇhā loke visattikā, sokā tassa pavaḍḍhanti abhivaṭṭhaṁva bīraṇaṁ.


以為愛忍苦 貪欲著世間
憂患日夜長 莚如蔓草生


愛(あい)を忍(しの)ぶの苦(く)を為(な)すを以(もっ)て、貪欲(とんよく)もて世間(せけん)を著(ちゃく)せば、
憂患(うかん)日夜(にちや)に長(なが)し、莚(むしろ)に蔓草(まんそう)に生(しょう)ずるが如(ごと)し。


※愛を忍ぶの苦を為すを以て:愛欲を耐えるのは苦しみをつくるので
※貪欲もて世間を著せば:むさぼり求める心で世間に執着すれば
※憂患日夜に長し:心配してこころをいためることは昼も夜も続く
※莚に蔓草に生ずるが如し:むしろにつる草が生い茂るように


[17]267頁


(336)


この世に於いて、激しい逃れ難き愛欲を征服した人は、諸々の憂いが消え去る、蓮の葉から水滴が落ちるように。


He who overcomes this fierce thirst, difficult to be conquered in this world, sufferings fall off from him, like water-drops from a lotus leaf.


yo c’ etaṁ sahate jammiṁ taṇhaṁ loke duraccayaṁ, sokā tamhā papatanti udabinduva pokkharā.


人為恩愛惑 不能捨情欲
如是憂愛多 潺々盈于池
夫所以憂悲 世間苦非一
但為縁愛有 離愛則無憂


人(ひと)は恩愛(おんあい)の為(ため)に惑(まど)い、情欲(じょうよく)を捨(す)つること能(あた)わ不(ず)、
是(かく)の如(ごと)く憂愛(うあい)多(おお)くは、潺々(せんせん)として池(いけ)于(に)盈(み)つ。
夫(そ)れ憂悲(うひ)して、世間(せけん)の苦(く)の一(いち)に非(あら)ざる所以(ゆえん)は、
但(ただ)愛有(あいう)に縁(よ)るが為(ため)なり、愛(あい)を離(はな)れれば則(すなわ)ち憂(うれ)い無(な)し。


※恩愛:愛情に対する執着
※情欲:欲望
※憂愛多くは:憂いや愛欲の多くは
※潺々として池于盈つ:水がさらさらと流れこみ池を満たす如く
※憂悲:憂いや悲しみ
※苦の一に非ざる所以は:多くの苦しみの理由は
※愛有:愛欲


[17]268頁、[21]368頁


(337)


これにより我は汝らに言おう、ここに集まった者は、愛欲の根を掘れ、香しい優尸羅(ウシーラ、ビーラナ草の根)を求める人が、毘羅拏草(ビーラナ草)を掘るように、水流が葦を押し流すように、魔王が再三汝らを砕くことがないように。


This salutary word I tell you, `Do ye, as many as are here assembled, dig up the root of thirst, as he who wants the sweet-scented Usira root must dig up the Birana grass, that Mara (the tempter) may not crush you again and again, as the stream crushes the reeds.'


taṁ vo vadāmi bhaddaṁ vo yāvantettha samāgatā, taṇhāya mūlaṁ khaṇatha usīratthova bīraṇaṁ; mā vo naḷaṁva sotova māro bhañji punappunaṁ.


為道行者 不与欲会
先誅愛本 無所植根
勿如刈葦 令心復生


道(どう)を為(な)す行者(ぎょうしゃ)は、欲(よく)与(と)会(え)せ不(ず)、
先(ま)ず愛(あい)の本(もと)を誅(ちゅう)して、根(こん)を植(う)うる所(ところ)無(な)く、
葦(い)を刈(か)るが如(ごと)くして、心(こころ)に復(また)生(しょう)ぜ令(し)むること勿(な)し。


※道:仏の道
※愛の本を誅して:愛欲のもとを滅ぼして
※根:愛欲の根
※葦を刈るが如くして:葦(あし)を根こそぎ刈り取るようにして
※心に復生ぜ令むること勿し:こころに二度と愛欲を生じてはならない


[17]269頁


(338)


樹の根を損なわず、堅固であれば、樹を切っても、再び成長するように、愛欲の煩悩の根を断たなければ、この生死の苦しみは再び起きる。


As a tree, even though it has been cutdown, is firm so long as its root is safe, and grows again, thus, unless the feeders of thirst are destroyed, the pain (of life) will return again and again.


yathāpi mūle anupaddave daḷhe chinnopi rukkho punar eva rūhati, evampi taṇhānusaye anūhate nibbattatī dukkhamidaṁ punappunaṁ.


如樹根深固 雖截猶復生
愛意不尽除 趣当還受苦


樹根(じゅこん)深固(じんこ)ならば、截(き)ると雖(いえど)も猶(なお)復(また)生(しょう)ずる如(ごと)く、
愛意(あいい)尽(ことごと)く除(のぞ)か不(ず)んば、趣(しゅ)は当(まさ)に還(かえっ)て苦(く)を受(う)くべし。


※樹根深固ならば:木の根が深くしっかり大地におろしていたら
※愛意:愛欲
※趣は当に還て苦を受くべし:この考え(愛欲)がまた生じて苦しみを受ける


[17]270頁


(339)


快楽するものに向かって流れる、三十六(多くの欲情)の流れが強ければ、貪愛より生まれる分別の波は、その悪しき見解の人を流し去る。


He whose thirst running towards pleasure is exceeding strong in the thirty-six channels, the waves will carry away that misguided man, viz. his desires which are set on passion.


yassa chattiṁsati sotā manāpasavanā bhusā, mahāvahanti duddiṭṭhiṁ saṁkappā rāganissitā.


三十六使流 幷及心意漏
数々有邪見 依於欲想結


三十六使(さんじゅうろくし)の流(なが)れは、幷(なら)び及(およ)び心意(しんい)は漏(も)れる、
数々(さくさく)邪見(じゃけん)有(あ)り、欲想(よくそう)に依(よ)って結(むす)ぶ。


※三十六使:多くの欲情
※幷び及び心意は漏れる:並行してわが心に煩悩をおこす
※数々邪見有り:かずかずのよこしまな見解が有り
※欲想に依って結ぶ:自らの欲望の想いによって邪見と結ばれる


[17]271頁、[21]370頁、[26]133頁


(340)


愛欲の流れはあらゆる方向に流れ、その蔓は芽生える、蔓の生じるのを見たなら智慧をもってその根を断て。


The channels run everywhere, the creeper (of passion) stands sprouting; if you see the creeper springing up, cut its root by means of knowledge.


savanti sabbadhi sotā latā uppajja tiṭṭhati, tañca disvā lataṁ jātaṁ mūlaṁ paññāya chindatha.


一切意流衍 愛結如葛藤
唯慧分別見 能断意根原


一切(いっさい)の意(い)は流衍(るえん)し、愛結(あいけつ)は葛藤(かっとう)の如(ごと)し、
唯(ただ)慧(え)のみ分別(ふんべつ)して見(み)、能(よ)く意(い)の根原(こんげん)を断(た)つ。


※一切の意は流衍し:一切のこころは常に水が流れ広がるように絶え間なく
※愛結は葛藤の如し:愛欲は煩悩のごとし
※慧のみ分別して見:智慧により善悪を選び分けて観る
※能く意の根原を断つ:よくこころの煩悩の根元を断つ


[11]149頁、[17]272頁


(341)


人の喜悦は広がり、かつ愛着している、このような人は歓楽に耽り、快楽を求めて、生と老(病と死)とを受ける。


A creature's pleasures are extravagant and luxurious; sunk in lust and looking for pleasure, men undergo (again and again) birth and decay.


saritāni sinehitāni ca somanassāni bhavanti jantuno, te sātasitā sukhesino te ve jātijarūpagā narā.


夫従愛潤沢 思想為滋蔓
愛欲深無底 老死是用増


夫(そ)れ愛(あい)の潤沢(じゅんたく)に従(したが)えば、思想(しそう)は滋蔓(じまん)と為(な)す、
愛欲(あいよく)は深(ふか)くして底(そこ)無(な)く、老死(ろうし)は是(これ)を用(もっ)て増(ま)す。


※愛の潤沢に従えば:豊富にある愛欲に従えば
※思想は滋蔓と為す:その愛欲の想いはますます広がる
※老死は是を用て増す:年老いて死に至る時でさえも愛欲は増す


[08]115頁


(342)


渇愛に駆り立てられる人は、まるで罠にかかった兎のように走り回る、束縛と執着とに捕らえられ長い間しばしば苦しみを受ける。


Men, driven on by thirst, run about like a snared hare; held in fetters and bonds, they undergo pain for a long time, again and again.


tasiṇāya purakkhatā pajā parisappanti sasova bandhito, saṁyojanasaṁgasattakā, dukkhamupenti punappunaṁ cirāya.


衆生愛纒裏 猶兎在於罠
為結使所纒 数々受苦悩


衆生(しゅじょう)の愛(あい)に纒裏(てんり)せらるるは、猶(なお)し兎(うさぎ)の罠(わな)に在(あ)るがごとし、
結使(けっし)の纒(まと)う所(ところ)と為(な)り、数々(さくさく)苦悩(くのう)を受(う)く。


※衆生の愛に纒裏せらるるは:人々の愛欲にまとわりつかれるのは
※猶し兎の罠に在るがごとし:まるで兎が罠にかかったようなもの
※結使(けっし)の纒(まと)う所:煩悩のまとわりつくところ
※数々:かずかずの


[15]20頁、[16]215頁、[25]152頁


(343)


渇愛に駆り立てられる人は、まるで罠にかかった兎のように走り回る、このように比丘は、己の離欲を求めて、渇愛を除け。


Men, driven on by thirst, run about like a snared hare; let therefore the mendicant drive out thirst, by striving after passionlessness for himself.


tasiṇāya purakkhatā pajā parisappanti sasova bandhito, tasmā tasiṇaṁ vinodaye ākaṁkhanta virāgam attano.


若能滅彼愛 三有無復愛
比丘已離愛 寂滅帰泥洹


若(も)し能(よ)く彼(か)の愛(あい)を滅(めっ)せば、三有(さんう)に復(ま)た愛(あい)無(な)く、
比丘(びく)已(すで)に愛(あい)を離(はな)るれば、寂滅(じゃくめつ)して泥洹(ないおん)に帰(き)す。


※愛:愛欲
※三有:この世(欲界・色界・無色界)に生存していること
※比丘:修行者
※寂滅して泥洹に帰す:こころ静まり涅槃(悟りの境地)に入る


[17]273頁、[21]372頁


(344)


欲望の森を出た者が、また欲望の森に心を委ね、欲望の森を逃れた者が、また欲望の森を走り回る、この者を見よ、束縛より脱して、再び束縛を求めている。


He who having got rid of the forest (of lust) (i.e. after having reached Nirvana) gives himself over to forest-life (i.e. to lust), and who, when removed from the forest (i.e. from lust), runs to the forest (i.e. to lust), look at that man! though free, he runs into bondage.


yo nibbanatho vanādhimutto vanamutto vanam eva dhāvati, taṁ puggalametha passatha mutto bandhanameva dhāvati.


非園脱於園 脱園復就園
当復観比人 脱縛復就縛


園(おん)を非(あら)ずとして園(おん)より脱(だっ)し、園(おん)を脱(だっ)して復(ま)た園(おん)に就(つ)かば、
当(まさ)に復(ま)た比(こ)の人(ひと)を観(かん)ずべし、縛(ばく)を脱(だっ)して復(ま)た縛(ばく)に就(つ)くものなり。


※園:欲の世界
※観ずべし:観察すべし、あきらかに観るべし
※縛を脱して復た縛に就くものなり:とらわれから脱しまた自らとらわれるようなもの


(345)


鉄製、木製、又は麻紐でできたものを、賢人は堅固な束縛とは言わない、宝石や指輪、妻や子に対する愛着こそ、堅固な束縛である。


Wise people do not call that a strong fetter which is made of iron, wood, or hemp; far stronger is the care for precious stones and rings, for sons and a wife.


na taṁ daḷhaṁ bandhanamāhu dhīrā, yadāyasaṁ dārujapabbajañca, sārattarattā maṇikuṇḍalesu puttesu dāresu ca yā apekkhā.


雖獄有鉤鏁 慧人不謂牢
愚見妻子息 染著愛甚牢


獄(ごく)に鉤鏁(こうさ)有(あ)りと雖(いえど)も、慧人(えにん)は牢(かた)しと謂(い)わ不(ず)、
愚(ぐ)の妻子息(さいしそく)を見(み)て、染著(せんじゃく)する愛(あい)は甚(はなは)だ牢(かた)し。


※獄に鉤鏁有りと雖も:牢獄のかぎやくさりを見ても
※慧人:智慧者
※牢しと謂わ不:堅固ないましめではない
※愚の妻子息を見て:愚かな者は妻や子供を見て
※染著する愛は甚だ牢し:これに執着する愛欲は非常に堅固ないましめである


[16]216頁


(346)


重く垂れ、緩いけれど、逃れ難い、賢者はこれを堅固な束縛と言う、彼等は顧みることなく、これらを切り、欲楽を断って遍歴する。


That fetter wise people call strong which drags down, yields, but is difficult to undo; after having cut this at last, people leave the world, free from cares, and leaving desires and pleasures behind.


etaṁ daḷhaṁ bandhanamāhu dhīrā ohārinaṁ sithilaṁ duppamuñcaṁ, etampi chetvāna paribbajanti anapekkhino kāmasukhaṁ pahāya.


慧説愛為獄 深固難得出
是故当断棄 不視欲能安


慧(え)は愛(あい)の獄(ごく)たり、深固(じんこ)にして出(い)ずるを得(え)難(がた)しと説(と)く、
是(この)故(ゆえ)に当(まさ)に断棄(だんき)すべし、欲(よく)を視(み)不(ざ)れば能(よ)く安(やす)し。


※慧は愛の獄たり:智慧者は愛欲が牢獄であり
※深固にして出ずるを得難し:深くしっかりしているので出ることがむずかしい
※断棄:(愛欲を)切り捨てる
※欲を視不れば能く安し:愛欲を起こさなければやすらかとなる


[16]216頁


(347)


貪欲にとらわれた人は、自ら作った流れに沿って行く、蜘蛛が自ら造った網に沿って行くように、賢者は顧みることなく、これらを切り、欲楽を断って進み行く。


Those who are slaves to passions, run down with the stream (of desires), as a spider runs down the web which he has made himself; when they have cut this, at last, wise people leave the world free from cares, leaving all affection behind.


ye rāgarattānupatanti sotaṁ sayaṁkataṁ makkaṭakova jālaṁ, etampi chetvāna vajanti dhīrā anapekkhino sabbadukkhaṁ pahāya.


以婬楽自裹 譬如蚕作繭
智者能断棄 不盻除衆苦


婬楽(いんらく)を以(もっ)て自(みずか)らを裹(つつ)むは、譬(たと)えば蚕(さん)の繭(けん)を作(つく)るが如(ごと)し、
智者(ちしゃ)は能(よ)く断棄(だんき)し、盻(けい)せ不(ず)して衆苦(しゅく)を除(のぞ)く。


※婬楽を以て自らを裹むは:みだらな楽しみをもって自ら執着ことは
※蚕の繭を作るが如し:かいこが糸を出して自らをつつむようなもの
※断棄:(婬楽を)切り捨てる
※盻せ不して衆苦を除く:かえりみることなく多くの苦しみをのぞく


(348)


我々の存在している世界は、すべて無常であると突き止め、先(過去)を離れ、中(現在)を離れ、後(未来)を離れ、心がすべてのものから解脱し、再び生と老とを受けない。


Give up what is before, give up what is behind, give up what is in the middle, when thou goest to the other shore of existence; if thy mind is altogether free, thou wilt not again enter into birth and decay.


muñca pure muñca pacchato majjhe muñca bhavassa pāragū, sabbattha vimuttamānaso na punaṁ jātijaraṁ upehisi.


捨前捨後 捨間越有
一切尽捨 不受生死


前(まえ)を捨(す)て後(のち)を捨(す)て、間越(かんえつ)の有(う)を捨(す)て、
一切(いっさい)尽(ことごと)く捨(す)つれば、生死(しょうじ)を受(う)け不(じ)。


※前を捨て後を捨て:過去への執着をすて未来への執着をすて
※間越の有を捨て:現在への執着をすて
※生死を受け不:まよいの世界に輪廻転生することはない


[11]206頁


(349)


思い悩み混乱して、貪欲が激しく、生活に安楽を求める人の、愛欲は益々増大する、彼は真に束縛を堅固にする。


If a man is tossed about by doubts, full of strong passions, and yearning only for what is delightful, his thirst will grow more and more, and he will indeed make his fetters strong.


vitakkamathitassa jantuno tibbarāgassa subhānupassino, bhiyyo taṇhā pavaḍḍhati esa kho daḷhaṁ karoti bandhanaṁ.


心念放逸者 見婬以為浄
恩愛意盛増 従是造獄牢


心(こころ)に放逸(ほういつ)を念(ねん)ずる者(もの)は、婬(いん)を見(み)て以(もっ)て浄(じょう)と為(な)し、
恩愛(おんあい)の意(こころ)盛(さか)んに増(ま)し、是(これ)に従(したが)って獄牢(ごくろう)を造(つく)る。


※放逸:仏道にはげまず、なまける
※念:心に思う
※婬を見て以て浄と為し:みだらな行いを見ても清らかなものとなし
※恩愛の意盛んに増し:愛情に対する執着のこころはいよいよ増し


[25]198頁


(350)


思い悩みの静寂を楽しみ、常に熟慮し、不浄を観ずる人は、必ず魔王の束縛を滅ぼし、これを断ち切る。


If a man delights in quieting doubts, and, always reflecting, dwells on what is not delightful (the impurity of the body, &c.), he certainly will remove, nay, he will cut the fetter of Mara.


vitakkūpasame ca yo rato asubhaṁ bhāvayate sadā sato, esa kho byanti kāhiti esa checchati mārabandhanaṁ.


覚意滅婬者 常念欲不浄
従是出邪獄 能断老死患


意(こころ)を覚(さと)し婬(いん)を滅(めっ)せし者(もの)は、常(つね)に欲(よく)の不浄(ふじょう)を念(おも)わば、
是(これ)に従(したが)って邪獄(じゃごく)を出(い)でて、能(よ)く老死(ろうし)の患(うれい)を断(だん)ず。


※意を覚し婬を滅せし者は:こころが目覚めてみだらな欲をなくした者は
※欲:愛欲
※邪獄を出でて:よこしまで牢獄のような迷いの世の中を出て
※老死の患を断ず:老いて死ぬことにうれい悩むことは無い


(351)


究極の悟りの境地に至り恐れず、愛欲を離れて罪の汚れなく、諸々の生存の矢を断つ、これが最後の身体であり、再び輪廻しない。


He who has reached the consummation, who does not tremble, who is without thirst and without sin, he has broken all the thorns of life: this will be his last body.


niṭṭhaṅgato asantāsī vītataṇho anaṁgaṇo, acchindi bhavasallāni antimoyaṁ samussayo.


無欲無有畏 恬淡無憂患
欲除使結解 是為長出渕


欲(よく)無(な)く畏(おそれ)有(あ)ること無(な)く、恬淡(てんたん)として憂患(うげん)無(な)く、
欲(よく)除(のぞ)き使結(しけつ)解(と)くる、是(これ)を長(なが)く渕(ふち)を出(い)ずると為(な)す。


※欲:愛欲
※恬淡として憂患無く:物事に執着せず心配してこころをいためることがなく 
※使結解くる:煩悩をなくす
※渕:迷いの世界


(352)


愛欲を離れ、執着なく、聖典の言葉の意味に通達し、文字の集合と文脈の前後とを知る人は、その人こそ最後の身体を有する大智慧者と言われる。


He who is without thirst and without affection, who understands the words and their interpretation, who knows the order of letters (those which are before and which are after), he has received his last body, he is called the great sage, the great man.


vītataṇho anādāno niruttipadakovido, akkharānaṁ sannipātaṁ jaññā pubbāparāni ca, sa ve “antimasārīro mahāpañño mahāpuriso” ti vuccati.


尽道除獄縛 一切此彼解
已得度辺行 是為大智士


道(みち)を尽(つく)して獄縛(ごくばく)を除(のぞ)き、一切(いっさい)の此彼(しひ)解(と)け、
已(すで)に辺行(へんぎょう)を度(ど)するを得(う)る、是(こ)れを大智士(だいちし)と為(な)す。


※道を尽して獄縛を除き:仏の道を修行して欲望に執着した世界を脱し
※一切の此彼解け:迷いの境地と悟りの境地のすべてを理解して
※已に辺行を度するを得る:すでに迷いの世界を渡り得る
※大智士:大いなる智慧者


[16]217頁、[17]274頁


(353)


我は一切に勝ち、一切を知る、一切の出来事に汚されず、一切を捨て、愛欲を滅尽して解脱する、一人みずからさとる、誰を師と呼ぼうか。


`I have conquered all, I know all, in all conditions of life I am free from taint; I have left all, and through the destruction of thirst I am free; having learnt myself, whom shall I teach?'


sabbābhibhū sabbavidū ’hamasmi sabbesu dhammesu anūpalitto, sabbañjaho taṇhakkhaye vimutto sayaṁ abhiññāya kamuddiseyyaṁ.


若覚一切法 能不著諸法
一切愛意解 是為通聖意


若(も)し一切(いっさい)の法(ほう)を覚(さと)り、能(よ)く諸法(しょほう)に著(じゃく)せ不(ず)、
一切(いっさい)の愛意(あいい)解(と)くる、是(これ)を聖意(せいい)に通(つう)ずと為(な)す。


※一切の法を覚り:すべての仏の教えをさとりきわめて
※諸法に著せ不:もろもろの仏の教えのおいてとらわれなく
※愛意:愛欲
※聖意:仏のこころ


[10]140頁


(354)


法施は一切の施しに勝れ、法味は一切の味に勝れ、法楽は一切の楽しみに勝れ、愛欲の滅尽は一切の苦しみに勝れる。


The gift of the law exceeds all gifts; the sweetness of the law exceeds all sweetness; the delight in the law exceeds all delights; the extinction of thirst overcomes all pain.


sabbadānaṁ dhammadānaṁ jināti sabbarasaṁ dhammaraso jināti, sabbaratiṁ dhammarati jināti taṇhakkhayo sabbadukkhaṁ jināti.


衆施経施勝 衆味道味勝
衆楽法楽勝 愛尽勝衆苦


衆施(しゅせ)は経施(きょうせ)勝(すぐ)れ、衆味(しゅみ)は道味(どうみ)勝(すぐ)れ、
衆楽(しゅらく)は法楽(ほうらく)勝(すぐ)れ、愛(あい)尽(つ)くれば衆苦(しゅく)に勝(か)つ。


※衆施は経施勝れ:おおくの布施のなかでは法施(仏法を施す)がすぐれ
※衆味は道味勝れ:おおくのあじわいのなかでは仏の道のあじわいがすぐれ
※衆楽は法楽勝れ:おおくの楽しみのなかでは仏法の教えを学ぶ楽しみがすぐれ
※愛尽くれば衆苦に勝つ:愛欲が尽きれば多くの苦しみに勝つ


[10]182頁、[14]190頁、[17]275頁、[21]374頁


(355)


諸々の財産は、悟りの境地を求めない愚か者を殺す、愚か者は、財産を貪り、敵を殺すように自らを殺す。


Pleasures destroy the foolish, if they look not for the other shore; the foolish by his thirst for pleasures destroys himself, as if he were his own enemy.


hananti bhogā dummedhaṁ no ca pāragavesino, bhogataṇhāya dummedho hanti aññeva attanaṁ.


愚以貪自縛 不求度彼岸
為貪愛欲故 害人亦自害


愚(ぐ)は貪(とん)を以(もっ)て自(みずか)ら縛(ばく)し、彼岸(ひがん)に度(ど)するを求(もと)め不(ず)、
愛欲(あいよく)を貪(むさぼ)る為(ため)の故(うえ)に、人(ひと)を害(がい)し亦(また)自(みずか)らを害(がい)す。


※愚は貪を以て自ら縛し:愚か者は貪欲、むさぼり求める心に自らとらわれ
※彼岸に度するを求め不:涅槃に渡ろうとしない


[22]59頁


(356)


田地は雑草により損なわれ、この世の人は貪欲により損なわれる、故に貪欲を離れた者に施せば、大きな果報がある。


The fields are damaged by weeds, mankind is damaged by passion: therefore a gift bestowed on the passionless brings great reward.


tiṇadosāni khettāni rāgadosā ayaṁ pajā, tasmā hi vītarāgesu dinnaṁ hoti mahapphalaṁ.


愛欲意為田 婬怒癡為種
故施度世者 得福無有量


愛欲(あいよく)の意(こころ)を田(た)と為(な)し、婬(いん)と怒(おん)と癡(ち)とを種(たね)と為(な)す、
故(ゆえ)に世(よ)を度(ど)する者(もの)に施(ほどこ)さば、福(ふく)を得(え)ること量(りょう)有(あ)ること無(な)し。


※愛欲の意を田と為し:愛欲のこころを田んぼとなして
※婬と怒と癡とを種と為す:貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)と愚痴(おろか)の三つの煩悩の種となす
※故に世を度する者に施さば:ゆえに迷いの世界を渡る者に仏法を施せば
※福を得ること量有ること無し:幸福を得ることはかり知れない


[08]112頁、[21]376頁


(357)


田地は雑草により損なわれ、この世の人は瞋恚により損なわれる、故に瞋恚を離れた者に施せば、大きな果報がある。


The fields are damaged by weeds, mankind is damaged by hatred: therefore a gift bestowed on those who do not hate brings great reward.


tiṇadosāni khettāni dosadosā ayaṁ pajā, tasmā hi vītadosesu dinnaṁ hoti mahapphalaṁ.


雑草害田地 瞋恚害世人
施与離瞋者 故得大果報


田地(でんじ)は雑草(ざっそう)により害(そこ)なわれ、世人(せじん)は瞋恚(しんい)により害(そこ)なわれる、
故(ゆえ)に瞋(しん)を離(はな)れた者(もの)に施(ほどこ)しを与(あた)えるならば、大(だい)なる果報(かほう)を得(え)る。


※田地:田畑
※世人は瞋恚により:世の人は怒りにより
※施し:供養、布施
※果報:よい行いの結果幸福になること


(358)


田地は雑草により損なわれ、この世の人は愚癡により損なわれる、故に愚癡を離れた者に施せば、大きな果報がある。


The fields are damaged by weeds, mankind is damaged by vanity: therefore a gift bestowed on those who are free from vanity brings great reward.


tiṇadosāni khettāni mohadosā ayaṁ pajā, tasmā hi vītamohesu dinnaṁ hoti mahapphalaṁ.


雑草害田地 愚癡害世人
施与離癡者 故得大果報


田地(でんじ)は雑草(ざっそう)により害(そこ)なわれ、世人(せじん)は愚癡(ぐち)により害(そこ)なわれる、
故(ゆえ)に癡(ち)を離(はな)れた者(もの)に施(ほどこ)しを与(あた)えるならば、大(だい)なる果報(かほう)を得(え)る。


※田地:田畑
※世人:世の人
※愚癡:愚かで物事の道理を知らない
※果報:よい行いの結果幸福になること


(359)


田地は雑草により損なわれ、この世の人は欲望により損なわれる、故に欲望を離れた者に施せば、大きな果報がある。


The fields are damaged by weeds, mankind is damaged by lust: therefore a gift bestowed on those who are free from lust brings great reward.


tiṇadosāni khettāni icchādosā ayaṁ pajā, tasmā hi vigaticchesu dinnaṁ hoti mahapphalaṁ.


雑草害田地 欲望害世人
施与離欲者 故得大果報


田地(でんじ)は雑草(ざっそう)により害(そこ)なわれ、世人(せじん)は欲望(よくぼう)により害(そこ)なわれる、
故(ゆえ)に欲(よく)を離(はな)れた者(もの)に施(ほどこ)しを与(あた)えるならば、大(だい)なる果報(かほう)を得(え)る。


※田地:田畑
※世人:世の人
※果報:よい行いの結果幸福になること


[09]150頁、[19]49頁




25章 比丘の章

Chapter XXV. The Bhikshu (Mendicant)
25. bhikkhuvagga
25章 沙門品


(360)


眼を護るは善い、耳を護るは善い、鼻を護るは善い、舌を護るは善い。


Restraint in the eye is good, good is restraint in the ear, in the nose restraint is good, good is restraint in the tongue.


cakkhunā saṁvaro sādhu, sādhu sotena saṁvaro, ghānena saṁvaro sādhu, sādhu jivhāya saṁvaro.


端目耳鼻口 身意常守正
比丘行如是 可以免衆苦


目(め)と耳(みみ)と鼻(はな)と口(くち)とを端(ただ)しくし、身(しん)と意(い)と常(つね)に正(しょう)を守(まも)る、
比丘(びく)の行(ぎょう)ずる是(かく)の如(ごと)くんば、以(もっ)て衆苦(しゅく)を免(まぬが)る可(べ)し。


※端しくし:正しくし
※正を守る:正道(仏の道)を守る
※比丘の行ずる:修行者の行い
※衆苦:多くの苦しみ


[06]154頁、[17]278頁、[21]382頁、[22]207頁、[23]188頁


(361)


身体を護るは善い、言葉を護るは善い、心を護るは善い、すべてを護るは善い。


In the body restraint is good, good is restraint in speech, in thought restraint is good, good is restraint in all things. A Bhikshu, restrained in all things, is freed from all pain.


kāyena saṁvaro sādhu, sādhu vācāya saṁvaro, manasā saṁvaro sādhu, sādhu sabbattha saṁvaro, sabbattha saṁvuto bhikkhu sabbadukkhā pamuccati.


護身為善哉 護口善亦然
護意為善哉 護一切亦然
比丘護一切 能尽苦限際


身(しん)に為(よ)り護(まも)るは善哉(よいかな)、口(く)を善(よ)く護(まも)るも亦(また)然(しか)り、
意(い)に為(よ)り護(まも)るは善哉(よいかな)、一切(いっさい)を護(まも)るも亦(また)然(しか)り、
一切(いっさい)において護(まも)られた比丘(びく)は、際限(さいげん)能(よ)く苦(く)を尽(つ)きる。


※際限能く苦を尽きる:すべての苦しみを尽きる


[06]155頁、[17]279頁、[22]205頁、[23]194頁


(362)


手を制し、足を制し、言葉を制し、最も善く制し、内心に楽しみ、心を定住し、独りでいて、満足する人を比丘と言う。


He who controls his hand, he who controls his feet, he who controls his speech, he who is well controlled, he who delights inwardly, who is collected, who is solitary and content, him they call Bhikshu.


hatthasaṁyato pādasaṁyato vācāsaṁyato saṁyatuttamo, ajjhattarato samāhito eko santusito tamāhu bhikkhuṁ.


手足莫妄犯 節言慎所行
常内楽定意 守一行寂然


手(て)と足(あし)と妄(みだ)りに犯(おか)すこと莫(な)く、言(ごん)を節(せっ)し所行(しょぎょう)を慎(つつし)み、
常(つね)に内(うち)に定意(じょうい)を楽(たの)しみ、一(いち)を守(まも)り寂然(じゃくねん)を行(ぎょう)ぜよ。


※言を節し:言葉を控えて
※所行:おこない
※内に定意を楽しみ:こころは安定し禅定をたのしみ
※一を守り寂然を行ぜよ:ひとり心静かに修行せよ


[17]281頁、[23]201頁


(363)


口を制する比丘は、説くところ賢明にして、冷静に、意義と真理とを示す、その言葉は甘美である。


The Bhikshu who controls his mouth, who speaks wisely and calmly, who teaches the meaning and the law, his word is sweet.


yo mukhasaṁyato bhikkhu mantabhāṇī anuddhato, atthaṁ dhammañca dīpeti madhuraṁ tassa bhāsitaṁ.


学当守口 寡言安徐
法義為定 言必柔軟


学(がく)は当(まさ)に口(くち)を守(まも)るべし、寡言(かげん)安徐(あんじょ)ならば、
法義(ほうぎ)為(ため)に定(さだ)まり、言(ごん)は必(かなら)ず柔軟(にゅうなん)なり。


※学は当に口を守るべし:仏道を学ぶ者はまず口をつつしむべし
※寡言安徐ならば:言葉少なく穏やかに語るならば
※法義為に定まり:仏の教えと正しい理解によりこころは定まり
※言は必ず柔軟なり:言葉は必ずやさしくおだやかになる


[11]65頁、[17]282頁


(364)


法に安住し、法を喜び、法に従い考え、法に従い念じる比丘は、法より退くことなし。


He who dwells in the law, delights in the law, meditates on the law, follows the law, that Bhikshu will never fall away from the true law.


dhammārāmo dhammarato dhammaṁ anuvicintayaṁ, dhammaṁ anussaraṁ bhikkhu saddhammā na parihāyati.


楽法欲法 思惟安法
比丘依法 正而不費
為之為之 必強自制
捨家而懈 意猶復染


法(ほう)を楽(たの)しみ法(ほう)を欲(ほっ)し、思惟(しゆい)して法(ほう)に安(やす)んじ、
比丘(びく)、法(ほう)に依(よ)らば、正(ただ)しくして而(しか)も費(つい)え不(ず)。
之(これ)を為(な)し之(これ)を為(な)して、必(かなら)ず強(つと)めて自(みずか)ら制(せい)せよ、
家(いえ)を捨(す)て而(しか)も懈(おこた)らば、意(い)猶(なお)復(また)染(ぜん)せん。


※法:仏法
※思惟して法に安んじ:正しく考えて仏法に安住し
※比丘:修行者
※正しくして而も費え不:正道にしてしかも無くならない
※之を為し之を為して:常に修行して
※制せよ:戒律を守れ
※家を捨て而も懈らば:出家してもおこたれば
※意猶復染せん:こころはなおもまた執着する


[23]158頁


(365)


自ら得たものに不満を懐くな、他人を羨むな、他人を羨む比丘は、心の安定を得ない。


Let him not despise what he has received, nor ever envy others: a mendicant who envies others does not obtain peace of mind.


salābhaṁ nātimaññeyya nāññesaṁ pihayaṁ care, aññesaṁ pihayaṁ bhikkhu samādhiṁ nādhigacchati.


学無求利 無愛他行
比丘好他 不得定意


学(まな)ぶに利(り)を求(もと)むること無(な)く、他行(たぎょう)を愛(あい)すること無(な)かれ、
比丘(びく)、他(た)を好(この)まば、定意(じょうい)を得(え)不(ず)。


※学ぶに利を求むること無く:仏道を学ぶ者は利益を求めることなく
※他行を愛すること無かれ:他人の行いをおしむこともない
※比丘:修行者
※他を好まば、定意を得不:他人をうらやむならばこころの安定を得ず


[15]12頁、[23]168頁


(366)


自ら得たものが少なくても、それに不満を懐かなければ、神々は、この清らかな生活と、懈怠なき者を、賞讃する。


A Bhikshu who, though he receives little, does not despise what he has received, even the gods will praise him, if his life is pure, and if he is not slothful.


appalābhopi ce bhikkhu salābhaṁ nātimaññati, taṁ ve devā pasaṁsanti suddhājīviṁ atanditaṁ.


比丘少取 以得無積
天人所誉 生浄無穢


比丘(びく)は少(すこ)しく取(と)りて、以(もっ)て積(つ)む無(な)きを得(え)ば、
天人(てんにん)に誉(ほ)め所(ら)れ、浄(じょう)を生(しょう)じて穢(けが)れ無(な)し。


※比丘は少しく取りて:修行者は得るものは少なくて
※積む無きを得ば:たくわえることをしないならば
※天人:天界の人々
※浄を生じて:清らかに生きて


[15]12頁


(367)


あらゆる事物に於いて、自分の所有物という思いがなく、無所有に於いて憂い悩まない人こそ、比丘と言う。


He who never identifies himself with name and form, and does not grieve over what is no more, he indeed is called a Bhikshu.

sabbaso nāmarūpasmiṁ yassa natthi mamāyitaṁ, asatā ca na socati sa ve “bhikkhū” ti vuccati.


一切名色 非有莫惑
不近不憂 乃為比丘


一切(いっさい)の名色(みょうしき)は、有(う)に非(あら)ず惑(まど)うこと莫(なか)れ、
近(ちか)づか不(ず)憂(うれ)え不(ざ)るを、乃(すなわ)ち比丘(びく)と為(な)す。


※一切の名色は:すべての現象世界(名は精神的、色は物質的)は
※有に非ず惑うこと莫れ:無常であり惑うことは無い
※近づか不憂え不る:執着の世界に近づかず憂えないことを
※比丘:修行者


[26]231頁


(368)


常に慈悲の心で行動し、仏教を信じる比丘は、一切の現象の静まった、寂静安楽の境地に至る。


The Bhikshu who acts with kindness, who is calm in the doctrine of Buddha, will reach the quiet place (Nirvana), cessation of natural desires, and happiness.


mettāvihārī yo bhikkhu pasanno buddhasāsane, adhigacche padaṁ santaṁ saṁkhārūpasamaṁ sukhaṁ.


比丘為慈 愛敬仏教
深入止観 滅行乃安


比丘(びく)は慈(じ)を為(な)し、仏(ほとけ)の教(おし)えを愛敬(あいぎょう)し、
深(ふか)く止観(しかん)に入(はい)り、行(ぎょう)を滅(めっ)せば乃(すなわ)ち安(やす)し。


※比丘は慈を為し:修行者はいつくしみの心を持ち
※愛敬:愛し敬う
※止観に入り:こころを静め正しい智慧で物事を観る修行に入り
※行を滅せば乃ち安し:諸行(現象世界)の迷いのこころを無くせばすなわちやすらかとなる


[02]338頁、[04]129頁、[10]73頁、[11]174頁、[13]178頁、[14]106頁


(369)


比丘よ、この舟から水を汲み出せ、水を汲み出せば船は容易に進む、貪欲と瞋恚とを断てば、汝は涅槃に至らん。


O Bhikshu, empty this boat! if emptied, it will go quickly; having cut off passion and hatred thou wilt go to Nirvana.


siñca bhikkhu imaṁ nāvaṁ sittā te lahum essati, chetvā rāgañca dosañca tato nibbānam ehisi.


比丘戽船 中虚則軽
除婬怒癡 是為泥洹


比丘(びく)、船(ふね)を戽(く)め、中虚(ちゅうこ)ならば則(すなわ)ち軽(かろ)し、
婬(いん)と怒(ぬ)と癡(ち)とを除(のぞ)かば、是(これ)を泥洹(ないおん)と為(な)す。


※比丘、船を戽め:修行者よ、船の水を汲みだせ
※中虚ならば則ち軽し:水が無くなれば船は軽く進む
※婬と怒と癡:むさぼり・いかり・愚癡
※泥洹:涅槃、悟りの境地


[02]344頁、[13]162頁、[17]283頁、[25]122頁、[26]284頁


(370)


五(五下分結)を断ち、五(五上分結)を捨て、また五(五根)を修習せよ、五(五執着)を超えたる比丘は、暴流を渡った者と言われる。


Cut off the five (senses), leave the five, rise above the five. A Bhikshu, who has escaped from the five fetters, he is called Oghatinna, `saved from the flood.'


pañca chinde pañca jahe pañca v’ uttari bhāvaye, pañca saṁgātigo bhikkhu “oghatiṇṇo” ti vuccati.


捨五断五 思惟五根
能分別五 乃渡河渕


五(ご)を捨(す)て五(ご)を断(た)ち、五根(ごこん)を思惟(しゆい)し、
能(よ)く五(ご)を分別(ふんべつ)せば、乃(すなわ)ち河渕(かわぶち)を渡(わた)る。


※五を捨て:五下分結=五(有身見、疑、戒禁取、貪欲、瞋恚)、下分(下の領域、欲界)、結(束縛)、衆生を欲界へと縛り付ける五つの束縛としての煩悩の総称
※五を断ち:五上分結=五(色貪、無色貪、慢、掉挙、無明)、上分(色界、無色界)、結(束縛)、五下分結を脱した者が阿羅漢果に到達するための最終段階の於ける五つの束縛としての煩悩の総称
※五根を思惟:五根(信、精進、念、定、慧)、悟りを得るための根本力を正しく考えて
※五を分別:五執着(貪欲、瞋恚、愚癡、高慢、邪見)、を理解して選び分ける
※河渕:迷いの世界、俗世間


[11]143頁、[21]384頁、[26]252頁


(371)


比丘よ、瞑想せよ、放逸なるなかれ、汝の心を愛欲に惹かれるなかれ、放逸にして地獄で鉄丸を呑むなかれ、地獄で火に焼かれる時に至り、苦しいと叫ぶなかれ。


Meditate, O Bhikshu, and be not heedless! Do not direct thy thought to what gives pleasure that thou mayest not for thy heedlessness have to swallow the iron ball (in hell), and that thou mayest not cry out when burning, `This is pain.'


jhāya bhikkhu mā pamādo mā te kāmaguṇe ramessu cittaṁ, mā lohaguḷaṁ gilī pamatto mā kandi “dukkhamidan” ti dayhamāno.


禅無放逸 莫為欲乱
不呑鎔銅 自悩燋形


禅(ぜん)にして放逸(ほういつ)する無(な)く、欲乱(よくらん)を為(な)す莫(な)かれ、
鎔銅(ようどう)を呑(の)み、自(みずか)ら悩(なや)み形(かたち)を燋(こが)さ不(ざ)れ。


※禅:こころ静かに集中させる、禅定
※放逸:仏道にはげまず、なまける
※欲乱:欲に乱れる
※鎔銅:とけた銅
※形を燋さ不れ:身体を炎で焦がしてはならない


[11]144頁


(372)


智慧なき人に瞑想なし、瞑想しない人に智慧なし、瞑想と智慧のある人は、すでに涅槃に近づいている。


Without knowledge there is no meditation, without meditation there is no knowledge: he who has knowledge and meditation is near unto Nirvana.


natthi jhānaṁ apaññassa paññā natthi ajhāyato, yamhi jhānañca paññā ca sa ve nibbānasantike.


無禅不智 無智不禅
道従禅智 得至泥洹


禅(ぜん)無(な)くんば智(ち)なら不(ず)、智(ち)無(な)くんば禅(ぜん)なら不(ず)、
道(どう)あるは禅智(ぜんち)に従(したが)い、泥洹(ないおん)に至(いた)るを得(え)る。


※禅:こころ静かに集中させる、禅定
※智:智慧
※道:仏の道
※禅智:禅定と智慧
※泥洹:涅槃、悟りの境地


[04]176頁、[11]145頁、[13]157頁、[14]104頁、[17]284頁、[24]189頁


(373)


空屋に入り、心が静まる比丘は、正しく真理を観じて、人間界に無い楽を受ける。


A Bhikshu who has entered his empty house, and whose mind is tranquil, feels a more than human delight when he sees the law clearly.


suññāgāraṁ paviṭṭhassa santacittassa bhikkhuno, amānusī rati hoti sammā dhammaṁ vipassato.


当学入空 静居止意
楽独屏所 一心観法


当(まさ)に学(まな)んで空(くう)に入(い)りて、静居(じょうこ)して意(こころ)を止(とど)め、
独屏所(どくびょうしょ)を楽(たの)しみ、一心(いっしん)に法(ほう)を観(かん)ず。


※学んで:仏道を学んで
※空に入りて:すべての存在、あるいは存在現象は空であると観ずることに集中して
※静居して意を止め:静かな場所でこころをしずめて
※独屏所を楽しみ:人里を離れて一人の居場所を楽しみ


[11]145頁


(374)


人がもし五蘊の生滅を思惟することがあれば、不死(真理)を悟り喜楽を得る。


As soon as he has considered the origin and destruction of the elements (khandha) of the body, he finds happiness and joy which belong to those who know the immortal (Nirvana).


yato yato sammasati khandhānaṁ udayabbayaṁ, labhatī pītipāmojjaṁ amataṁ taṁ vijānataṁ.


当制五陰 伏意如水
清浄和悦 為甘露味


当(まさ)に五陰(ごおん)を制(せい)し、意(こころ)を伏(ふく)して水(みず)の如(ごと)く、
清浄(しょうじょう)に和悦(わえつ)して、甘露(かんろ)の味(あじ)を為(な)す。


※五陰を制し:肉体と精神を色・受・想・行・識の五つに分けたもの、五蘊(ごうん)の煩悩を制し
※意を伏して水の如く:こころをおさめて水面が鏡のように静かに
※清浄に和悦して:清らかで穢れがなく、なごみよろこんで
※甘露:悟りをひらく、涅槃


(375)


現世に於ける、智慧ある比丘の最初に行うことは、感官を護り、満足し、道徳の規律を護り、生活正しく、善友と交われ。


And this is the beginning here for a wise Bhikshu: watchfulness over the senses, contentedness, restraint under the law; keep noble friends whose life is pure, and who are not slothful.


tatrāyamādi bhavati idha paññassa bhikkhuno, indriyagutti santuṭṭhi pātimokkhe ca saṁvaro. mitte bhajassu kalyāṇe suddhājīve atandite.


不受所有 為慧比丘
摂根知足 戒律悉持


所有(しょう)を受(う)け不(ざ)るを、慧比丘(えびく)と為(な)す、
根(こん)を摂(おさ)め足(た)るを知(し)る、戒律(かいりつ)悉(ことごと)く持(じ)す。


※所有を受け不る:自らに執着せずあらゆるものにとらわれない
※慧比丘と為す:このような修行者は智慧者である
※根を摂し:眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官(六根)をおさめて
※足るを知る:必要なものは備わっていることを知る
※戒律悉く持す:戒律をすべて守る


(376)


布施を常とし、善い行いをせよ、これにより喜び多く、苦しみを滅尽する。


Let him live in charity, let him be perfect in his duties; then in the fulness of delight he will make an end of suffering.


paṭisanthāravutt’ assa ācārakusalo siyā, tato pāmojjabahulo dukkhassantaṁ karissati.


生当行浄 求善師友
智者成人 度苦致喜


生(い)きて当(まさ)に浄(じょう)を行(ぎょう)じ、善師友(ぜんしゆう)を求(もと)む、
智者成人(ちしゃじょうにん)は、苦(く)を度(ど)し喜(き)を致(いた)す。


※生きて当に浄を行じ:人生をまさに清らかに生きて
※善師友:善き師善き友
※智者成人:智慧者
※苦を度し喜を致す:苦しみを渡り喜びにいたる


(377)


衞師迦(エシカ草、ジャスミン)が、萎れた花をふるい落すように、諸々の比丘は貪欲と瞋恚とを離れよ。


As the Vassika plant sheds its withered flowers, men should shed passion and hatred, O ye Bhikshus!


vassikā viya pupphāni maddavāni pamuñcati, evaṁ rāgañ ca dosañ ca vippamuñcetha bhikkhavo.


如衞師華 熟知自墮
釈婬怒癡 生死自解


衞師華(えしけ)の熟(じゅく)すれば自(みずか)ら墮(お)つるを知(し)る如(ごと)く、
婬(いん)と怒(ぬ)と癡(ち)とを釈(と)けば、生死(しょうじ)自(おのずか)ら解(と)く。


※衞師華の熟すれば:ジャスミンの花が熟したならば
※自ら墮つるを知る如く:自ら花びらを落とすことを知るように
※婬と怒と癡とを釈けば:むさぼり・いかり・愚癡を理解すれば
※生死自ら解く:輪廻転生する世界から自ら解脱できる


[01]153頁、[02]348頁、[04]36頁、[27]79頁


(378)


身体も静か、言葉も静か、心も静かにして、よく禅定を得て、すでに世間の財利を吐き出した比丘は、寂静なる者と言われる。


The Bhikshu whose body and tongue and mind are quieted, who is collected, and has rejected the baits of the world, he is called quiet.


santakāyo santavāco santavā susamāhito, vantalokāmiso bhikkhu upasanto ti vuccati.


止身止言 心守玄黙
比丘棄世 是為受寂


身(しん)を止(と)め言(ごん)を止(と)め、心(こころ)に玄黙(げんもく)を守(まも)り、
比丘(びく)の世(よ)を棄(す)つる、是(こ)れを受寂(じゅじゃく)と為(な)す。


※身を止め言を止め:我が身をしずめ言葉をつつしみ
※玄黙:おくゆかしくしずか
※比丘の世を棄つる:修行者はこの世の執着を捨て去る
※受寂:悟りの境地


[14]180頁、[16]41頁76頁、[22]211頁


(379)


自ら戒め、己を改め、熟慮し、己を護る比丘は、安楽に住む。


Rouse thyself by thyself, examine thyself by thyself, thus self-protected and attentive wilt thou live happily, O Bhikshu!


attanā codayattānaṁ paṭimaṁsetha attanā, so attagutto satimā sukhaṁ bhikkhu vihāhisi.


当自勅身 内与心争
護身念諦 比丘惟安


当(まさ)に自(みずか)ら身(み)を勅(いまし)め、内(うち)に心(こころ)と争(あらそ)うべし、
身(しん)を護(まも)り諦(たい)を念(ねん)ぜば、比丘(びく)惟(こ)れ安(やす)し。


※内に心と争うべし:自らのこころに起きる執着と争うべし
※諦を念ぜば:四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理を心に思えば
※比丘惟れ安し:修行者はやすらかとなる


[14]111頁、[17]285頁


(380)


己を以て己の主とし、己を以て己の拠り所とする、故に己を制御せよ、商人が良馬を制御するように。


For self is the lord of self, self is the refuge of self; therefore curb thyself as the merchant curbs a good horse.


attā hi attano nātho attā hi attano gati, tasmā saññamay’ attānaṁ assaṁ bhadraṁ va vāṇijo.


我自為我 計無有我
故当損我 調乃為賢


我(が)は自(みずか)ら我(が)と為(な)り、我(が)有(あ)ること無(な)しと計(けい)す、
故(ゆえ)に当(まさ)に我(が)を損(そん)すべし、調(なつく)るを乃(すなわ)ち賢(けん)と為(な)す。


※我は自ら我と為り:自分というそのものが自分であり
※我有ること無しと計す:自我が有ることは無いと考えよ
※我を損すべし:自我への執着を無くすべし
※調るを乃ち賢と為す:自分をよくととのえおさめる者を賢者となす


[06]152頁、[14]108頁、[24]64頁、[25]70頁


(381)


喜悦に満ち、仏陀の教えを信じる比丘は、一切の現象が静まり、寂静の境地に至り、安楽となる。


The Bhikshu, full of delight, who is calm in the doctrine of Buddha will reach the quiet place (Nirvana), cessation of natural desires, and happiness.


pāmojjabahulo bhikkhu pasanno buddhasāsane, adhigacche padaṁ santaṁ saṁkhārūpasamaṁ sukhaṁ.


喜在仏教 可以多喜
至到寂寞 行滅永安


喜(よろこ)び仏(ほとけ)の教(おし)えに在(あ)らば、以(もっ)て喜(よろこ)びを多(た)とす可(べ)く、
寂寞(じゃくまく)に至到(しとう)し、行滅(ぎょうめつ)して永(なが)く安(やす)し。


※喜び仏の教えに在らば:仏の教えが喜びである者は
※寂寞に至到し:寂静(悟りの境地)に到達し
※行滅して永く安し:この世の執着は無くなり永くやすらかとなる


[08]152頁、[14]31頁、[22]212頁


(382)


たとえ少年といえども、ブッダの教えに励む比丘は、この世を照らす、あたかも雲を離れた月のように。


He who, even as a young Bhikshu, applies himself to the doctrine of Buddha, brightens up this world, like the moon when free from clouds.


yo have daharo bhikkhu yuñjati buddhasāsane; somaṁ lokaṁ pabhāseti abbhā mutto va candimā.


儻有少行 応仏教戒
此照世間 如日無噎


儻(も)し少行(しょうぎょう)有(あ)るも、仏(ほとけ)の教戒(きょうかい)に応(おう)ぜば、
此(こ)れ世間(せけん)を照(て)らす、日(ひ)の噎(くも)り無(な)きが如(ごと)し。


※儻し少行有るも:もし少年修行者であっても
※仏の教戒に応ぜば:仏の教えと戒律を実践すれば
※此れ世間を照らす日の噎り無きが如し:雲がかからない太陽のように遍く世間を照らす


[14]46頁、[15]158頁、[17]286頁、[21]386頁、[22]212頁




26章 バラモンの章

Chapter XXVI. The Brahmana (Arhat)
26. brāhmaṇavagga
26章 梵志品


(383)


勇敢に流れ(渇愛)を切れ、欲望を除けよ、婆羅門よ、一切の現象の滅尽を知り、汝は無作(涅槃)を知る、婆羅門よ。


Stop the stream valiantly, drive away the desires, O Brahmana! When you have understood the destruction of all that was made, you will understand that which was not made.


chinda sotaṁ parakkamma kāme panuda brāhmaṇa, saṁkhārānaṁ khayaṁ ñatvā akataññūsi brāhmaṇa.


截流而渡 無欲如梵
知行已尽 是謂梵志


流(なが)れを截(き)りて渡(わた)り、欲(よく)無(な)きこと梵(ぼん)の如(ごと)し、
行(ぎょう)の已(すで)に尽(つ)くるを知(し)る、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※流れを截りて渡り:執着の流れをきって迷いの世界を渡り
※梵:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)
※行の已に尽くるを知る:諸行(現象世界)の迷いのこころを知り尽くす
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


(384)


婆羅門あり、もし二法(止と観)の彼岸に達したならば、この智慧者は一切の束縛を滅尽する。


If the Brahmana has reached the other shore in both laws (in restraint and contemplation), all bonds vanish from him who has obtained knowledge.


yadā dvayesu dhammesu pāragū hoti brāhmaṇo, athassa sabbe saṁyogā atthaṁ gacchanti jānato.


以無二法 清浄渡渕
諸欲結解 是謂梵志


二法(にほう)無(な)きを以(もっ)て、清浄(しょうじょう)に渕(ふち)を渡(わた)り、
諸(もろもろ)の欲結(よくけつ)を解(と)くるを、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※二法無き:止と観(対象に心を集中し、あきらかに観る)の二つしか無い
※清浄に渕を渡り:清らかで穢れなく迷いの世界を渡り
※欲結を解くる:欲望と執着、煩悩を理解する
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[17]290頁、[22]215頁、[26]252頁


(385)


彼岸もなく、此岸もなく、彼岸此岸もなく、恐れもなく、束縛もない人を、我は婆羅門と言う。


He for whom there is neither this nor that shore, nor both, him, the fearless and unshackled, I call indeed a Brahmana.


yassa pāraṁ apāraṁ vā pārāpāraṁ na vijjati, vītaddaraṁ visaṁyuttaṁ tamahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


適彼無彼 彼々已空
捨離貪婬 是謂梵志


彼(かれ)に適(ゆ)くに彼(かれ)無(な)く、彼々(ひひ)已(すで)に空(むな)しく、
貪婬(とんいん)を捨離(しゃり)する、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※彼に適くに彼無く:あの世に渡るにあの世なく
※彼々已に空しく:この世あの世を超越し輪廻転生を離れた人
※貪婬を捨離する:ましてや欲望への執着を捨てた人
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[11]209頁、[14]117頁


(386)


思慮深く、貪りなく、安住し、すでになすべきことをなし、心の穢れなく、最上の道理を獲得した人を、我は婆羅門と言う。


He who is thoughtful, blameless, settled, dutiful, without passions, and who has attained the highest end, him I call indeed a Brahmana.


jhāyiṁ virajamāsīnaṁ katakiccamanāsavaṁ, uttamatthamanuppattaṁ tamahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


思惟無垢 所行不漏
上求不起 是謂梵志


思惟(しゆい)垢(く)無(な)く、所行(しょぎょう)は漏(も)れ不(ず)、
上求(じょうぐ)起(おこ)さ不(ざ)る、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※思惟垢無く:正しく考えて汚れなき清らかな心で
※所行は漏れ不:おこないに煩悩はなく
※上求起さ不る:これ以上求めるものがない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[12]159頁


(387)


日は昼に照り、月は夜を照らし、武装した兵士は輝き、婆羅門は思慮して輝き、仏陀は威光をもって、一切の迷妄の闇を照らす。


The sun is bright by day, the moon shines by night, the warrior is bright in his armour, the Brahmana is bright in his meditation; but Buddha, the Awakened, is bright with splendour day and night.


divā tapati ādicco rattimābhāti candimā, sannaddho khattiyo tapati jhāyī tapati brāhmaṇo, atha sabbamahorattiṁ buddho tapati tejasā.


日照於昼 月照於夜
甲兵照軍 禅照道人
仏出天下 照一切冥


日(ひ)は昼(ひる)に照(て)り、月(つき)は夜(よる)に照(て)り、
甲兵(こうへい)は軍(ぐん)を照(て)らし、禅(ぜん)は道人(どうにん)を照(て)らす、
仏(ほとけ)は天下(てんげ)に出(い)で、一切(いっさい)の冥(みょう)を照(て)らす。


※甲兵は軍を照らし:武装した兵士は軍を強化し
※禅:こころ静かに集中させる、禅定
※道人を照らす:仏道修行者を悟りの境地にみちびく
※天下に出で:この世の中に生まれ
※一切の冥を照らす:一切の暗闇(煩悩)を仏の光によりあきらかにする


[01]234頁、[08]222頁、[09]33頁、[10]47頁、[12]162頁、[14]46頁


(388)


諸悪を除き去るが故に婆羅門なり、静かな行いであるから沙門と言われ、己の汚れを除き去るが故に出家と言われる。


Because a man is rid of evil, therefore he is called Brahmana; because he walks quietly, therefore he is called Samana; because he has sent away his own impurities, therefore he is called Pravragita (Pabbagita, a pilgrim).


bāhitapāpoti brāhmaṇo samacariyā samaṇoti vuccati, pabbājayamattano malaṁ tasmā pabbajito ti vuccati.


出悪為梵志 入正為沙門
棄我衆穢行 是則為捨家


悪(あく)を出(い)ずるを梵志(ぼんし)と為(な)し、正(しょう)に入(い)るを沙門(しゃもん)と為(な)し、
我(わ)が衆(もろもろ)の穢行(えぎょう)を棄(す)つるを、是(こ)れを則(すなわ)ち捨家(しゃけ)と為(な)す。


※悪を出ずる:悪行をはなれる
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)
※正に入る:正道(仏の道)を学ぶ
※沙門:男性修行者、比丘(びく)
※我が衆の穢行を棄つるを:自らの多くのけがれたおこないをすてる
※捨家:出家者


[02]354頁、[12]162頁、[17]291頁、[22]215頁


(389)


婆羅門を打つな、打たれた婆羅門は怒りを放つな、婆羅門を打つものは災いにあい、打たれて怒りを放つ者もまた災いにあう。


No one should attack a Brahmana, but no Brahmana (if attacked) should let himself fly at his aggressor! Woe to him who strikes a Brahmana, more woe to him who flies at his aggressor!


na brāhmaṇassa pahareyya nāssa muñcetha brāhmaṇo, dhī brāhmaṇassa hantāraṁ tato dhī y’ assa muñcati.


不捶梵志 不放梵志
咄捶梵志 放者亦咄


梵志(ぼんし)を捶(う)た不(ざ)れ、梵志(ぼんし)を放(はな)た不(ざ)れ、
咄(しか)るなり、梵志(ぼんし)を捶(う)つものは、放(はな)つ者(もの)は亦(また)咄(しか)るなり。


※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)
※捶た不れ:むち打ってはならない
※梵志を放た不れ:バラモンは怒りを放ってはならない
※咄るなり梵志を捶つものは:バラモンをむち打つ者は災いにあい
※放つ者は亦咄るなり:むち打たれて怒りを放つ者もまた災いにあう


(390)


愛欲に対して心を抑止するのは、これ婆羅門の少なからざる勝れたことである、他人を害する思いが無くなるにつれて苦しみも無くなる。


It advantages a Brahmana not a little if he holds his mind back from the pleasures of life; when all wish to injure has vanished, pain will cease.


na brāhmaṇass’ etad akiñci seyyo yadā nisedho manaso piyehi, yato yato hiṁsamano nivattati tato tato sammati-m-eva dukkhaṁ.


若猗於愛 心無所著
已捨已正 是滅衆苦


若(も)し愛(あい)に猗(よ)りて、心(こころ)に著(じゃく)する所(ところ)無(な)く、
已(すで)に捨(す)て已(すで)に正(ただ)しくば、是(これ)衆苦(しゅく)を滅(めっ)する。


※愛に猗りて:愛欲に頼っても
※心に著する所無く:こころに執着することなく
※已に捨て已に正しくば:すでに煩悩を捨てすでに正道(仏の道)に入れば
※衆苦を滅する:多くの苦しみをなくす


(391)


身体と言葉と心にて悪を造らず、この三つの事を護る人を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who does not offend by body, word, or thought, and is controlled on these three points.


yassa kāyena vācāya manasā natthi dukkaṭaṁ, saṁvutaṁ tīhi ṭhānehi tamahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


身口与意 浄無過失
能摂三行 是謂梵志


身(しん)と口(く)と意(い)与(と)に、浄(きよ)くして過失(かしつ)無(な)く、
能(よ)く三行(さんぎょう)を摂(しょう)する、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※身と口と意:我が身と言葉とこころ
※過失:あやまち
※三行を摂する:我が身と言葉とこころをおさめる
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[10]164頁、[14]180頁、[17]292頁


(392)


仏の説かれた教えを説き示す者があれば、人は彼を恭しく礼拝すべし、あたかも婆羅門が祭火を崇拝するように。


After a man has once understood the law as taught by the Well-awakened (Buddha), let him worship it carefully, as the Brahmana worships the sacrificial fire.


yamhā dhammaṁ vijāneyya sammāsambuddhadesitaṁ, sakkaccaṁ taṁ namasseyya aggihuttaṁ va brāhmaṇo.


若心曉了 仏所説法
観心自帰 浄於為水


若(も)し心(こころ)に、仏(ほとけ)の所説(しょせつ)の法(ほう)を曉了(ぎょうりょう)し、
観心(かんじん)して自帰(じき)せば、水(みず)を為(おさむ)るより浄(きよ)し。


※仏の所説の法を曉了し:仏の説いた法を理解しさとり
※観心して自帰せば:真理をあきらかに観て自らのよりどころとすれば
※水を為るより浄し:清らかな水のようになる


[14]170頁


(393)


婆羅門は、結髪によるものでなく、家柄によるものでなく、出生によるものでもない、真実と真理とを有すれば、彼は安楽であり、彼は婆羅門である。


A man does not become a Brahmana by his platted hair, by his family, or by birth; in whom there is truth and righteousness, he is blessed, he is a Brahmana.


na jaṭāhi na gottena na jaccā hoti brāhmaṇo, yamhi saccañca dhammo ca so sucī so ca brāhmaṇo.


非族結髮 名為梵志
誠行法行 清白則賢


族(ぞく)と結髮(けっぱつ)と、名(な)づけて梵志(ぼんし)と為(な)すに非(あら)ず、
誠行(じょうぎょう)と法行(ほうぎょう)、清白(しょうびゃく)ならば則(すなわ)ち賢(けん)なり。


※族:族姓や階級
※結髮:螺髪、螺貝のように髪を結う
※名づけて梵志と為すに非ず:だからといってバラモンではない
※誠行と法行:誠実な行いと仏法の行い
※清白:清廉潔白
※賢:賢者、バラモン


[12]140頁、[14]66頁、[19]204頁


(394)


愚か者よ、結髮して何になる、鹿皮の衣を着て何になる、汝は内部に密林(執着)ありて、外部を飾り立てる。


What is the use of platted hair, O fool! what of the raiment of goat-skins? Within thee there is ravening, but the outside thou makest clean.


kiṁ te jaṭāhi dummedha kiṁ te ajinasāṭiyā, abbhantaraṁ te gahanaṁ bāhiraṁ parimajjasi.


飾髪無慧 草衣何施
内不離著 外捨何益


飾髪(じきはつ)も慧(え)無(な)くんば、草衣(そうえ)も何(なに)をか施(ほどこ)さん、
内(うち)に著(じゃく)を離(はな)れ不(ず)んば、外(そと)に捨(す)つるも何(なん)の益(やく)あらん。


※飾髪も慧無くんば:髪飾りをつけても智慧がなければ
※草衣も何をか施さん:修行者がまとう粗末な衣を着ても何の役にもたたない
※内に著を離れ不んば:内心に執着を離れなければ
※外に捨つるも何の益あらん:いくら外観を執着無く装っても何の利益もない


(395)


糞掃衣を着て、痩せて、血管が浮き出て、独り森の中で、瞑想する人を、我は婆羅門と言う。


The man who wears dirty raiments, who is emaciated and covered with veins, who lives alone in the forest, and meditates, him I call indeed a Brahmana.


paṁsukūladharaṁ jantuṁ kisaṁ dhamanisanthataṁ, ekaṁ vanasmiṁ jhāyantaṁ tamahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


被服弊悪 躬承法行
閑居思惟 是謂梵志


被服(ひふく)は弊悪(へいあく)なるも、躬(み)に法(ほう)を承(う)けて行(おこ)ない、
閑居(かんきょ)思惟(しゆい)す、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※被服は弊悪なるも:衣服がぼろきれを集めた粗末なもの(糞掃衣)でも
※躬に法を承けて行ない:我が身は仏法に従い修行し
※閑居思惟す:世俗を離れて暮らし正しく考える
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[15]82頁、[21]392頁


(396)


出生により、母の家柄により、我は婆羅門と言わず、彼は婆羅門に対しても、君よ、と敬意を示さない者であり、彼は実に所有物に執着している者である、無所有であり無執着である人を、我は婆羅門と言う。


I do not call a man a Brahmana because of his origin or of his mother. He is indeed arrogant, and he is wealthy: but the poor, who is free from all attachments, him I call indeed a Brahmana.


na cāhaṁ brāhmaṇaṁ brūmi, yonijaṁ mattisambhavaṁ; bhovādi nāma so hoti, sa ve hoti sakiñcano, akiñcanaṁ anādānaṁ tamahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


仏不教彼 讃己自称
如諦不妄 是為梵志


仏(ほとけ)は彼(かれ)をして、己(おのれ)を讃(さん)じて自称(じしょう)せ教(し)めず、
諦(たい)の如(ごと)く妄(もう)なら不(ざ)るを、是(これ)を梵志(ぼんし)と為(な)す。


※仏は彼をして:仏は自分自身の
※己を讃じて自称せ教めず:自分の家柄や身分階級などをたたえ自慢することはない
※諦の如く妄なら不る:四聖諦 (苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理を観てうそ、いつわりのないこと
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[22]216頁


(397)


一切の束縛を断ち切り、決して恐れることなく、執着を去り、とらわれから離れた人を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who has cut all fetters, who never trembles, is independent and unshackled.


sabbasaṁyojanaṁ chetvā yo ve na paritassati, saṁgātigaṁ visaṁyuttaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


絶諸可欲 不婬其志
委棄欲数 是謂梵志


諸(もろもろ)の欲(ほっ)す可(べ)きを絶(た)ち、其(その)志(こころざし)を婬(いん)せ不(ず)、
欲数(よくす)を委棄(いき)する、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※諸の欲す可きを絶ち:すべての欲を断ち
※其志を婬せ不:そのこころざしを乱さず
※欲数を委棄する:かずかずの欲を捨ててかえりみることない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[12]160頁


(398)


紐(怒り)と、帯(愛執)と、繩(邪見)と、その付属(煩悩)とを断ち、障害(無明)を取り除き、目覚めた人を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who has cut the strap and the thong, the chain with all that pertains to it, who has burst the bar, and is awakened.


chetvā naddhiṁ varattañca sandānaṁ sahanukkamaṁ, ukkhittapalighaṁ buddhaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


断生死河 能忍超度
自覚出塹 是謂梵志


生死(しょうじ)の河(かわ)を断(た)ち、能(よ)く忍(しの)んで超度(ちょうど)し、
自覚(じかく)塹(ざん)を出(い)ずる、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※生死の河:輪廻転生する迷いの世界
※能く忍んで超度し:よく忍んで悟りの境地に至る
※自覚塹を出ずる:自分自身をあきらかに観て無明の穴から抜け出る
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[17]293頁、[21]394頁


(399)


悪を為していないのに、罵倒され、殴られ、また拘禁されても、耐え忍び、忍耐力を備えた強い軍隊を持つ人を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who, though he has committed no offence, endures reproach, bonds, and stripes, who has endurance for his force, and strength for his army.


akkosaṁ vadhabandhañca aduṭṭho yo titikkhati, khantībalaṁ balānīkaṁ tamahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


見罵見撃 嘿受不怒
有忍辱力 是謂梵志


罵(ののし)見(られ)撃(う)た見(るる)も、嘿受(もくじゅ)して怒(いか)ら不(ず)、
忍辱(にんにく)の力(ちから)有(あ)る、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※罵見撃た見も:ののしられむち打たれても
※嘿受:黙って受け入れ
※忍辱:屈辱や苦しみを耐え忍ぶ
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[10]68頁、[12]160頁、[15]170頁、[21]396頁


(400)


怒りなく、禁戒を守り、戒律を保ち、貪欲なく、制御して、最後の身体(輪廻転生することがない)に達した人を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who is free from anger, dutiful, virtuous, without appetite, who is subdued, and has received his last body.


akkodhanaṁ vatavantaṁ sīlavantaṁ anussadaṁ, dantaṁ antimasārīraṁ tamahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


若見侵欺 但念守戒
端身自調 是謂梵志


若(も)し侵(おか)し欺(あざむ)か見(るる)も、但(た)だ念(ねん)じて戒(かい)を守(まも)り、
身(み)を端(ただ)しくし自(みずか)らを調(おさ)むる、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※侵し欺か見も:侵害されて騙されても
※念じて戒を守り:仏を思い戒律を守り
※身を端しくし自らを調むる:この身を正しく自らをよくととのえる
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[12]161頁、[17]294頁、[25]162頁


(401)


蓮の葉の上の水のように、錐先の芥子粒のように、欲望に穢されない人を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who does not cling to pleasures, like water on a lotus leaf, like a mustard seed on the point of a needle.


vāri pokkharapatte va āraggeriva sāsapo, yo na limpati kāmesu tamahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


心棄悪法 如蛇脱皮
不為欲汚 是謂梵志


心(こころ)に悪法(あくほう)を棄(す)て、蛇(へび)の皮(かわ)を脱(だっ)する如(ごと)く、
欲(よく)汚(けが)れを為(な)さ不(ざ)る、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※蛇の皮を脱する如く:蛇がためらうことなく脱皮するように
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[11]212頁


(402)


現世に於いて、己の苦しみの滅尽を知り、重い荷物を降ろし、とらわれない人、我は彼を婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who, even here, knows the end of his suffering, has put down his burden, and is unshackled.


yo dukkhassa pajānāti idh eva khayamattano, pannabhāraṁ visaṁyuttaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


覚生為苦 従是滅意
能下重担 是謂梵志


生(しょう)の苦(く)為(た)るを覚(さと)り、是(これ)に従(したが)い意(い)を滅(めっ)し、
能(よ)く重担(じゅうたん)を下(おろ)す、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※生の苦為るを覚り:生きることは苦しみであるとさとり
※意を滅し:執着のこころをなくし
※能く重担を下す:あたかも重い荷をおろすようにとらわれから離れる
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[11]214頁


(403)


深い智慧あり、聰明にして、正道と邪道とを理解し、悟りの境地に達した者を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana whose knowledge is deep, who possesses wisdom, who knows the right way and the wrong, and has attained the highest end.


gambhīrapaññaṁ medhāviṁ maggāmaggassa kovidaṁ, uttamatthamanuppattaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


解微妙慧 辨道不道
体行上義 是謂梵志


微妙(みみょう)の慧(え)を解(さと)し、道(どう)と不道(ふどう)とを辨(べん)じ、
上義(じょうぎ)を体行(たいぎょう)する、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※微妙の慧を解し:奥深くすぐれた智慧を理解し
※道と不道とを辨じ:仏の道と邪道とを区別する
※上義を体行する:悟りの境地を体得する
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[10]66頁、[14]50頁、[20]141頁


(404)


在家者とも出家者ともいずれにも交わらず、定住する所なく、少欲なる人を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who keeps aloof both from laymen and from mendicants, who frequents no houses, and has but few desires.


asaṁsaṭṭhaṁ gahaṭṭhehi anāgārehi cūbhayaṁ, anokasārimappicchaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


棄捐家居 無家之畏
少求寡欲 是謂梵志


家居(こけ)と無家(むけ)之(の)畏(い)とを棄捐(きえん)し、
少求(しょうきゅう)にして寡欲(かよく)なる、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※家居と無家之畏とを棄捐し:在家者でも出家者でも畏れを捨ててかえりみない
※少求にして寡欲なる:すこしを求めて欲がすくない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


(405)


弱い生き物とか強い生き物とかに関わらず、暴力を捨て、自ら殺さず、他人に殺させない、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who finds no fault with other beings, whether feeble or strong, and does not kill nor cause slaughter.


nidhāya daṇḍaṁ bhūtesu tasesu thāvaresu ca, yo na hanti na ghāteti tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


棄放活生 無賊害心
無所嬈悩 是謂梵志


活生(かつしょう)を棄放(きほう)して、賊害(ぞくがい)の心(こころ)無(な)く、
嬈悩(にょうのう)する所(ところ)無(な)きを、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※活生を棄放して:俗世間の生活をすてて
※賊害:他人を害する
※嬈悩する:わずらわしく悩ます
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[03]192頁、[08]48頁、[09]20頁、[11]169頁、[14]142頁、[27]184頁


(406)


争いの中にあって争わず、暴力の中にあって怒らず、執着の中にあって執着しない人、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who is tolerant with the intolerant, mild with fault-finders, and free from passion among the passionate.


aviruddhaṁ viruddhesu attadaṇḍesu nibbutaṁ, sādānesu anādānaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


避争不争 犯而不熅
悪来善待 是謂梵志


争(あらそ)いを避(さ)けて争(あらそ)わ不(ず)、犯(おか)すも而(しか)も熅(いか)ら不(ず)、
悪(あく)を来(き)たるを善(ぜん)に待(ま)つ、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※犯すも而も熅ら不:傷つけられても怒らず
※悪を来たるを善に待つ:悪事を受けても善のこころで待ち受ける
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[06]47頁、[17]295頁、[22]118頁、[27]184頁


(407)


貪欲と瞋恚と慢心と覆(罪を隠す心)を離れること、芥子粒が錐先より落ちるように、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana from whom anger and hatred, pride and envy have dropt like a mustard seed from the point of a needle.


yassa rāgo ca doso ca māno makkho ca pātito, sāsapo-r-iva āraggā tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


去婬怒癡 驕慢諸悪
如蛇脱皮 是謂梵志


婬(いん)と怒(ぬ)と癡(ち)と、驕慢(きょうまん)の諸悪(しょあく)を去(さ)り、
蛇(へび)の皮(かわ)を脱(だっ)する如(ごと)き、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※婬と怒と癡:むさぼり・いかり・愚癡
※驕慢の諸悪を去り:おごりたかぶる心の一切の悪行を去り
※蛇の皮を脱する如き:蛇がためらうことなく脱皮するように
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[17]296頁


(408)


麁(あらい、粗雑)にならず、教訓となる真実の言葉を語り、その言葉により誰も害さない人を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who utters true speech, instructive and free from harshness, so that he offend no one.


akakkasaṁ viññāpaniṁ giraṁ saccamudīraye, yāya nābhisaje kañci tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


断絶世事 口無麁言
八道審諦 是謂梵志


世事(せじ)を断絶(だんぜつ)し、口(く)に麁言(そごん)無(な)く、
八道(はちどう)を審(つまびら)かに諦(あき)らる、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※世事を断絶し:世の中の事がらを断ち切り
※口に麁言無く:荒々しい言葉を口にしない
※八道:八つの正なる道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)
※審かに諦らる:こまかな点まで詳しく調べてあきらかにする
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[02]361頁、[10]70頁、[14]182頁、[17]297頁、[25]236頁


(409)


この世に於いて、長いとか短いとか、大きいとか小さいとか、浄とか不浄とかに関わらず、与えられていない物を取らない人、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who takes nothing in the world that is not given him, be it long or short, small or large, good or bad.


yodha dīghaṁ va rassaṁ vā aṇuṁ thūlaṁ subhāsubhaṁ, loke adinnaṁ nādiyati tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


所世悪法 修短巨細
無取無捨 是謂梵志


世(よ)の悪法(あくほうと)する所(ところ)、修短(しゅたん)と巨細(こさい)、
取(しゅ)無(な)く捨(しゃ)無(な)き、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※修短と巨細:長い短いとか大きい小さいに関わらず、差別なく
※取無く捨無き:取ること無く捨てること無く、執着がない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[14]78頁


(410)


今世に於いても後世に於いても、願わず、希望なく、束縛を離れる人、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who fosters no desires for this world or for the next, has no inclinations, and is unshackled.


āsā yassa na vijjanti asmiṁ loke paramhi ca, nirāsāsaṁ visaṁyuttaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


今世行浄 後世無穢
無習無捨 是謂梵志


今世(こんぜ)の行(ぎょう)浄(きよ)くして、後世(ごせ)に穢(けが)れ無(な)く、
習(しゅう)無(な)く捨(しゃ)無(な)き、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※今世の行浄くして:いまの世の行い清くして
※後世に穢れ無く:のちの世にけがれなく
※習無く捨無き:俗世間の慣習にとらわれることなく捨てること無く、煩悩がない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[11]210頁、[14]117頁


(411)


執着なく、真理を諦観して、疑いなく、甘露(涅槃)の底に達した人、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who has no interests, and when he has understood (the truth), does not say How, how? and who has reached the depth of the Immortal.


yass’ ālayā na vijjanti aññāya akathaṁkathī, amatogadhamanuppattaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


棄身無猗 不誦異言
行甘露滅 是謂梵志


身(み)を棄(す)てて猗(よ)る無(な)く、異言(いごん)を誦(じゅ)せ不(ず)、
甘露(かんろ)の滅(めつ)を行(ぎょう)ず、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※身を棄てて猗る無く:身体への執着をすててたよることなく
※異言を誦せ不:間違った教えを唱えず
※甘露の滅を行ず:生死の迷いの因果を滅して涅槃(悟りの境地)に至るため修行する
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[11]211頁


(412)


この世に於いて、幸福と罪悪との両面に、執着することなく、憂いなく、貪欲を離れ、清浄なれば、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who in this world is above good and evil, above the bondage of both, free from grief from sin, and from impurity.


yo ‘dha puññañca pāpañca ubho saṁgam upaccagā, asokaṁ virajaṁ suddhaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


於罪与福 両行永除
無憂無塵 是謂梵志


罪(ざい)と福(ふく)与(と)に於(お)いて、両行(りょうぎょう)永(なが)く除(のぞ)き、
憂(うれ)い無(な)く塵(ちり)無(な)き、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※罪と福:罪悪と幸福、善悪
※両行永く除き:俗世間におけるこの両面に執着する心を永くなくし
※塵:よごれ
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[14]175頁、[25]238頁


(413)


曇りなき月のように、清く澄み、明るく、歓楽の生存の滅尽した人、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who is bright like the moon, pure, serene, undisturbed, and in whom all gaiety is extinct.


candaṁ va vimalaṁ suddhaṁ vippasannam anāvilaṁ, nandībhavaparikkhīṇaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


心喜無垢 如月盛満
謗毀已除 是謂梵志


心(こころ)喜(よろこ)び垢(く)無(な)く、月(つき)の盛(さか)んに満(み)つる如(ごと)く、
謗毀(ぼうき)已(すで)に除(のぞ)く、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※垢:よごれ
※月の盛んに満つる如く:夜空に満月がこうこうと輝くように
※謗毀已に除く:他人をそしり、けなすことはすでになく
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[17]298頁、[25]240頁


(414)


この泥沼の険しい道(煩悩)と輪廻と癡を越え、すでに渡り、彼岸に達し、禅定し、貪欲なく、疑いなく、執着なく、安穩なれば、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who has traversed this miry road, the impassable world and its vanity, who has gone through, and reached the other shore, is thoughtful, guileless, free from doubts, free from attachment, and content.


yo ‘maṁ palipathaṁ duggaṁ saṁsāraṁ mohamaccagā, tiṇṇo pāraṁgato jhāyī anejo akathaṁkathī, anupādāya nibbuto tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


見癡往来 墮塹受苦
欲単渡岸 不好他語
唯滅不起 是謂梵志


癡(ち)の往来(おうらい)して、塹(ざん)に墮(お)ちて苦(く)を受(う)くるを見(み)、
単(ひと)り岸(きし)に渡(わた)らんと欲(ほっ)し、他語(たご)を好(この)ま不(ず)、
唯(ただ)滅(めっ)して起(おこ)ら不(ざ)る、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※癡の往来して:おろかに迷い
※塹に墮ちて:欲望の穴に落ちて
※単り岸に渡らんと欲し:涅槃に渡ろうと思い
※他語を好ま不:他人を非難する言葉を好まず
※唯滅して起ら不る:ただ生死の迷いの因果を滅して涅槃に至り再び迷わない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


(415)


今世に於いて諸々の愛欲を断ち、出家して遍歴し、愛欲の存在を尽くせば、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who in this world, leaving all desires, travels about without a home, and in whom all concupiscence is extinct.


yo ‘dha kāme pahantvāna anāgāro paribbaje, kāmabhavaparikkhīṇaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


若能棄欲 去家捨愛
以断欲漏 是謂梵志


若(も)し能(よ)く欲(よく)を棄(す)て、家(いえ)を去(さ)り愛(あい)を捨(す)て、
以(もっ)て欲漏(よくろ)を断(た)つ、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※家を去り愛を捨て:出家して愛欲を捨て
※欲漏を断つ:煩悩を断つ
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[14]83頁、[21]398頁


(416)


今世に於いて諸々の愛執を断ち、出家して遍歴し、渇愛の存在を尽くせば、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who, leaving all longings, travels about without a home, and in whom all covetousness is extinct.


yo ‘dha taṇhaṁ pahantvāna anāgāro paribbaje, taṇhābhavaparikkhīṇaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


已断恩愛 離家無欲
愛有已尽 是謂梵志


已(すで)に恩愛(おんあい)を断(た)ち、家(いえ)を離(はな)れ欲(よく)無(な)く、
愛有(あいう)已(すで)に尽(つ)く、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※恩愛:愛情に対する執着
※家を離れ:出家して
※愛有已に尽く:渇愛有ることすでに尽きる
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


(417)


人間界の束縛を断ち、天界の束縛を超え、一切の束縛から離れた人、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who, after leaving all bondage to men, has risen above all bondage to the gods, and is free from all and every bondage.


hitvā mānusakaṁ yogaṁ dibbaṁ yogaṁ upaccagā, sabbayogavisaṁyuttaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


離人聚処 不墮天聚
諸聚不帰 是謂梵志


人聚(にんじゅ)の処(ところ)を離(はな)れ、天聚(てんじゅ)に墮(だ)せ不(ず)、
諸聚(しょじゅ)に帰(き)せ不(ず)、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※人聚の処を離れ:人間界をはなれ
※天聚に墮せ不:天人の世界に産まれず
※諸聚に帰せ不:地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界に帰らない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


(418)


快楽と不楽とを捨て、清涼にして、煩悩がなく、一切の世間に勝つ勇者を、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who has left what gives pleasure and what gives pain, who is cold, and free from all germs (of renewed life), the hero who has conquered all the worlds.


hitvā ratiñca aratiñca sītibhūtaṁ nirūpadhiṁ, sabbalokābhibhuṁ vīraṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


棄楽無楽 滅無熅燸
健違諸世 是謂梵志


楽(らく)と楽(らく)無(な)きとを棄(す)て、滅(めっ)して熅燸(おんじゅ)無(な)く、
健(ごん)にして諸世(しょせ)に違(たが)う、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※楽と楽無きとを棄て:快楽と不楽とをすて
※滅して熅燸無く:迷いなく煩悩のぬくもりなく
※健:勇者
※諸世に違う:六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の世界)を離れる
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[26]200頁


(419)


一切の生きとし生けるものの死と生とを知り、執着なく、幸福にして、覚った人、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who knows the destruction and the return of beings everywhere, who is free from bondage, welfaring (Sugata), and awakened (Buddha).


cutiṁ yo vedi sattānaṁ upapattiñca sabbaso, asattaṁ sugataṁ buddhaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


所生已訖 死無所趣
覚安無依 是謂梵志


所生(しょしょう)已(すで)に訖(お)わり、死(し)して趣(おもむ)く所(ところ)無(な)く、
覚(かく)、安(あん)、依(よ)る無(な)き、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※所生已に訖わり:輪廻転生を離れ、どこに生まれるということはなく
※死して趣く所無く:死んでどこへ行くということもない
※覚、安、依る無き:さとりを得て、安泰で、執着なき者
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[06]232頁、[21]400頁


(420)


心の穢れなき阿羅漢の行方は、神々も健闥婆(ガンダルバ、鬼神)も人間も知らず、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana whose path the gods do not know, nor spirits (Gandharvas), nor men, whose passions are extinct, and who is an Arhat (venerable).


yassa gatiṁ na jānanti devā gandhabbamānusā, khīṇāsavaṁ arahantaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


已度五道 莫知所墮
習尽無余 是謂梵志


已(すで)に五道(ごどう)を度(わた)り、墮(だ)する所(ところ)知(し)る莫(な)く、
習(しゅう)尽(つ)きて余(あま)り無(な)く、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※五道を度り:地獄・餓鬼・畜生・人間・天上の五道を渡り
※墮する所知る莫く:もはや生れ落ちることはない
※習尽きて余り無く:悪業の習慣は尽きて残りなく
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[01]124頁、[02]366頁


(421)


初め(過去)にも後(未来)にも中(現在)にも、少しも所有することなく、無一物で執着のない人、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who calls nothing his own, whether it be before, behind, or between, who is poor, and free from the love of the world.


yassa pure ca pacchā ca majjhe ca natthi kiñcanaṁ, akiñcanaṁ anādānaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


于前于後 乃中無有
無操無捨 是謂梵志


前(まえ)于(に)後(あと)于(に)、乃(およ)び中(ちゅう)に有(あ)る無(な)く、
操(と)る無(な)く捨(す)つる無(な)き、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※前于後于:人生のはじめにも終わりにも
※中に有る無く:その中間にも所有しようとする心は一切なく
※操る無く捨つる無き:その為にあやつることもすてることもない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[06]257頁


(422)


最上の勇猛なる牛王のような人、大仙人、己を克服した者、無欲者、沐浴者(煩悩を洗い去った者)、覚った者、我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana, the manly, the noble, the hero, the great sage, the conqueror, the impassible, the accomplished, the awakened.


usabhaṁ pavaraṁ vīraṁ mahesiṁ vijitāvinaṁ, anejaṁ nhātakaṁ buddhaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


最雄最勇 能自解度
覚意不動 是謂梵志


最雄(さいゆう)最勇(さいゆう)に、能(よ)く自(みずか)ら度(ど)を解(げ)し、
覚意(かくい)の動(うご)か不(ざ)る、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※最雄最勇:最も雄々しく最も勇ましい
※自ら度を解し:自ら迷いの境地から悟りの境地に渡ることを理解し
※覚意の動か不る:さとりのこころは動かない
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[17]299頁


(423)


前世の生存を知り、また天界と地獄とを見、また再生の滅尽を知り、修行を完成した智慧者、すべてが完全清浄なる境地に至る人、彼を我は婆羅門と言う。


Him I call indeed a Brahmana who knows his former abodes, who sees heaven and hell, has reached the end of births, is perfect in knowledge, a sage, and whose perfections are all perfect.


pubbenivāsaṁ yo vedi saggāpāyañ ca passata, atho jātikkhayaṁ patto abhiññā vosito muni, sabbavositavosānaṁ tam ahaṁ brūmi brāhmaṇaṁ.


自知宿命 本所更来
得要生尽 叡通道玄
明如能黙 是謂梵志


自(みずか)ら宿命(しゅくめい)の本(もと)と更来(さいらい)する所(ところ)を知(し)り、
生(しょう)の尽(つ)くるを要(ま)つを得(え)、道玄(どうげん)に叡通(えいつう)し、
明(みょう)は能黙(のうもく)の如(ごと)き、是(これ)を梵志(ぼんし)と謂(い)う。


※自ら宿命の本と:自らの前世のおおもとと
※更来する所を知り:いかに輪廻転生してきたかを知り
※生の尽くるを要つを得:いのち尽きる時をむかえて
※道玄に叡通し:叡智は深い真理に通じ
※明は能黙の如き:智慧は悟りの境地に至り静かに瞑想するごとき
※梵志:バラモン(婆羅門、悟りの境地に達した者)


[21]402頁、[22]221頁




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